2012年05月07日

新約聖書のたとえ話と隠喩

田川健三が「イエスという男」にこんなことを書いている。

福音書に出てくる比喩物語を、たとえ話(parabel)と隠喩(allgorie)に峻別し、前者のみイエスの言葉で、後者はすべて教団の創作とみなす方法は、今日学界の常識となっている。−「イエスという男」


こういう見方だといろいろ腑に落ちる点が多々ある。たとえばマタイによる福音書20章のぶどう園の賃金の話。これはっきりいって最初読んだ時はまったく意味がわからなかった。一応どういう話か書きますと・・・

ぶどう園の主人が、ぶどう園で働く労働者に1日1デナリオンの賃金を払うという。まず朝の9時ごろ広場にいた人たちを雇う。次に12時に広場にいた人を雇い、15時にいた人も雇う。夕方の17時にいた人も雇う。1日が終わり、17時から働いた人に1デナリオン支払う主人。朝から働いていた人はもっとたくさんもらえるだろうと期待していたら、彼らも1デナリオンしかもらえなかった。それに対して不満を漏らすと、主人は「私はあなたに不当なことは一切していない。1日1デナリオンの約束をしたのだから」

・・・これどう理解していいかわかんないですよね。でもこれをパウロ神学を通してみると意味が浮かび上がってくる。

つまりこれは「功績主義」に対する批判なのだ。パウロはいわゆる「信仰義認」説をとなえた人で、信仰義認というのは「信仰によってのみ、神に義と認められる」という考えのこと。つまり人間ごときの努力や行為によって神の国に入ろうなんてことは不遜以外の何ものでもない。この世のことはすべて神が決める。だから今日朝から一日中働いていたから、神はたくさんご褒美を下さるだろう、なんていう「功績主義」的な考え方はパウロ神学を通すとけしからんということになる。

しかしだ。これはあきらかに田川健三いうところの「隠喩」である。この話自体は当時イエスが実際に話したことかもしれないが、この話の「隠喩」はイエス亡き後、原始教団が宣教のために作り上げた創作に過ぎない。イエス本人は「信仰義認」による「功績主義」否定なんて教えは説いていないのだ。

当時イエスは教育を受けていない貧しい人たちや庶民相手に説教していたわけで、こんな小難しい隠喩を話に込めていたはずがない。となると、このたとえ話をイエスはどんな意味で話したのか。

田川はこれを社会的平等のたとえ話だとする。たくさん働いたから人よりたくさんもらえるという考えは格差を生む。今日一日仕事にあぶれた人も、仕事を持っている人も、等しく生きる権利がある。というたとえ話だというのだ。

これは結構ラディカルなたとえ話ではないでしょうか。当時資本主義的な傾向を持ちつつあった社会に対しての明確な否定。つまり労働の量や質で、貧富の差が出ることに対しての批判である。

イエスの考えを単純に現世否定、来世肯定ととらえてはいけない。この現実の世界にはなんの意味も価値もない。ただ彼岸の神の国だけに価値がある。という考えは、真逆の考えー現状肯定という考えを生み出してしまうからだ。神の国がすべてなら、今いる世界に対しては別に積極的にかかわりあう必要はないという考えになってしまう。

イエスは現世否定ー来世肯定=現状肯定の人では絶対にない。この現実の社会に対して、「アンチ」の考えを持った人であって、この自分たちが生きる世界に対して憤りを感じている人であり、これを変えなくてはならないと思った人だ。
posted by シンジ at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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