「メルエムはイエスである」 ー このことである。
おかしなことを言い出す奴だなと思われるかも知れません。いったいメルエムのどこがイエスだというのか。私はイエスを「イエス」たらしめているのは三つの愛だと考えます。メルエムはそこに重なるのです。
「イエスの三つの愛」
その一。「贖罪の愛」いけにえ性としての愛
イエスはほとんどいいがかりのような罪をきせられ、無残にも十字架上で処刑された。一時はイエスをメシアと持ち上げた民衆からは足蹴にされ、イエスを慕った弟子たちもみなイエスを裏切った(裏切ったのはイスカリオテのユダだけではない)。十字架にかけられたとき、イエスはなんと言ったか。
「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23・34)
イエスは自分を死刑にしろと扇動した民衆を赦し、裏切った弟子たちをも赦した。キリスト教とはイエスの弟子たちが、このイエスの無残な死を「なぜ?」と問い続けることによってできた宗教だといってよい。弟子たちは考え続けた、なぜイエスは死ななければならなかったのかと。そしてその答えこそ、愚かな私たち人間の罪をあがなうために死んだのだという考えだ。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のためのあがないの代価として、自分の命を与えるためなのです」(マルコ10・45)
愚かな人間たちの積み上げた罪過という名の借金を、イエス自らいけにえとなり、命を捧げることによってその借金を帳消しにしたと考えるのだ。
メルエムもまた愚かで残酷な人間の作り出した悪魔兵器によってその命を奪われつつあるにもかかわらず、それを赦し、そして人間であるコムギを愛する。人類の罪業を赦し、愛し、そして無惨に死ぬのだ。まるで人間の罪をあがなうためのいけにえのように。
その二。「愛敵」範囲性を無化する愛。
スピノザはキリスト教において重要なことは二つしかないという。それは神への愛と隣人愛である。そして神への愛を証明するのは隣人愛しかないという(神学政治論)。では隣人愛とはなんだろうか。隣近所の人を、知人や友人、家族を愛せということだろうか。辻学「隣人愛のはじまり」はそういう考えを根底からひっくり返す。 ー イエスは隣人愛に批判的だったというのだ。
それを如実に示すのがルカによる福音書の有名な良きサマリア人の話だ。
ある日ユダヤ教の律法学者がイエスを試そうと論争を挑む。「永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいでしょうか」。イエスは冷ややかに「律法には何とかかれていますか」と質問をかえす。律法学者は「神を愛し、隣人を愛すことです」と答える。もともと隣人愛の教えはユダヤ教から来ている。
あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいーレビ記19・18
イエスはいかにもめんどくさそうに「ああ、あなたの言ったことはあってるよ」と律法学者を追い払おうとするが、律法学者は食い下がり「では、私の隣人とは誰ですか?」と聞くとついにイエスはブチ切れるのだ!
道ばたに強盗に襲われ半死半生の人が倒れている。そこをユダヤ教の祭司が通りかかったが、無視して行ってしまった。もう一人ユダヤ人がそばを通りかかったが彼も無視して通り過ぎた。だが、通りすがりのサマリア人だけは倒れた人を介抱してやり、宿屋に泊めその代金まで支払った。この三人の中でいったい誰が倒れた人の隣人か?と問うイエス。律法学者はしぶしぶ「その人を助けた人です」と答える。
なぜイエスはサマリア人という具体的な民族をあげたのか。当時サマリア人はユダヤ人に蔑視され差別の対象となっていた人たちだからだ。
ユダヤ人と「隣人関係」にあるとは思えないサマリア人が、民族の垣根を越え、ユダヤ教の掟が命じる隣人愛を実践するという皮肉。「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスの反問の前で、「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の問いが持つ無意味さが露呈する。どのような人間が「隣人」として愛する対象になるのかという律法学者の問いに対してイエスは「隣人」の範囲を限定するという前提そのものを拒むー辻学「隣人愛のはじまり」
ユダヤ教徒は隣人愛を説きながら現実にはサマリア人を、収税人を、娼婦を徹底的に差別していた。イエスにとってユダヤ教の隣人愛とは、愛の範囲を限定する許し難い考えでしかなかったのだ。そこでイエスは隣人愛を批判し、隣人愛の範囲性を打ち砕く究極の思想を説く。それが「汝の敵を愛せ」という思想ー「愛敵」である。
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。ーマタイ5・43ー44
愛敵はまさに隣人愛の範囲性を木っ端微塵に打ち砕く。イエスにとって愛する対象を限定することは馬鹿げたことでしかない。自分の友人や家族を愛することは悪人でもできることではないか。愛の範囲性を無化する愛敵という破壊的な思想。しかし愛敵とは果たして可能なのだろうか。マーティン・ルーサー・キングは愛敵を「おそらくイエスの訓戒の中で「汝の敵を愛せよ」という命令に従うこと以上にむずかしいことはないであろう」という。
だが、この難しく、不可能な決断をした者がいる。自身にとって家畜にも劣る存在であり、同じ種族同士で殺し合うような唾棄すべき敵ー人間を愛したのは誰であったか。種族の違いを超え、敵であることも越えて愛した者は誰か。いうまでもなくメルエムである。
その三。「永遠の愛」時間を無化する愛。
永遠とは何か。永遠とは時間が無限に続くことではない。永遠とは時間を超越していること。無時間性のことである。キリスト教最大の「教父」アウグスティヌスは時間的なものと永遠なものとの違いをこう言っている。
時間的なものは、得られない間は愛されるが、得られるとはなはだしく価値を減じる。永遠なものは、得られたときには欲望の対象であったときよりもいっそう熱烈に愛される。ー省察と箴言
例えるなら、子供がおもちゃを見て「あれが欲しい!」とダダをこねる。泣き叫んでそれを熱烈に欲しがるが、そのおもちゃを手に入れた途端、すぐに興味を失い、放り投げて見向きもしなくなる。時間性の愛とはそれを手に入れた途端、価値がなくなり消え失せるもの。生成し、消滅するものでしかない。
時間とは、生成し、消滅することの繰り返しをいう。もっとくわしく言えば、生成し消滅するのは生命のサイクルで、そのサイクルを「知覚」すると「現在」となり、「期待」すると「未来」になり、「記憶」すると「過去」になる(アウグスティヌス「告白」)。アウグスティヌスは時間は心そのものの延長だといい、コジェーヴは「時間は人間の外には現存在しない。したがって人間が時間であり、時間は人間である」という(ヘーゲル読解入門)。
いうなれば、人間は生成と消滅のサイクルの中にいるかぎり、時間の外に逃れることはできないのだ。だがしかし、そうだからこそ、こういう考えもできる。 ー 人間が時間的存在であり、時間は人間の外には存在せず、時間が心の延長であるなら、心が変われば時間の外に出られるということにはならないだろうか。
そしてそれは実際に可能である。ハンターXハンター30巻中感動必至の名場面がそれである。
メルエム(・・・そうか、余は)
コムギ「ワダすは、きっと この日のために生まれて来ますた・・・!」
メルエム(この瞬間のために生まれて来たのだ・・・!!)
この感動的なシーンはおそらくドストエフスキーのこの場面に影響を受けている。
「ああ、この一瞬のためなら全生涯を投げだしてもいい!」とはっきり意識的に言うことができれば、もちろんこの一瞬それ自体は全生涯に値するものなのである。ードストエフスキー「白痴」
愛が極限まで一点に集中し、この瞬間のために自分は生きてきたと自覚するとき、メルエムとコムギの愛は時間を超越する。たとえ二人が百年生きようと、千年生きようと、その生涯の価値すべてをあわせても、二人が愛するこのほんのわずかな一瞬を上回ることはない。この一瞬こそが、千年を、万年をも超え、時間の外へ飛び出る至高の瞬間なのだ。これが時間を無化する愛。永遠の愛の本当の意味である。
では最後にメルエムがイエスであるという決定的な証拠をお見せします。
ジョヴァンニ・ベリーニ「ピエタ」
ミケランジェロ「サン・ピエトロのピエタ」
メルエムの亡骸を抱くコムギのピエタ
「ピエタ」とは聖母マリアが死んだイエスを十字架からおろして抱く姿である。つまり母親が無惨にも殺された息子をかき抱いているのである。これほど悲しくつらい場面があるだろうか。しかし不思議なことにピエタ像に悲しみや絶望は見られない。なぜならこの愛は生成や消滅といった時間性を超越している愛。永遠の愛だからである。