2011年04月10日

園子温のキリスト教理解は見せかけか第一部ジル・ド・レ篇

今、最もノリにノっている映画監督と言えば園子温であることに異論はないだろう。日本映画史の中で特別な位置を占めるであろう特別な傑作「紀子の食卓」、園子温の才能と情熱が爆発した大傑作「愛のむきだし」、そして最新作の「冷たい熱帯魚」と10年に1本の作品とよべるような傑作を連打している。

ただ不満がないわけではない。園子温映画のキリスト教描写に関してである。「愛のむきだし」はキリスト教描写が映画の本質に関わっているし、なによりあの満島ひかりがコリント書第13章を唱えるシーン

「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても愛がないなら何の値打ちもない。最後に残るものは信仰と希望と愛。その中で最も優れているものは愛。」

このシーンはここ10年間のベストシーンと断言できる。

だが、しかし「冷たい熱帯魚」のキリスト教描写はどうだろう。あきらかに映画の本質と関係のないおざなりな描写でしかないのではなかろうか。私は正直いって「冷たい熱帯魚」のキリスト教描写に納得していないし、もっと言えば「惜しい」と思っている。なぜならば、誤解を恐れずに言うと、

「キリスト教」と「殺人鬼」くらい相性のいいものはないのだ。

私は今から「正しいキリスト教的殺人鬼」について書きます。なぜなら「冷たい熱帯魚」は「正しいキリスト教的殺人鬼」を描いていないからだ。園子温はせっかくそれを描くチャンスがありながら、みすみすそのチャンスを逃してしまっている。結局園子温のキリスト教理解はその程度でしかなかったのかと失望したからなのだ。

では完璧な正しいキリスト教的殺人鬼をご紹介しましょう。それこそ、かのジル・ド・レ殿下であります。

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ジル・ド・レ
1404年生まれ。フランス王国ナントの大貴族にして、広大な領地を持つ大富豪でもある。1429年、ジル・ド・レはジャンヌ・ダルクの側近として共に進軍、イギリス軍からオルレアンを奪還。シャルル7世をランスで戴冠させフランス王国元帥となった文字通りの救国の英雄。しかし自身の庇護者であった宰相ラ・トレモイユが失脚すると政治の表舞台から消え、自らの居城に引きこもり、悪魔降臨の儀式を頻繁に行い、幼い少年たちを拉致してはむごたらしく虐殺した。殺した少年の数は100人以上といわれている。1440年処刑。

いったい、ジル・ド・レは何をしたのか?ジル・ド・レとその協力者の証言が裁判記録として残っている。以下グロ描写あり注意!




ジル・ド・レがはじめて犯罪に手を染めたのが1432年、28歳の頃。それ以来一貫して幼い少年たちを拉致してむごたらしく殺害してきた。ジルの部下たちが少年たちを居城に連れ込むと、ジルは少年たちを犯し、ありとあらゆる方法で拷問を加え、死にかけた少年の上に腰掛けその死にゆく様を眺め、死んだ後も犯し、腹の上に射精し、腹を切り裂いて内臓をつかみだして楽しんだ。また切り取った少年たちの首を並べ、どれが一番美しいか配下たちと選び、一番美しい首とくちづけをした。居城の地下には45体もの子供の白骨死体があったという。

吐き気をもよおす残虐非道な犯罪だが、ジル・ド・レは敬虔なキリスト教徒でもあった。そして驚くべきことにジル・ド・レのなかでこれらの犯罪は自身の信仰となんら矛盾していなかったのだ。

キリスト教は恐るべき罪業の要請であり、ある意味ではそれを必要としているのだ。なぜなら、それは罪があって始めてその罪を赦すものたりえるからであるからだ。ー「ジル・ド・レ論」ジョルジュ・バタイユ

ジルの精神がどのように混乱していたにせよ、この混乱はキリスト教と矛盾するものではなく、ジルの魂は救われる運命にあったと見るべきだろう。キリスト教とはもしかしたら免罪を得るために必要とされる罪の要求、恐怖の要求かもしれないのである。キリスト教はキリスト教だけが堪えることのできる狂気の暴力をそれ自身のうちに含んだヒューマニティと結びついているのである。レェ候の犯罪はそのまま狂気のキリスト教的衝動なのである。ー「幼児殺戮者」澁澤龍彦

すなわちキリスト教は「罪」を要請し、それを「赦す」ということで成立する。

ジル・ド・レは子供たちの腹を裂き内臓めがけて射精する絶頂の中で感激にうち震えていたのだ。

「こんなにも残虐非道な悪行をなす罪深い私でさえも神は赦したもう!」と。

恐るべきことにジルの精神の中では信仰と虐殺は矛盾していない。子供たちの首や手足やはらわたが飛び散る血みどろの居城のなかでジルはあの神秘的な恍惚体験ー「法悦」ーと呼べるようなものを体験していたのだ。

法悦とは・・・神の神髄に触れることで湧き起こる至上の喜び。ー「美の巨人たち」

神と交信する奇跡的な体験をした聖女たちの姿を17世紀イタリアの偉大な芸術家ベルニーニが彫刻にしている。聖テレジアの法悦と福者ルドヴィカ・アルベルトーニの像である。

聖テレジアの法悦
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福者ルドヴィカ・アルベルトーニ
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この二人の聖女の表情を見て欲しい。神と触れあうことによりあきらかにエクスタシーを感じている。それこそが「法悦」なのだ。

また13世紀イタリアの聖女アンジェラ・ダ・フォリーニョは法悦体験をこう話している。

「わたくしは神を暗黒のなかに見た。なぜなら神はあまりに偉大な善なので思考されることも理解されることもできないからである。思考され、理解されるような何ものも神に至り着くことはなく接近することもない」ー「体験の書」アンジェラ・ダ・フォリーニョ。「内的体験」より引用

自分の犯したどんなおぞましい罪悪も偉大な善である神は一切の躊躇なく赦してくれる!その並外れた感動と殺人の悦楽が混じり合った果ての法悦・エクスタシー。それは神とジル・ド・レが一体化した瞬間である。

1435年ジル・ド・レはマシュクールにサン・ジノサン礼拝堂を創立する。
サン・ジノサン(聖なる幼児たち)礼拝堂とはマタイ福音書に書かれるヘロデ王に虐殺された幼児たちのために建立された教会である。イエス・キリスト誕生を恐れたヘロデ王がベツレヘムに住む2歳以下の幼児を全員殺害したことから名付けられた。

ジルはあきらかにヘロデに殺された幼児たちと自分の殺した子供たちを同一視しており、サン・ジノサン礼拝堂創立は殺した子供たちへの贖罪のためというより、キリスト教の歴史と自分の所業とを同一視し、自分の悪行をより「演劇化」するためのものに他ならない。「劇的」であればあるほど子供たちを虐殺したときの恍惚感は高まり「法悦」へといたるからだ。

ジルの生涯最大のハイライトはジャンヌ・ダルクと共にオルレアンを奪回したときではなく、自身の裁判にある。裁判にかけられたジルは最初こそ露骨に裁判官をバカにしていたが、聖職者からキリスト教破門を宣告されると激しく動揺し、すべての罪を告白するから破門を解いて欲しいと懇願する。そしていままでの裁判官を愚弄するような態度を改め、涙ながらに自分の犯した大虐殺を自供するのである。自分の犯した吐き気をもよおすような惨劇の一切を裁判官と聴衆の前で告白するジル・ド・レ(聴衆にもわかりやすいようにとラテン語ではなくわざわざフランス語(世俗語)で話すことの許可を求めた)

ここに驚くべきキリスト教的光景が出現する。聴衆はジルの聞くに堪えない犯罪告白に悲鳴を上げるが、罵声を飛ばすものは一人としていなかった。裁判官も聴衆もジルの許し請う姿に感動し、裁判官などは尊敬の念を持ってジルに接したのだ。死刑が決まったジル・ド・レは裁判官にこう懇願する。

処刑当日に新塔の独房から処刑場までのあいだを連行されるジルに、ナント司教自身とその他の聖職者たちにみちびかれた市民たちがつきそい、彼と彼の共犯者たちのために神に祈って欲しいというものだった。ー「青髯ジル・ド・レの生涯」清水正晴

本来なら群衆から罵詈雑言が飛び交ってもおかしくない状況のなか、処刑場まで歩くジル・ド・レに対し罵声ひとつおきなかった。群衆はこの悪逆非道なフランス王国元帥の許しを請う姿に心底感激したのだ。これこそキリスト教的光景と言わずしてなんといおう。ジル・ド・レはその子供たちへの虐殺と自身の処刑によって完全にキリスト教と一体化したのだ!

ここまで書いてきた正しいキリスト教的殺人鬼の条件とは
度を越した「罪」、惜しみない「赦し」、絶頂的恍惚感「法悦」の三点セットである。

園子温はそこがまったくわかっていないのか「冷たい熱帯魚」のキリスト教描写は見せかけだけのお飾りにしか見えない。ゆえに園子温のキリスト教理解は浅いのではないかという疑念が晴れない。

ただその責任を園子温のせいだけにするのはフェアじゃない。そもそも「冷たい熱帯魚」のモデルである愛犬家連続殺人事件の主犯関根元自体がキリスト教的聖性をまるでおびてない俗物だからだ。

ここで第一部・ジル・ド・レ篇を終わります。次回は第二部・関根元篇です。長文すぎて誰もここまで読んでないだろうがなっ!

続きです。第二部「冷たい熱帯魚と関根元」


posted by シンジ at 16:45| Comment(1) | TrackBack(1) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
きのこです。
『冷たい熱帯魚』三記事について。「暴力は映画に何をもたらすか」は非常に納得です!
で、バタイユ好きなのでこちらはさらに興味があります。
園監督は、マリアとキリストが大好きだそうですね。『愛のむきだし』(←大好きです)ではマリアがテーマでしたが、『冷たい熱帯魚』でキリスト教をテーマにしているようには私には思えませんでした。

>「キリスト教」と「殺人鬼」くらい相性のいいものはないのだ。
というジル・ド・レ論はなんとなくわかります。キリスト教文化は美術にも現れているようにエロスと残虐の宝庫ですよね。禁止の強さ=欲望の強さなのだろうと思います。

ただ、『熱帯魚』の村田はキリスト教的残虐の面は見えない。信仰心や愛国心とも無縁。死体はただのモノ、透明にしちゃえば殺人もないのと同じ。何かを恐れる原罪意識すら「バカなこと」と思っている感じがする。

>キリスト教描写は見せかけだけのお飾り
なのは、意図したもののように思えました。
あの安っぽいガラクタの教会も、キリスト教的信仰の解体みたいだし。

神が死んで信仰がなくなっても、人はどうして誰かの支配を受けたいのでしょう。幼い村田のように、社本やその妻のように。
そのあたりの気味の悪さが『熱帯魚』のキモのように思えました。
Posted by きのこ at 2011年08月09日 22:20
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