2011年09月29日

神なき世界の恐怖は続く「ゴーストライター」

映画「ゴーストライター」を見た。いきなりだがラストシーンの話からしてもいいだろうか。原稿の紙が宙を舞うラストシーンを見て、映画ファンなら記憶を刺激されたのではないだろうか。

キューブリックの「現金に体を張れ」、アンリ・ヴェルヌイユ「地下室のメロディ」などなど。いずれの作品もラスト、紙幣が散らばり、虚空を舞う(地下室のメロディは水の中だが)。それは悪事の露見、すべての企みが水泡に帰す瞬間。

両作品の一見似通ったラストシーンだが、意味は大きく違う。「現金に体を張れ」、「地下室のメロディ」がしょせん人間の浅知恵では完璧な計画など立てようもないといった人間の傲慢さをあざ笑うような意味合いがあるのに対し、「ゴーストライター」ではこの世を完全に支配する人の悪事は永遠に終わりがないことを示唆する。映像的には似たようなラストシーンでありながら、意味は真逆なのだ。

このラストシーンの違いは小さな問題ではない。前者と後者の作品の間には重要な思想の、観念の決定的な違いがある。

「現金に体を張れ」、「地下室のメロディ」、あるいはジャン=ピエール・メルヴィル監督のほとんどすべての作品に貫かれたある観念とはーどんなに完璧な計画を立てようと、計画したのが人間である以上かならずほころびが出る。人間という動物の知性と理性の限界があらわになる。ーいわば超越的な視点から人間の愚かさを断罪している。

それに対し「ゴーストライター」ではこの世界を完全にコントロールする人間の組織が描かれる。この世の出来事すべてを裏側からあやつる悪の組織。これを単細胞政治バカ、陰謀論者はポランスキーが国際政治の実態を描いてくれた、などと馬鹿げた勘違いをするだろうが(ゴーストライター公式サイトのジャーナリストたちのコメントを見よ)、これらはすべて政治バカを引っかける疑似餌にすぎない。ゴーストライターで描かれることの背景にあるのは、人間の知性や能力に限界はなく、この世界をすべてコントロールできるといった観念に基づいている。

キューブリックやJ=P・メルヴィルは人間の限界、知性の限界を、愚かな人間をあざ笑うかのような超越的視点で描く。その超越的視点こそ人間を断罪する人知の及ばないものー神の存在に他ならない。

人間は天まで届くバベルの塔を建てようとして、神の怒りをかい、お互いの話す言葉を変えられた。知性や知識に絶対の自信を持った人間の傲慢さに神は罰を下したのだ。人知に対する絶対の確信はかならずほころびをみせ崩壊する。人間の傲慢さに対する神からの断罪。

先に書いたように、「ゴーストライター」でのアメリカやCIAといったフックは陰謀論者が大好物の疑似餌でしかない。「ゴーストライター」におけるCIAはいわば、すべての現象の背後にいて、この世の出来事を裏側からあやつる全知全能の存在のメタファーなのだ。

つまり「ゴーストライター」の世界では、アメリカ、CIAが神の肩代わりをしてこの世界を支配するということ。それはこの世界の神の不在を示す。

人間の知性の限界は世界に神を要請し、人間の知性の万能を認める立場は世界から神を排除する。それが両者の作品を分ける決定的な違いといえる。

キューブリック、メルヴィルは人知の限界を描き、超越的視点によって人間を断罪する。だがポランスキーの世界に、もはや人間を断罪するものは存在しない。傲慢な人間に罰をくだす神はどこにもいないのだ。

そこに神がいない以上、悪事は露見せず、断罪もされない。「ゴーストライター」は神なき世界の終わりなき恐怖を描いているのだ。


追記・確かキューブリックとメルヴィルは無神論者だったような。・・・まぁ強弁するなら、“あえて”自分は無神論者と言うことは、自分が強い宗教的文化、生活、社会の影響下にいるということの宣言に他ならない・・・ということで。
posted by シンジ at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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