かたや12世紀神聖ローマ帝国期を舞台に繰り広げられる奇想天外な冒険譚。かたや現代香港の黒社会を描くヤクザ映画。
「エレクション」とはこんな映画だ。・・・香港黒社会の一大組織「和連勝会」は2年に一度会長選挙が行われる。会長となったものに授けられる「竜頭棍」は権力の象徴。会長候補たちは「竜頭棍」をめぐって争いあう。
「エレクション」を見るとただの棒きれでしかない「竜頭棍」をめぐって、なぜ殺し合いをしなきゃならないんだと思う人もいるだろう。棒きれなんて無視して、粛々と会長選挙を進めればいいじゃないかと。
だが、それは違う。竜頭棍は「象徴」である。そして「象徴」というのはそもそも意味がないものなのだ。意味がない空っぽのものだからこそ、その空っぽの器に人間の欲望を際限なく注ぎ込むことができる。竜頭棍が意味のない棒きれだからこそ、その意味は無限に大きくなるのだ。
たとえば「結婚指輪」。愛する女性に愛の契約の象徴として、何か役に立つもの、意味のあるものを渡すとする(掃除機や冷蔵庫など)、はっきりいってそれは愛の契約の証とはならないだろう。愛の証は、なんの意味もない、それ自体は有用性のないもの(指輪など)を贈ることによって、はじめて意味を持つのだ。
有用性のないもの、意味のないものにこそ、拘束力のある象徴的な力が宿る。
そしてなによりも「象徴」に従うということは、同じゲームのルールに従うことでもある。
竜頭棍を手にした男を、いままで対等だった組織の男たちが「契父」として敬い従うシーンは象徴的である。彼らとて竜頭棍に神秘的な力があるなどとは信じていまい。しかし竜頭棍に象徴されるゲームのルールに皆が従うということに意味が生じる。
竜頭棍に神秘的な力があるから、皆がルールに従うのではない。皆がルールに従うからこそ竜頭棍に力(=意味)が生まれるのだ。
この関係は「バウドリーノ」でも一緒だ。
12世紀神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサ(赤ひげ)ことフリードリヒ1世の養子バウドリーノは司祭ヨハネの手紙をでっちあげたり、「グラダーレ」なるイエス・キリストの杯を捏造したりする。それはなぜか。
それらはすべて象徴の争いのためである。
時はローマ教皇アレクサンデル3世の教権と皇帝フリードリヒの帝権との対立の真っ直中。フリードリヒにどんな強大な軍事力があろうとも、ローマ教皇の権威に抗うことはできない。ヨーロッパ世界はまさにキリスト教のゲームのルールで動いているのだ。
そこにローマ教皇の権威に対抗することのできる権威があればどうなるか。司祭ヨハネ(プレスター・ジョン)はキリストの誕生を伝えた東方の三賢人の末裔で遙か東の彼方に存在するキリスト教国の支配者であるという。そのヨハネからの手紙が直々にフリードリヒのもとに届けば・・・あるいはグラダーレを手にしてそれを司祭ヨハネにお返しすれば、ローマ教皇をも上回る権威が神聖ローマ帝国皇帝のものになるだろう。
フリードリヒもローマ教皇も司祭ヨハネの存在を信じているかは疑わしい。だが、キリスト教圏を代表する彼ら二人が信じた“ふり”をするなら、いつしかその信じた“ふり”は真実となり、決して疑いえない権威となる。
バウドリーノやその仲間たちにとっても司祭ヨハネが本当に存在するのか、グラダーレが本物なのかは問題ではない。
「お父上の王国は存在します。私は宦官からではなく、それを信じる人たちから聞いたからです。信仰はものごとを現実のものへと変えます。〜司祭の王国は実在します。私も仲間たちも人生の三分の二を費やしてそれを探しているのですからね」ー「バウドリーノ」より
人は神が実在しているから、神を信仰するのではない。信仰するから、神が実在するのだ。
象徴に従うということは同じゲームのルールに従うということである。同じゲームのルールに従うかぎり利益を享受できる。そしていつしかそのルールは決して疑いえないものとなる。ルールがいつしか「自明」のものとなり、まるで空気のように、そこにあることが「必然」となる。
だからその象徴は「竜頭棍」や「司祭ヨハネ」のような空虚で意味のないものであればあるほどよい。意味がないものほど、象徴の力は強大なものとなる。
@無意味なものを契約で固定すると意味が生じる=象徴。
Aその象徴を元に世界が構築される(キリスト教圏、黒社会など)。
Bそしていつしかその無意味なものを疑うものがいなくなる。
C世界が完成する。
おおむね世界の成り立ちとはこういうものではないだろうか。
ここで現代数学の父と呼ばれるドイツの数学者ヒルベルトの考え方を紹介する。
点、直線、平面、などの「定義」それ自体には「現実的な意味は何もない」。つまりシステムを構成しているものを「点」と呼ぼうが、「テーブル」と呼ぼうが、数学的にはなんら変わりありません。〜ただ、その関係の整合性さえ保証されていれば、それでよいのです。ー「ゲーデル・不完全性定理」吉永良正
これがヒルベルト「幾何学の基礎」の考え方です。数学の公理には「直観的意味」はなく、いくらでも置き換え可能なものでしかないということです。(その逆の考え方が、すべての数学の公理は、直観的な知識であるというカントの数学的直観主義。つまり数学の公理はアプリオリに決定されている。「1+2=3」であることはどんな世界、どんな宇宙へ行こうが、絶対の真理であるという考え方)
これを私たち、人間の世界に当てはめてみる。私たちの世界を構成している個々のもの自体に現実的な意味は何もない。ただ、他者たちとの関係の整合性がとれているとき、意味が生じてくる。この他者たちとの関係性こそゲームのルールに他ならない。
いわば私たちはまったく無意味、無価値のものの上に世界を構築している。そしてその無意味、無価値のものを決して疑うことのない空気化した「無条件の信仰」という砂上の楼閣に住んでいるといえるのだ。
物語の後半、バウドリーノが絶望し「柱頭行者」となったのはこの世界から意味や価値をすべて剥奪しようとしたからだ。世界が砂上の楼閣でしかないことを暴き出すこと。「無」への脱出、「狂気」への逃避。
だがバウドリーノは再び旅立つことを決意する。愛するヒュパティアのもとへ、司祭ヨハネのもとへ行こうというのだ。しかし、それは死を覚悟した絶望の旅立ちではない。この世界は本当は無意味で、無価値な砂上の楼閣かも知れない。それでもバウドリーノは自分の人生には意味や価値が必要だと旅に出るのだ。「信じること」ーそこにしか神や、愛はないのだ。
「言語ゲームの世界」こそが、そこにおいて人間が生きざるを得ない意味の世界なのである。すなわち、「言語ゲームの世界」から切り離されたものは、それ本来の意味ー人間的意味ーを失い、場合によっては、無に等しいものになってしまうのである。ー「哲学的探求」読解・解説より