Twitterではこう書いた。
「ヒーローショー」この映画をわからないとかつまらないという人を心底うらやましく思う。この吐き気をもよおすムカつく世界は俺のすぐそばにある。反吐が出るような安い顔、顔、顔。み〜んな俺の近所にいるよ。もう二度と見たくない傑作。
これをヤンキー差別やDQN嫌悪と受け取られる方もいるかもしれないが、それは違います。
はっきりいえば同族嫌悪、自己嫌悪に近い感情をこの映画に持ったのです。
この映画の見事なまでの薄っぺらい顔の持ち主たち。(俳優さん達を侮辱してるのではなく、見事なキャスティング、演技、そしてメイクや衣装を含めた上での完璧な役の造形)こういう顔をした連中を俺は確かに知っている。
この映画では確かに身の毛もよだつ恐ろしいことが描かれています。(実際の事件「東大阪集団暴行殺人事件」をモデルにしているhttp://bit.ly/9vvMZE)
でも俺にはここで描かれていることが自分にはまったく関係ない絵空事とは思えなかった。もしかしたら俺もここにいたかもしれないという恐怖がまとわりついてはなれない。
自分の仲間が悪い連中に脅されて金を要求されている。何とか助けてくれないかといわれたらどうするか?いまならすぐにでも警察に通報するだろうが、若く血気盛んなときならどうなっていたかわからない。
最初は誰も殺すつもりはなかったのに、異常な状況と集団心理で興奮状態におちいったら一体自分はどうしただろう。
俺もゴルフクラブを振り下ろしていたかもしれない・・・俺もあの中の一人だったかもしれない。
いまだに松屋で安いカレーやコンビニ弁当を食ってる底辺にいる人間として、この映画の世界はあまりに近すぎて怖いのだ。
この映画のことをわからないとかつまらないという人が心底うらやましいとは、そういうことです。
東大阪集団暴行殺人事件のwikiをみると映画での事件の首謀者(イ・ビョンホン似の兄ちゃん)のモデルは死刑宣告されたんだな・・・。それを考えると映画にまた一段と重い印象をうける。あの兄ちゃんもまさか自分が人を殺すことになるとは微塵も思ってなかったろうし、そして自分が死刑になるなんてこれっぽっちも考えてなかったろう。
映画でもそうであるように、実際の事件でもすべてを目撃してる一人を、見逃して帰している。普通に考えたらありえないことを犯人たちはしているのだ。これも想像できてしまうのが怖いが、人を殺して茫然自失となっている彼らがもう殺したくないと思ったのだろう。彼らにはもう一人無抵抗の人間を殺す気力も勇気も残ってなかったのだ。だから事件が発覚するかもしれないのに一人を見逃したのだ。(案の定見逃された一人の通報により全員逮捕される)
つまり彼らは決して人を殺すことを何とも思わない怪物じゃなかった。証拠を消すために殺して深く埋めたはずなのに、自分たちが人を殺したことに茫然自失となって、すべてを目撃した男を見逃すのだ。こういうところも自分は「わかりすぎて」痛いのだ。
映画の登場人物が自分とは何ら関係ないモンスターだったらどんなに楽だろう、モンスターならどんなバイオレンスでさえ楽しめるからだ。
だが、この映画は微塵も楽しめない。ここにいるのは俺と寸分違わぬ同じ人間だから。だから俺はもうこの映画を二度と見たくない。



その後事件が起こされて殺される警察不祥事が頻発しましたよね。
彼らも一度は警察に被害届けを出したようですが
取り下げて実力行使に路線変更したようです。
そう考えると警察への信頼低下がこの事件の遠因にも思えます。
これだけやりきれない感じにさせられる映画はちょっとないかも・・・。
まさに「厭なものを見た」気分で、誰かに話題にする気持ちにすらなれず、感想を書く気力もなかったのです。でも、シンジさんの感想を読んでようやく救われた(救われない気分を共有していた人の言葉を聞いて思い出す気力が出た)感じです。
実際にある厭な事件「ホームレス襲撃」とか「集団暴行殺人事件」とか、まともに描くと映画にもならない。ちゃんとした心理ドラマにならないから。まともな一個の人格があったら絶対ありえないような酷いことが、集団だからなのか弱さなのかわからないが現実に日々、あるのだから。
それをそのまんまの手触りで映画化した(処方箋も出さずに)井筒監督の試みはやはり凄い、と改めて思いました。
この映画が消えずに後世に残ったら、時代のメンタリティを映し出した歴史的意味を持つのかも・・・。