2010年07月31日

うざくてくさくてキモい私の「私の優しくない先輩」評

ただのアイドル映画だと思っていた。川島海荷に萌えられればそれでいいと思っていた。

・・・・・だが、違っていた。

最初のミュージカルシーンで海荷のおへそがチラリチラリと見えるのにドキッとするものの、マンガチックな演出に「・・・さ〜て、どうなることやら・・・」と一抹の不安を抱えながら見ていた。映画を見るときに大事なのは一体どの瞬間から映画の中に入りこめるか?という点だと思う。

まず最初に映画の中に入りこめたのがヤマコ(川島海荷)が両親と手をつないで帰る後ろ姿にモノローグがかぶさる「いつかこの手も離れる・・・それでいい。それがいい」というシーンでわりと早くこの突飛な演出の映画に入り込めたのが自分にとっては良かった。

このシーンにおもわず「ウルッ」ときてしまったのは、人生は刹那でしかないというヤマコの人生観がほんの一瞬でわかるからだ。

そしてヤマコは自分は地上3センチ上を生きていると宣言する。自分に残された時間は少ない。だから私はこの世界を自分の好きなように作りかえ、その空想の世界に住むのだ。

「われわれは、彼が見るものを見る。カメラが彼と同一化した。それが写すのは現実ではなく、むしろ彼の目で見られた現実、彼の精神によって感じ取られ、彼の心で体験された現実である」ークルト・リースのF.W.ムルナウ「最後の人」評「ドイツ映画の偉大な時代」より


ヤマコは人生が刹那でしかないと考えるがゆえに、現実を遮断し、自分にとって都合のいい世界を作り出す。その世界は美しく、みないい人たちばかりで、いつも気持ちのいいお天気で、そしてなにより少女漫画から抜け出たような完璧美少年の南先輩(入江甚儀)がいる。

だが、そんなヤマコの作り出した理想世界で唯一の異物こそ“優しくない先輩”不破(はんにゃ・金田)である。極端にデフォルメされたキャラクター造形に観客も違和感をおぼえるかもしれないが、これにはちゃんと映画的理由があることが後にわかる。

映画はヤマコの目で見られた現実、ヤマコの精神によって感じ取られ、ヤマコの心で体験された世界そのもの。そんな空想の世界がヤマコが目を背けていた“現実”に浸食されはじめることで動き出す。

南先輩とのたこ焼き合宿で夢心地のヤマコだったが、ある日南先輩が待ち合わせの場所に来なかった時から、ヤマコの幻想はほころびを見せ始める。神社で不良たちと煙草を吸う南先輩を見てショックを受けるヤマコ。

映画はその予兆として、その直前に蚊に刺されるヤマコを描写している。蚊や虫など存在しなかったはずの世界が徐々にほころびはじめていることを示す描写が細かい。

南先輩のことはほんのささいなほころびでしかなかったはずなのに、次第にヤマコの世界を狂わせていく。あんなに美しかった海も、今は腐ったようなにおいを運んでくるだけのものとしか感じられない。

そして決定的にヤマコの世界を崩壊させる友人キクコ(児玉絹世)の告白。このシーンはヤマコをこれでもかといわんばかりに醜悪に描いている。旬のアイドルである川島海荷をここまで卑劣で醜い人間として描写することの大胆さに感動すらおぼえる。

「ずるさはばれなければずるさじゃない」

ヤマコはこうつぶやくことによって自分だけの理想の世界のほころびを糊塗してきた。卑劣で醜悪な少女の姿があらわになる。

キクコの告白を聞いた帰り道、ヤマコの世界では決して降らなかったどしゃ降りの雨が。キクコから借りた傘を放り投げ、雨の中立ち尽くすヤマコ。そこにあらわれる不破先輩はなぜかいつものデフォルメされた先輩と違って親身になってヤマコを心配する。不破先輩はヤマコの世界を揺さぶる存在ゆえにヤマコの虚構の世界でだけわざとデフォルメして描かれていたのだとわかる。ヤマコのほころびはじめた世界では(つまり現実の世界では)先輩はごくフツーの人なのだ。

自己嫌悪し、それでも現実逃避したい気持ちと先輩の優しさに触れてもそれを認めたくない気持ちがせめぎ合う。どしゃ降りの雨の中激しくヤマコの心が揺れ動く。映画の中でも白眉といえるシーンになった。

そして祭の夜。ヤマコは南先輩に告白するが、それはただ自分の幻想が空虚なものであることを確認するためだけのことでしかなかった。自分の作り上げた空想の世界が無惨に破られること。それは都合の悪いことを隠蔽してきた醜い自分の姿を直視することでもある。

ヤマコは絶望して叫ぶ

「(自分が)大嫌いなんだよっ!」

自分のことを「最低だ」と全否定するヤマコ。気持ちの乗った海荷の叫びが心に痛い。

そして、ここにいたって私も気づかざるえなかった。今まで海荷キャワイイ〜などと萌えという自堕落な感情に身をまかせてきた私だったが、

「これ俺じゃん・・・・ヤマコって俺のことだよ・・・・」

某有名批評家は映画評で自分語りをするなと言っていたが・・・そんなこと知ったことか。

ヤマコは俺だ。俺そのものだ。

ー自分にとって都合の悪い現実に目を背け、居心地のいい世界(映画の世界)に閉じこもっているのは俺。

ー自分の醜さを棚に上げ、他人を馬鹿にしているのも俺。

ー両親から与えられるだけ与えられながら、何ひとつそれに応えようとしなかったのも俺。(この映画で両親がでてくるシーンのたびに激しく動揺したのは、私が両親に負い目を感じているからにほかならない)

映画で自分語りをするやつは馬鹿。そのとおりだ。だけど俺はいつだって映画の中に自分がいないか探してきた。俺にとって映画はそういうものだ。

ラスト川島海荷がMajiでKoiする5秒前を歌う。明るく楽しい大団円。そこにヤマコの両親があらわれヤマコはその場で立ちつくす。俺の涙腺が決壊する。

これがうざくてくさくてキモい自分語りの映画評です。


posted by シンジ at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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