冒頭、アリエッティとその父が人のモノを借りに行く探検シーンの素晴らしさに魅了される。見慣れたはずの台所の光景が、小人から見るとまったく別の世界に見える演出の素晴らしさ。
音響効果によって日常の音がゆがめられ、広大な空間に響きわたると、そこはまるで異世界のように感じられる。その見事な音の演出による日常空間の異世界化。
この繊細な演出、この世界観ならいつまででも見ていられる。それほどこの世界を愛おしく感じる。
あえて欲張りをいうならば、この少年が亡くなっていれば、この作品の感銘は永遠のものになった気がする。(男の子の葬式をアリエッティが見つめる後ろ姿のラストシーンを想像してしまった・・・・)
この私の妄想はあながち間違いではないはず。
というのも、この作品の根底には“死”が常に横たわっているから。
いずれ滅びゆく種族である小人と、先の短い病身の少年。両者は滅び=死の予兆によって分かちがたく結びついている。
死期が近いからこそ、少年は普段なら決して見えないはずのものを見、なんの恐れも偏見もなく小人に接する。もうすでに少年の半身は彼岸にあるから。
アリエッティは少年を見て顔を赤らめ、まるで一目惚れしたかのように描かれるが、アリエッティもまた滅びゆく種族。少年がもはや此岸にはいないことを敏感に感ずるのだ。
だからあれほど禁じられていたのにもかかわらず、少年に接触するのだ。同じ彼岸にいるものを恐れる必要があろうか。
滅びゆく種族と死にゆく少年のつかの間の出会い。二人の間に淡く浮かび上がるのは、愛や恋にも似ているが、それとは別の感情。
違う種族ながら彼岸にいる者同士の魂のふれあい。
2010年08月10日
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どこも好評なレビューしかなく、流れ流れてここにたどり着きました。
ってことで、違う記事ですが記念コメントを、、、
まず、脚本提案にある「死別」は、高畑呪縛である、
母を訪ねて〜にある「バケツ一杯なかせるんだよ!」な安易な感動です。
それで居て本人は「火垂るの墓」で自分の掟を破っているので、
宮崎駿氏には、そういうプロットは踏めません。
レイアウト的に小人世界からの世界観は、
日本で言えば"ニルス"や"スプーンおばさん"などなど沢山、
そして1995年で"トイ・ストーリー"とすでにやり尽くした感があります。
夜間の行動が多くそういった色彩設定は素晴らしいとは思いますが、
デジタル塗時代の劇場用アニメであり、回収が見込める"ジブリ"ブランドであれば
当たり前のことです。
音響についても、過去の作品では小さくなると台詞の音域が高くなり、
意思疎通が出来なくなるなどのリアリティーレベルを統一化するものがありますが、
シーンによって都合を使い分けています。
これは演出上においても、利用できる点で最初は紙で文字ベースで意思疎通し、
交流することによって言葉を超えたつながりになるなど、漫画アニメ的な演出が出来たはず。
都合の使い分けで言えば、水の描写についても界面の描写を"ねちっこく"
描いてみたかと思えば、都合良く界面が人間標準サイズの動きなったりします。
押井氏の指摘する"リアリティーレベル"の齟齬が管理されていないのが露呈してます。
NHKか日テレかどちらか忘れましたが、制作ドキュメントでホチキスはしごを登るシーンが
カット飛びになっていて、監督自らが徹夜で作画した逸話を自慢げに放送していましたが、
アニメ映画制作は通常、絵コンテからライカリールをつくり、週1回合同試写し、
できあがった作画部分からどんどん嵌めていく制作をしています。
編集がその件に気がつかないでならば、コレも問題ですし、
気がついても何も意見できない制作現場であるならば問題はもっと深刻です。
同時期に公開された"トイ・ストーリー3"は同作"1"の編集が監督をやっています。
DVD特典でアニメの編集の仕事は権限が強くなくてはいけない事を説いています。
"ヒックとドラゴン"のドリームワークスといい、やっぱりすごいピクサーといい、
実質"アバター"だってアニメ扱いしても言いと思う(これは脚本はスカスカだが)。
カット至上主義では、ハリウッドに叶うハズもなく中身で勝負するしかないのに、
この映画をみて、違う意味で泣けた2010年でした。
そう言う意味では、とことんガラパゴス化に特化した映画"文学少女"や、
個人的には嫌いな映画ですが認めざる得なかった"カラフル"など、
テーマ性においても"今の日本だから作るんだ!"な作品の方が好感を持てました。