2011年04月13日

第二部「冷たい熱帯魚と関根元」

第一部「園子温のキリスト教理解は見せかけか・ジル・ド・レ篇」の続きです。

第二部「冷たい熱帯魚と関根元」

「園子温のキリスト教理解は見せかけか」第一部ジル・ド・レ篇では「冷たい熱帯魚」はキリスト教的殺人鬼を描いていないことを指摘し、キリスト教的殺人鬼の代表であるジル・ド・レを例に出して、「正しいキリスト教的殺人鬼とは何か」について書いた。

第二部の関根元篇はどうして園子温は「冷たい熱帯魚」でキリスト教的殺人鬼を描けなかったのか?それは「冷たい熱帯魚」の実在のモデルである愛犬家連続殺人事件の主犯関根元という男に原因がある。では関根元とはいったいどういう人間なのか、について書きます。

ジル・ド・レと関根元の最大の違いは、ジルの犯行が純粋に自身の悦楽のためであるのに対し、関根の犯行はすべて金銭トラブルが原因だということにある(関根の共犯者Yが関わった4人の殺害理由はすべて金銭トラブル)。

関根元はその殺害人数、残虐性に関してはジル・ド・レにも劣らない。関根自身の発言によれば10代の頃から殺し始めて合計35人。警察の調べでは関根の周辺には原因不明の失踪者が11人はいる。

しかしいずれも犯行の動機は金銭がらみであり、ジル・ド・レの犯行をあえて「貴族的犯罪」というなら関根の犯行は「ブルジョワ的犯罪」といえる。自分の目先の利益にのみ汲々とし、自身の財産を確保し、それをいかに増やすか、ということしか考えていない典型的ブルジョワ犯罪。それではどうしたってキリスト教的聖性をおびようがない。

映画の実際のモデルである関根元にはまるでキリスト教的な部分がない。ではこの映画のでんでん演じる村田はまったく魅力のない人物なのかというと、そうではない。園子温はでんでんにキリスト教的な崇高さをまとわせることには失敗しているが、一種異様な迫力、別の意味での奇妙な崇高さをまとわせることには成功しているのである。

関根元は映画のでんでんと同じように愛想が良く、陽気に喋り、人をそらさない人物だった。被害者はみな関根に人間的な魅力を感じていただろう。だが・・・

アフリカケンネルの犬舎には百匹以上の犬がいたが、関根の姿を見ると犬は急に吠えるのをやめ、犬舎は嘘のように静まりかえった。ー「共犯者」山崎永幸

犬たちは人間と違い関根の本質を見抜いていた。ほかの人間とは明らかに違う常軌を逸した“なにか”を見ていたのだ。自分たちの生命をおびやかす「捕食者」としての関根の本当の姿を。

「人間の死は、生まれたときから決まっていると思ってる奴もいるが、違う。それは関根元が決めるんだ。俺が今日死ぬと言えば、そいつは今日死ぬ。明日だと言えば、明日死ぬ。間違いなくそうなる。何しろ俺は神の伝令を受けて動いているんだ」ー「共犯者」より関根元の発言

野生に近い動物である犬が見抜いた関根の本質とその殺人哲学が、この男の異様な迫力を生み出す。関根元は共犯者であるY氏に自身の殺人哲学をこう話している。

その一、世の中のためにならない奴を殺る。
その二、保険金目的では殺さない(すぐ足がつくから)
その三、欲張りな奴を殺る。
その四、血は流さない(毒殺)
その五、死体は全部透明にする。

殺害理由自体はつまらない金銭トラブルにしかすぎないものの、殺害し、死体を解体する段(ボディを透明にする・・・)にいたってはなんの悩みも迷いもない。確固とした殺人哲学があると同時に、我々とは人としての視点が違っているからだ。関根は決して気が狂っているわけではない。我々とは単に「視点」が違っている。

私たちは「人」を、自分の同胞、同じ生き物、自分と同じ存在として見ている。つまり「人」を殺すことは「私」を殺すことと同様の意味がある。だから私は「人」を殺さない。決して法律が禁じているから人を殺さないわけではない。

関根元も最初はそうだった。

「これまで大勢殺ってきたけど、最初は俺も怖かった。膝ががくがくして立ってさえいられなかったもんだが、要は慣れの問題だ。」ー「共犯者」

関根元にとっても最初は「人」は「私」だったのだ。だが、

処罰されずにすんだ最初の犯罪ほど悪者に勇気を与えるものはないー「ソドム百二十日」マルキ・ド・サド

関根元の中でガラリと視点が変わる。「人」は「私」じゃない。「もの」にしかすぎないと。「人」が「もの」になるとはどういうことか。簡単に言えば対象を「家畜化」するということだ。「人」=「私」という当たり前の観点が消え失せ、自分のために利用できる「もの」になる。「家畜」を利用したり、殺したりすることをためらうものがいないのは「家畜」は「私」と同じ生き物でなく、同胞でもなければ、同じ存在でもないからだ。

関根の犯行のきわだった特徴に被害者の「ボディを透明にする」というのがある。つまり遺体を細かく解体し、この世から完全に消すことだ。

「お前、これが何だか分かるか?」
関根は両手に何かを乗せていた。奴が手にしていたのは十センチ四方の赤黒い塊りだった。
「これがK(被害者)のヒレ肉だ。お前、人間のヒレ肉なんか見たことないだろう。滅多にない機会だから、しっかり見とけ。ちょっと触ってみるか。遠慮するな。お前だって牛のヒレ肉くらい食うだろう。変わりゃしないって、とれたてホヤホヤのヒレ肉だ。触ってみろ」ー「共犯者」より

普通、私たちは人の死体を「もの」あつかいできない。どんな無神論者でも、連綿と続いてきた宗教の、信仰の歴史から逃れることはできない。つまり人は人の死体に「霊的」なものを見ている。魂といってもいい。「身体」は「魂」の器であるから、たとえ「死体」となっても「霊性」をおびたままだ。私たちはそれがあるから死体を傷つけたり、無下に扱うことができないのである。

だが、しかし関根元はいともたやすく死体を「もの」あつかいし、流れ作業のように、まるで食肉をあつかうがごとく死体を解体する。

関根は人に霊的なもの、魂を一切認めないのである。

ここに関根の思考の空白が、恐るべき思考の断絶がある。その断絶こそ私たちと関根をへだてるもの、世界と関根をへだてるものだ。歴史からも断絶された存在としての関根元。

・・・とはいうものの、実際の関根元は俗っぽい、野卑なだけの脂ぎったおっさんだったろう。そうした野卑なだけのおっさんにある種の崇高さをまとわせたのは園子温の演出力のたまものだ。

「冷たい熱帯魚」のラスト近くのある場面、弁護士と運転手の二人を殺害して、彼らを「透明」にした後、遺体の残りを捨てる橋の上で、でんでん演じる村田(=関根元)は吹越満演じる社元に説教する。その圧倒的な説得力。なぜこの鬼畜のような男の説教を聞いてるだけで膝がガクガクと震えるような興奮をおぼえるのか。

でんでん(=関根元)がブルジョワ的利益追求型犯罪者という俗物性を超えた、異様な崇高さをおびるのはその時である。人と世界との断絶ー世界から孤立した存在としての人ーが立ち現れるその時、でんでん(=関根元)は崇高さをまとう。

崇高さというのは別にほめ言葉ではない。我々の理解の外にあるもの、思考の範囲外にあるもの、言葉にできないものをとりあえず「崇高さ」と呼ぶ。つまり我々の世界と断絶しているでんでん(=関根元)が崇高さをおびるとはそういう意味です。

結論としては・・・園子温は映画のキリスト教描写にこだわらなくてもいいんじゃないか。以上。
posted by シンジ at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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