2010年04月23日

押井守の「映画的とは何か」

映画っていうのは引用でしか成立しないし、映画独自が生み出したピースっていうか、要素はいまだにないと思ってる。ある種の写真的なレイアウトの価値とか、演劇的な役者の力とか、言葉の力とか、音楽とか、自分のジャンルじゃない「映画の外側」から全部輸入し続けているんだからさ。映画が独自の価値を生み出したなんてこと、ただのいっぺんもないよ。

もしあるとすれば、それは「映画的である」という漠然としたものだよね。だから僕は「映画的なるものの本質というのは何なんだ」ということ、それだけを追求してる。それが極められれば、たぶん映画は変わるだろうし。

それをやった男が僕の知る限り一人だけいるんだよ。それがジャン=リュック・ゴダールなの。彼もまた引用魔だからね。彼はベートーベンを引用し、モーツァルトを引用し、ときにはバッハも引用し、膨大な言葉を引用し、もちろん役者も引用し、政治的言語まで全部引用した。もちろん意図的にやってる。「映画は編集なんだ」って。エディットして、引用をいかに整理して新しい価値を生み出すか。それが映画なんだよ。そこには当然「誰が、何のために」っていう自意識が必要なんだよ。ゴダールというのは突き詰めて言えばそれだけのことをやった男で、それをいまだにやってる。ー勝つために戦え監督篇・押井守

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押井守のいう「映画的」とは引用であり、編集である。という考えは正しい。しかし現実に映画を見て自分に起こっている出来事とは違う。編集の巧みさに感心したりはするが、それは映画的な感動とは違う。私にとっての「映画的」体験は映像演出そのものから得られる。

映画の感想を言ったり書いたりするときに、思わず「なんて映画的なんだ!」とあまり考えもせずに口をついて出てしまうことがあるが、映画を見ていて確かに「映画的」としかいいようのない感動をおぼえることがある。

映画的な感動とは、誰かが死んだから悲しいとか、愛が成就したからうれしい、とかいう感動ではなく、一体自分はこの映画の何に感動しているのかよくわからないが、とにかくこの眼前に広がるスクリーンにうつるなにかに感応してうち震えているという状態。

たとえば、黒沢清の「トウキョウソナタ」のオープニング。開いた窓から吹き込む風でカーテンが揺れるだけでどうしてこんなにも心がざわめくのだろう・・・。私は映画が始まった瞬間から「なんて映画的なんだ、最後まで見なくてもわかる、トウキョウソナタは傑作だ」と思ってしまった。この説明のつかない異様な体験はなんだというのか。

または、F.W.ムルナウの「サンライズ」路面電車がすべるように走り出し、電車の窓から景色が動いていく様をみつめているだけで酩酊してしまうのはなぜか。

フリッツ・ラング「暗黒街の弾痕」で死刑執行前の牢屋から脱走しようとするヘンリー・フォンダの顔のアップを延々うつしつづけているだけでなぜ体が震えるのか、同じようにカール・テオドール・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」のジャンヌの顔のアップだけで涙を流してしまうのはなぜか。

いままで安易に「映画的」と口にしてきたものを、なぜ「映画的」だと感じたのかを必死に考えることは(錯覚かもしれないが)自分にとって映画にコミットしていると感じさせてくれるのだ。

「映画的とは何か」を考えることが、映画そのもの、ひいては映画批評そのものを考えることにつながるのではないか。

・・・なんか難しいこと言ってるようですが、単純に言うと「この映画のどこが映画的か説明してみろ!」というドS女王様の言葉責めを必死になって考えるのが楽しい・・・ということです。
posted by シンジ at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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