2010年07月17日

溝口健二の狂恋の女師匠はどこにある?

映畫読本溝口健二(フィルムアート社)を読んでいると「狂恋の女師匠」がオムニバス映画「ニッポン」の中に入っていてパリのシネマテークに保存されていると書いてある。

驚いて検索してみると蓮實重彦がこんなことを書いている。

シネマテーク・フランセーズには、故淀川長治さんを狂わせた『狂恋の女師匠』(1926)の断片もほぼ間違いなく残っていると見当をつけ、しかるべき人脈をたどりながら調査に入っています。ーあなたに映画を愛してるとは言わせない


溝口健二の幻の映画「狂恋の女師匠」(1926)とはなにか?

狂恋の女師匠は真景累ヶ淵の「豊志賀の死」のくだりを翻案。
清元(きよもと・三味線音楽のひとつで浄瑠璃の一種)の師匠、延志賀(酒井米子)は年下の男、新吉(中野英治)を口説き落とし自分のものにした。二人の噂が広まり弟子は次第にいなくなったが、お久(岡田嘉子)だけは毎日通ってくる。もしや新吉はお久と出来ているのではと邪推した延志賀は新吉を責めるうち、あやまって三味線のバチが目にあたり顔半分が黒く腫れ上がる。懸命に看病する新吉だったが、延志賀の嫉妬は手のつけられないものとなり、いつしか新吉はお久といい仲に。ある日延志賀は足をすべらせ頭を打って死んだ。新吉とお久はこれ幸いとばかりに駆け落ちするが、延志賀の怨霊が二人を追いつめる・・・・・。

狂恋の女師匠の歴史的意味合いは、溝口健二が初期の傑作「霧の港」「夜」(共に1923年)以降ずっと続いていたスランプからようやく脱した作品という意味もさることながら、「紙人形春の囁き」「狂恋の女師匠」と江戸、下町情緒を描いたことで溝口健二のスタイルを決定づけた最初の作品といえる点だ。

またこの狂恋の女師匠を見て熱狂した映画青年がいる。当時17歳の淀川長治である。

(狂恋の女師匠を見て)ビックリ仰天したの。何ていいものか、思って。これ全部口で映写できるよ(笑)〜これが僕の溝口健二への開眼となった作品。ー映画に目が眩んで口語篇より


淀川長治は狂恋の女師匠のオープニングをこう語っている

夏の晩の庭が映りました。キャメラが寄ってきました。誰もいない離れ。だんだん寄ってきました。濡れ縁があってそこの隅に何か煙が出てました。何だろうと思うと、それは蚊取り線香。そこから煙が流れてました。キャメラがどんどん寄ってきました。誰もいない離れです。その庇に白い岐阜提灯が、無地の提灯が吊ってありました。ずーっとずーっと寄ってきました。シーンとしてます。まだタイトルないね。あら、なんだろう、なんだろう思ってると、その提灯がバァァアッと燃えて、火が出て、バサァッと落ちたところから「狂恋の女師匠」というタイトルが出ました。うまいなぁ。面白いタイトルだなぁ。ー淀川長治映画塾最終講演より「サヨナラ特集淀川長治」河出書房


恐怖演出についてはこんなことを

(延志賀が死んで、それを知らせに行く新吉)「えらいこっちゃ。お師匠はんが死んだんでっせ」そしたら、「何言うてんの。人力車で今来たとこや」言うのね。「そこで寝てますがな」いうとこが怖いなぁ。キャメラがそっち向くのね。「そんなはずない」言いながら這い上がっていくところがいいんだね。ずっとふすま開けるとこ、ぞっとしたよ。ー映画に目が眩んで口語篇より

新吉とお久が駆け落ちしていく。二人は船に乗るのね。「はぁ怖い、はぁ暑い」いうて女が手を水に浸けるの。その手に櫛がひっかかった。その櫛に毛がついとるの。そういう瞬間の怖さったらないの。ー同上


溝口健二初期の傑作「狂恋の女師匠」がオムニバス映画「ニッポン」としてパリのシネマテークにあるという話。映画「ニッポン」は「怪盗沙弥麿」「大都会 労働篇」「狂恋の女師匠」の三本を編集して「ニッポン」という映画にしてベルリンとパリで公開したという映畫読本溝口健二の記述

さらに蓮實重彦氏が書いた前記の文章、おかしいのは蓮實氏がこの文章を書いたのが2003年6月。となれば、溝口の失われたフィルムがパリにあるなら溝口好きのフランス人がやっきになって探してとっくに見つけているはずである。

しかし今現在そのようなことは伝わってきてない。

一体どうして映畫読本溝口健二にこのような記述があるのか?実は映畫読本溝口健二の記述はある有名な方の著作を元に書かれたと思われる。

溝口健二の「狂恋の女師匠」「怪盗沙弥麿」「大都会 労働篇」の三本をカール・コッホに編集させて「ニッポン」という映画を作りベルリンとパリで公開した。ー川喜多かしこ「映画ひとすじに」(講談社)〜溝口健二全作品解説4巻より


そもそもこの川喜多かしこの記述が間違いではないかという証拠がある。2007年01月20日早稲田大学小野記念講堂で「失われた映画を求めて」という上映会があった。その上映会を見た人のブログ

川喜多長政氏が3本の作品をくっつけてヨーロッパに紹介したオムニバス映画『ニッポン』の中の@『怪盗沙弥麿』(1928、小石栄一)とA『篝火』(1928、星哲六)(残る1本は『大都会 労働篇』)ー日暮し地図より

さらに佐相勉の溝口健二全作品解説4巻にもこんな決定的な記述が

「NFC」第40号(東京国立美術館フィルムセンター2001年12月)に2001年10月に開催されたポルデノーネ無声映画祭に出品された作品リストが載っているのだが、そのなかに、
ーNIPPON(1932、東和)*シネマテーク・フランセーズ提供、「怪盗沙弥麿」(1928年、松竹キネマ、小石栄一監督)+「篝火」(1928年、衣笠映画聯盟・松竹キネマ、星哲六監督)+「大都会 労働篇」(1929年、松竹キネマ、牛原虚彦監督)のコンピレーションーという記載がある。


オムニバス映画「ニッポン」の中には「狂恋の女師匠」は入ってない!

事実はまるで川喜多かしこの書いたことと違ってくる。どうやら川喜多かしこの勘違いか、記憶違いによりこのような間違いが起こったよう。ではどうしてこのような勘違いが起こったかというのを考えると、当時日本最大の映画輸入業者と言われた川喜多長政が外国に日本を紹介するために最初に輸出した記念すべき作品が「狂恋の女師匠」だったことが、川喜多かしこの記憶を混同させたのではないかと想像するが・・・。

経緯はこうなる

@1929年3月川喜多長政が「狂恋の女師匠」を持ってドイツに行く。

A川喜多長政は2ヶ月後に帰国。その夏、東和の出資者でもあったドイツのフォン・スティテンクロン男爵が来日して松竹の城戸四郎社長との間に東和、松竹協同体としてベルリンに事務所を置く松竹映画欧州配給株式会社が設立。そして三本の松竹作品をドイツに送る。ー溝口健二全作品解説より

川喜多かしこはこの二つを混同していると考えられるのだ。欧州の松竹配給会社で松竹以外の(狂恋の女師匠は日活作品)作品を配給するとは考えられない。

というわけで残念ながら「狂恋の女師匠」はオムニバス映画「ニッポン」の中には入っておらず。見ることは夢のまた夢ということになりそう。

追記・さっき気づいたんだけど真景累ヶ淵の「豊志賀の死」のくだりを映画化した作品がつい最近あった。中田秀夫監督の「怪談」(2007)。新吉が尾上菊之助、豊志賀が黒木瞳でお久が井上真央だってよ!これ見てなかった、見るべきかな〜。
posted by シンジ at 19:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今日は、
とても面白い、ありがとう。ちょっと質問がある:フォン・スティテンクロン男爵と松竹映画欧州配給株式会社のことについてもっと知りたいだから、どこで情報を集められるの?おすすめの本とかがあるの?(日本語はまだまだ。。。ごめんなさい!)
Posted by Iris at 2011年09月08日 18:03
フォン・スティテンクロン男爵のことについては佐相勉の溝口健二全作品解説4巻の記述しか知りません。ごめんね。
Posted by シンジ at 2011年09月22日 18:40
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