2011年03月14日

私はいかにして連帯を忌み嫌うのをやめキャプラ的世界を望むようになったか

2011年3月11日未曾有の大震災は私に私の中の矛盾を突きつけた。

私はいままで連帯や共同体というものを忌避してきた。私にとって連帯とは、あのうっとおしいご近所さんの目であり、集団からの同調圧力であり、社会主義的強制とでもいうべきものであった。

こんな私であるからあの悪名高いサド侯爵に心惹かれるのもわかっていただけるだろうか。サド侯爵の思想を端的に表したジョルジュ・バタイユはモーリス・ブランショの助けを借りながらこう言う。

サドの思想は「他者への無限否定の先にある自己肯定」であると。

他者への無限否定とは何か。連帯や共同というものは他者への依存と従属を強いるものであって、真の自由を求めるものはこれを否定しなければならない。

これがマルキ・ド・サドの根幹をなす思想だといっていい。

しかし、しかしだ。サドがなぜこのような他者の無限否定というような思考にたどり着いたかを考えなければならない。

彼は生涯の内30年間、牢獄につながれていたのであり、そのような環境では、他者を無限否定することによってしか自分の正常さを保っていることができなかったのだ。

そしてサド侯爵に魅せられ、他者との連帯性を忌避してきた私もまた、自分という牢獄につながれていたことを知るのだ。

今、津波によって目の前で家族をさらわれ失った人たち、生き残った人たちは絶望の淵にいることだろう。そして自分だけなぜ生き残ってしまったのか、苦しみの中、自問自答しているのではないだろうか。

彼ら生き残った人たちに、あなたがたが生きていることには意味があるんだと、この世界で生きることには意味があるんだと思ってもらえるのは、彼らを暖かく包み込む連帯性と共同体にしかないのではないか。

私が夢想する連帯性はフランク・キャプラの映画のラストシーンにある。生きる意欲を失った男が自分という存在が他者にとってどんなにかけがえのないものかを知ることであり、心を失った男が他者の善意に触れるうちに、自分の善性を取り戻すことである。

絵空事かもしれない。笑われるかもしれない。しかし今の私はフランク・キャプラ的世界を望むことがそんなにおかしいこととは思えないのだ。

生きることには意味があるということ、それを業田良家の「自虐の詩」から引用して終わりたいと思います。

−この世には幸も不幸もないのかもしれません
 
−なにかを得ると必ずなにか失うものがある

−なにかを捨てると必ずなにか得るものがある

−たったひとつのかけがえのないもの、大切なものを失った時はどうでしょう・・・

−私たちは泣き叫んだり立ちすくんだり・・・

−でもそれが幸や不幸ではかれるものでしょうか

−かけがえのないものを失うことは、かけがえのないものを真に、そして永遠に手に入れること!

−私は幼い頃、あなたの愛を失いました。

−私は死にもの狂いで求めました。求め続けました。

−私は愛されたかった。

−でもそれがこんなところで自分の心の中で見つけるなんて・・・

−ずっと握りしめてきた てのひらを開くとそこにあった。そんな感じで。

−おかあちゃん これからはなにが起きても怖くありません。勇気がわいています。

−この人生を二度と幸や不幸ではかりません

−なんということでしょう 人生には意味があるだけです。

−ただ人生の厳粛な意味をかみしめていけばいい。勇気がわいてきます。
posted by シンジ at 17:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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