2011年05月11日

東京物語とコジェーヴで読み解く「八日目の蝉」

映画「八日目の蝉」この作品は過去と現在、二つが交差して描かれるが、同じようにこの映画のメッセージも二つに交差して表出する。交差する二つのメッセージを東京物語とコジェーヴによって読み解きたい。

井上真央演じる恵理菜の起点となるシーンは妻子ある恋人岸田との別れにある。恵理菜は別れを切り出しながら岸田に感謝する。人としての喜び、誕生日を祝ってくれたり、一緒に遊んだり、そしてなによりも人を好きになるという感情を教えてくれた最初の人だと感謝するのだ。つまり恵理菜はこう言っている。岸田に出会うまでは人並みの喜びをまるで知らないで育ったと。

それまでの恵理菜はあの誘拐事件のせいで暗いトンネルのなかを生きてきた。実母(森口瑤子)は恵理菜にあの「世界一悪い女」の影を見、絶望し、恵理菜を徹底的に抑圧してきた。そのために恵理菜は幼いときの記憶を失い、また誰からも愛されずに生きてきたと思いこんでいた。

その恵理菜の元にフリーライターと称する千草(小池栄子)が誘拐事件のことを取材させて欲しいと近づいてくる。だが恵理菜に喋ることはない、喋りたくないのではなく、誘拐されたときのことをまるでおぼえていないのだ。

恵理菜は千草が自分がかっていたエンジェルホームの住人だったことを知る。千草のなかに自分と同じものを見た恵理菜は千草と二人で過去を探す旅へと出る。消し去った記憶を求める旅へと。恵理菜のお腹の中には別れた岸田の子供がいる。10数年前、「世界一悪い女」である希和子(永作博美)が赤子の恵理菜をさらって逃げた時と同じ道筋をたどって、しかも同じように子供を抱えながらの「同行二人旅」。

旅の途中、ホテルの一室で恵理菜は千草に不安を吐露する。子供を産み育てていく自信がないと。なぜなら私は誰からも愛されたことがないから、どうやって子供を愛せばいいのかわからないのだと。だが、旅するうちに恵理菜は抑圧され消し去っていた記憶を取り戻し始める。それは心の底から求めていながら、どうしても認めたくなかったこと。

恵理菜は実母の苦悩と絶望ゆえに過去をないものとして生きてきた。それゆえに自分は愛を知らない人生を送ってきたと思っていた。すべては自分と自分の家族をめちゃくちゃにしたあの女のせいだと。だが、旅の過程で過去の扉が開いたとき、そこにあったのは紛れもない真実の愛だったのだ。実母との間には決して得られなかった愛が、私の人生をめちゃくちゃにしたはずの希和子との間には確かに存在した。この残酷なまでの愛の転倒。

恵理菜が愛を知らないと思ってきたのは、偽りの記憶だった。あの「世界一悪い女」が私にあふれんばかりの無償の愛をそそいでくれた。憎しみが反転し、すべてが愛に変わる。希和子から私はすべてのものを受け取った。だから私はもう恐れない。あの人が私にそそいだのと同じ愛をこのお腹の子にそそげばいいのだから。

すべての記憶を取り戻した恵理菜は「薫」となり、真の愛を取り戻す。感動的ではあるが、血のつながりよりも、そのつながりを故意に切断し、奪い去った他者との間に真実の愛があったというのはやはり残酷なラストだといえよう。

「八日目の蝉」というタイトルの意味も浮かび上がってくる。

「蝉は何年か地中で育った後、地上に出てからは七日しか生きられない。だが、まれに八日後も生き続ける蝉がいる。仲間が死んだ後、その蝉はいったいどんな世界を見るのだろう」劇中での千草のセリフ。

人は心の中の何かを殺して生きている。恵理菜は「薫」を「希和子」を殺して生きてきた。希和子は最愛の薫から引き離され、心の一部が死んだままこの先を生き続けなければならない。この二人だけではない、千草もそうだ。恵理菜の母も父も恵理菜が奪われてからは心の一部が死んだまま生き続けるしかなかったのだ。

人はそれぞれ心の中に死んだものを抱えながら、生き続けるほかない。人はみな八日目の世界を生きる蝉なのだから。

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上記の物語は、恵理菜の同一性を取り戻す旅を描いている。A・コジェーヴの言葉に

「人間は他者の欲望に向かう欲望、承認を求める欲望である。」ー「ヘーゲル読解入門」

というのがあるが、これは、人は他者という対象がなければ人として存在できないということをいっている。人は自分一人では存在できず、他者の欲望を欲望すること、つまり他者との同一化にしか自己を見いだすことはできない。

恵理菜にとってこの他者とは希和子のことだ。他者の欲望は、母の愛であり、恵理菜は母の愛を欲望する。母からの承認こそ恵理菜の望んでやまない自分と母との同一化なのだ。

恵理菜は希和子との同一化を願っているものの、それを実母が邪魔をする。当たり前だ。誰が誘拐犯の女と自分の娘とを同一化させたいものか。それゆえの母の抑圧。恵理菜の記憶、希和子と完全に一体化した濃密な記憶は失われる。

だが、それでも恵理菜は無意識のうちに希和子の記憶をなぞっていく。希和子と同じように妻子ある男性を好きになり、希和子と同じ行動をとるートイレで髪を切る希和子は星空を眺め、トイレで妊娠検査薬を使う恵理菜も星空を眺める。自転車に乗る恵理菜は坂道を走るときに脚をひろげ、希和子は小豆島で自転車に乗るとき脚をひろげる。演出家も脚本家もこの恵理菜の旅が、母と子の同一化の旅であることをはっきりと描いている。

そして旅が抑圧を解き、記憶がよみがえると、恵理菜と希和子の同一化が再び取り戻される。希和子が私を愛したように、私はこのお腹の子を愛せばよい。かくして恵理菜は希和子となり、お腹の子は薫となる。希和子と薫は再び人生を生き直すのだ。

この物語は愛の承認(他者との同一化)を得ようとする蝉たちの物語であり、八日目の蝉とは、承認を断念した蝉たちが苦しみのなか、それでも生き続けなければならないことを意味している。

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では「八日目の蝉」交差する二つ目のメッセージとは何か。それは小津安二郎「東京物語」と共通するテーマ、それこそが「八日目の蝉」のもう一つのメッセージだ。

小津安二郎「東京物語」とは・・・尾道から上京してきた老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が息子や娘の元を訪ねるが、邪険に扱われる。だが、8年前に戦死した息子の嫁、血のつながらない他人である紀子(原節子)からは心のこもったもてなしを受ける。失意の老夫婦は尾道に帰るが、突然妻が亡くなってしまう。葬式が終わるとさっさと東京に帰る実の息子や娘たち(杉村春子をグーで殴りたいっ)。そんななか一人残って笠智衆の世話をする原節子に笠智衆が語りかける・・・

「妙なもんじゃ。自分が育てた子供より、いわば他人のあんたの方がよっぽどわしらにようしてくれた・・・」

「東京物語」ははっきりと、血のつながりがあっても形骸化した家族より、血がつながらなくとも「意志」によるつながりのある連帯こそが真の家族となれるといっているのだ。

そしてこの「東京物語」のメッセージこそ「八日目の蝉」と呼応するのものだ。

恵理菜の実母はいっこうに自分を愛そうとしない娘に異物感を感じ始める。そして自分のお腹を痛めた実の娘にもかかわらず、その娘を愛せない自分自身に絶望する。親子と言うだけで、家族というだけで、血のつながりがあるというだけで無条件に愛し愛される関係でいられるという幻想が、母を、娘を苦しめるのだ。

血のつながった家族から逃れ出た恵理菜=薫の人生は血のつながらない他者との間で構築されていく。その象徴がエンジェルホームである。一種カルト的な閉じた共同体であるものの、縁もゆかりもない他人同士の共同生活は希和子と薫に静かで落ち着いた生活を与えてくれた。本来エンジェルホームのようなカルトを描く場合は否定的に描くものだが、この作品では人生に傷つき、疲れ果てた女性たちの駆け込み寺として機能しているように描かれる。

そして過去への旅を続ける現在の薫=恵理菜はまったくの赤の他人である千草と不思議な共闘関係にある。恵理菜が子供を産み育てる自信がないと不安を打ち明けると、千草は二人で一緒に育てようとまでいうのである。赤の他人からのこの無償の愛。(百合成分たっぷりですがw)

希和子と薫最後の逃亡先である小豆島でも二人を温かく迎えてくれるのは、エンジェルホームの同僚だった久美(市川実和子)の両親である。希和子と薫二人には縁もゆかりもない他人同士の連帯の中にしか安らぎの場所はなかったのだ。

そしてなによりもこの物語の発端、縁もゆかりもない赤の他人同士の二人、希和子と薫の真の愛情で結ばれたにせの親子の姿がそこにある。

希和子は逃亡先の小豆島の寺院でずっと薫と一緒にいられますようにと祈る。原作での祈りはさらに強烈である。

「明日も薫といっしょにいることができますように。この2年と半年近く、一日も欠かさず私は同じことを願っている。私は今日も祈る。一年後、五年後などと大きなことは願わない。今日一日、それから明日一日、それだけでいい。だからどうか私の祈りを聞いてください」ー角田光代「八日目の蝉」

この強烈なまでの願い!この意志!このような「願い」、このような「意志」のあるところにしか「愛」は生まれない。ただ血のつながりがあるというだけで自動的に家族として父や母、娘や息子という役割を振り分けられるだけの関係では「愛」は決して生まれない。

私自身の意志によって家族をつかみとるという強烈なまでに能動的な意志。もはやそこにしか新しい家族の可能性はない。それこそが「東京物語」と「八日目の蝉」の共通したメッセージだ。


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・・・だが、しかしそれは本当の愛だったか。私がある人に「八日目の蝉」のストーリーを説明していると、その人は「大岡裁きに似てる」という。どっちが子供の本当の母親か調べるために、二人の女に子供の両腕をもたせて引っ張らせて、子供を奪ったほうを本当の母親として認めるという大岡越前。子供を引っ張り合う女たちだったが、一人は痛がる子供の悲鳴を聞いて手を離してしまう。大岡越前は手を離した方の女を本当の母親と認める、というお話。私はさきほど強い「意志」、強い「願い」が家族を作ると書いたが、そこには他者性がなかった。他者の痛みを我がことのように感じられることが真の愛なら、やはり希和子の愛は単なるエゴではなかったか。その一点においてやはり希和子は「赦されていない」。赦されていない以上、映画のラストで希和子と薫が会わないのは必然なのである。(原作ではお互いそれと知らずにすれ違っている。)
posted by シンジ at 18:20| Comment(5) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
高校2年生です。
正直、映画をみたとき、意味がわかりませんでした。
しかし、あなたの記事をよんで、やっと意味が理解できました 。この映画が高く評価されている理由もなんとなく分かった気がしました。
それにしても、素晴らしい文章力ですね。映画の関係者にみせてあげたいくらい。
もう一度、映画を見てみようかな。

記事を読めてよかったです。ありがとうございました!!
Posted by かな at 2011年11月27日 01:49
午後、この映画を見ました、すごく感動しました、何回も、涙が止まらなくて。音楽も、台詞も好きです。

本当の愛は何ですか、血のつながりだけじゃないですよね。この映画の本当の意味は、あなたの記事を読んで、もっと理解できました、ありがとうございました。
Posted by orchid at 2012年01月08日 21:13
お役に立てて幸いです。
Posted by シンジ at 2012年01月11日 20:57
未成年者拐取罪の保護法益は一般に被拐取者の自由と監護者の保護.監護権とされていますがこの映画で実母は薫の苦しみよりも自分の苦しみの主張に終始しています。他方、希和子は写真館で自分の幸せをすべて薫に渡し、自分が逮捕される瞬間も薫がおなかをすかせていることを心配していました。本当のエゴイストは誰でしょうか?もし大岡越前の子争いの状況になった場合、先に手を放すのは希和子でしょうかそれとも実母でしょうか。

Posted by まなぶ at 2012年02月26日 15:02
少し時間が空いたのでレコーダーに録画してあった「八日目の蝉(映画)」を見る。

・・・全く分からない。結局何を言いたいのか?

レコーダーから消去した後、何度も頭の中で反芻してみるが、どうにも分からない。確か名作扱いされていた筈。

何か見落としているのだろうかと、検索して色々な感想を読んでみる。


う〜ん。何故か皆、誘拐犯の女が子供を愛していると、勘違いして作品を見ているようだ。

誘拐犯の女は子供の事など一切愛してはいない。

彼女の中にあるのは自分の事だけ。

自分の欲望を満たす為の道具として子供を利用しているだけだ。

子供を本当に愛しているのであれば、その子供が最も幸せになれるであろう両親に返せばいいだけの事。

しかし彼女は子供の幸せよりも、自分の感情を優先している。

つまり彼女は、口では子供を愛していると言い訳しながら、自分の欲望を満たしているだけ。


映画の中では、誘拐犯の女が「子供の為に苦労苦悩している」かの様な描写が繰り返されるが、

彼女は最も楽な道を選んでいるだけ。

子供が産めなくなり、不倫相手とも別れなければならない という苦痛絶望(半分以上は自業自得でしかないが)から逃れる為に(精神安定剤的に)子供を利用しているだけだ。

誘拐犯の女も母親も、子供の事など一切見てはいない。

彼女等の中では、あの子供は「金で買ったペット」程度の認識だ。

母親は、所有者である自分に懐かない(自分を癒さない)ペットに苛立っているだけ。

誘拐犯の女も、買ってきたペットが本当の親を求めてどんなに鳴いても、全くペットの心情を無視する飼い主同様に自分の都合(欲望)しか頭にない。




子供は誘拐犯を愛していた訳では無く、保護者を求める本能に従い、最も身近にいる人間に懐いていたに過ぎない。


最後の誘拐犯の台詞も、子供の為に発した言葉では無く、自分が母親気分(自己陶酔)を味わう為、周りに母親アピールをする為の発言に過ぎない。

そもそも彼女が誘拐しなければ、子供が食べていない状況にはならなかった訳だからね。

本当に子供の心配をする様な人間であれば、そもそも その子供を不幸な状況に陥らせる行動は取らない。


(何故か、誘拐犯の女はシングルマザーに置き換えられているようだ。(勿論そう見せ掛けられているのもあるが)

あの子供は誘拐してきた子供であって、彼女はシングルマザーでは無い。

誘拐犯の最後の言葉も、(子供の事など一切考えていないのに)母親気取りもいい加減にしろ という怒りしか湧いてこなかった。

もしあのまま逃げ続けていれば、あの子供は義務教育すら受けられない。)





単純に映画の感想を言えば、リアリティーが無い。

設定・世界観がどんなに荒唐無稽でも気にならないが、そこで生きている人間(キャラクター)の行動が意味不明では説得力が無くなってしまう。

八日目の蝉に出てくる登場人物は全員が「自分の意思」では無く「シナリオ」に添って動いている。


例えば、

あの状況にいて、戸締まりもせず生まれたばかりの子供を置いて出掛けるだろうか?

(おそらく、ガラスを割って侵入したりすると犯罪色が強くなり、シングルマザーに見せ掛ける事が難しくなるから避けたのではないだろうか?もし合鍵を持っていたとしたら当然鍵を変えるだろうし、用心もするだろう)



主人公の「自分の特殊な状況を誰かに理解してほしい」という心情は理解できるが、それを打ち明ける相手にあれを選ぶだろうか?

あの子が何故ああなのかは後に説明されるが、その前の段階で家に上げたり、心を開く理由が全く分からない。



不倫相手も同様だ。何故?
(配役が逆なら、まだ分からなくもないが)



実の母親も、あまりにも人間的に幼稚過ぎないだろうか?

ようやく帰ってきた子供に、あんな態度を取るだろうか?

(誘拐犯の女をシングルマザー(善)に見せ掛ける為だけに、酷い母親(悪)を演じさせられている様にしか感じない)







この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、

『例え誰からも愛されていなかったとしても

(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)

、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』

という事だろう。


結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、

(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)

正解に辿り着けた事になる。



この映画の監督(原作者も?)は、何故か

「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」

と思い込んでいるが、

誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。





例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。

しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、

その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。


そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。

人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。


「料理は愛情」という言葉もある。

大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。

本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。

これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)
Posted by 七紙 at 2017年12月17日 07:35
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