子供の頃テレビで「電人ザボーガー」を見た記憶はうっすら残っている。しかしどういう話だったのかは、まったくおぼえていないので、ザボーガーをはじめて見る人と同じ感覚で見た。つまりノスタルジーのまったくない状態で見た。だからこの文章に思い出補正は一切かかっていません。なにが言いたいのかというと、思い出補正がかかっていなくてもこの映画は傑作だといいたいのです。
この映画はおもちゃを手にした子供が部屋を散らかすように、楽しいお遊びや、脱線であふれている。井口昇監督やスタッフの楽しげな顔が浮かんでくるようだ。
だが、この作品は三池版「ヤッターマン」のような背骨が抜けた、ふぬけた映画とは根本的に違う。
この映画はいい年した大人たちのノスタルジー込みのお遊び映画のような見せかけとは違い、作品自体をぶっとい芯がつらぬいている。井口昇監督の明確な狙いのある脚本というしっかりした背骨が通っているため、ずっしりとした見応えのある作品になっているのだ。
第一部青年篇の終わりがどんなものだったか思い出してほしい。大門豊は最後苦渋の決断を迫られる。愛するミスボーグ(山崎真美好演!)の側に立つのか、それとも腐敗した人間たちの側に立つのか。
最愛のミスボーグは人類を滅ぼそうとしている、かたや相棒ザボーガーは腐敗した人間たちを守ろうとしている・・・苦悩する大門は決断を下せずミスボーグとザボーガー両方を見殺しにしてしまう。愛も正義もつらぬきとおせなかった男はそのどちらも失うのだ。
すべてを失った大門豊の25年後・・・第二部熟年篇では愛も正義も決断できなかった大門に復讐しにやってくるのは、大門とミスボーグの間にできた実の息子と娘である。25年前、愛を選ばなかった男は愛の結晶ともいうべき自分の子供達と戦うことを強いられるのだ。それが決断できなかった男への罰だといわんばかりに。
愛する娘が巨大ロボとなり人々を虐殺していく。それは大門豊を25年前と同じ状況に立たせる。愛するものを選ぶのか、正義を選ぶのか・・・。大門は25年前できなかった決断をする。
「愛するがゆえにおまえを破壊する!」
俺はここで泣いたよ・・・血は水よりも濃く、愛は何よりも尊い。されど「正義」のために、血を、愛を断ち切ることを決断する大門豊のかわりに泣いたんだ。
これが愛も正義もつらぬけずに、人として死んだ男が25年後に出した答えなのだ。これが泣かずにいられようか。
ラストシーンの大門豊の選択も象徴的だ。大門は愛する子供たちと一緒に暮らそうなどとはみじんも考えない。血より、愛より、正義を選んだ男のすがすがしい別れ。
むろん「正義」はあやふやな概念であり、現代は「正義」が濫用される危険な時代だという懸念もあるだろう。だが、正義というのは
決定不可能なもののみが私に決定すべきものを与えるのであり、そのような決定のみが「正義」なのである。ここでは不可能な決定に身を投ずるというある種の「跳躍=飛躍」が不可避なのであり、「正義」と呼びうる唯一のものは単独の状況における単独の行為だけなのだー「デリダ-なぜ「脱‐構築」は正義なのか」斉藤慶典
上記の「単独の状況における単独の行為」の「跳躍」、すなわち「正義」についての具体的な例をジョン・D・カプートは「デリダとの対話」であげている。1955年アメリカアラバマ州、白人にバスの座席を譲ることを拒否したローザ・パークスのことである。当時はバスの席は白人の席、黒人の席と法律で決められていた。彼女はそれを破ったのだ。法律だけ見ればローザは犯罪者である。だが彼女のその行為は圧倒的に「正義」だ。今そのことを疑うものがいるだろうか。つまり・・・
正義は法に先行する。
正義は法に、規則に、慣習に、文化に、伝統に先行する。映画「電人ザボーガー」に即して言えば、正義は愛や血族といった制度や慣習にも先行し、それを超越する。
この世で何よりも尊いとされる「血のつながり」や「愛」を断ち切るという不可能な決定。血よりも、愛よりも、大事な価値があるということ。すべてをうち捨てても、そこに身を投じるということ。そこには確かに「正義」としか呼びようのない崇高なものがある。
映画「電人ザボーガー」は圧倒的に正義である。それは決断の正義をあますところなく描いているからだ。単独者の単独の行為における「決断のみが正義にかなっている」(J・デリダ「法の力」)