山中貞雄衝撃のデビュー作である「磯の源太 抱寝の長脇差」とは。
昭和7(1932)年、長谷川伸の「源太時雨」を自ら脚本化、22歳で監督デビュー。「鉄の花環」(曽根純三監督)の併映作品として公開。寛プロというB級映画専門の映画会社の添え物映画という批評家が見向きもしない作品だったにもかかわらず、キネマ旬報の批評家岸松雄が偶然見てびっくり、大絶賛の論陣を張る。
「われわれは此の映画によって、山中貞雄という一人のすぐれたる監督をば新しく発見し得た。こんな映画の中にこんな有能の監督が発見されようなどとは・・・」
「山中貞雄は今、伊藤大輔のそのユニークな境地に力強く肉薄して行っているのである」
「これは近来になくすき間のない傑作時代劇である。監督者山中貞雄の将来には、われわれは少なからぬ期待をかけてよいと思う」ー岸松雄
2009年12月に亡くなられた日本映画界最古参の批評家双葉十三郎氏も「抱寝の長脇差」をオールタイムベスト10の1本にあげている。
「まるで嵐寛の声が聞こえてくるような見事さで、シーンと字幕のマッチングの素晴らしさに圧倒された」ー双葉十三郎
そして新人監督のデビュー作としては異例のキネマ旬報8位に選出。(ちなみにその年のキネ旬1位は小津安二郎の「生れてはみたけれど」)
そんなすでに失われたと思われていた幻の傑作を山本監督は1975年頃観たというのだ。番組内での山本晋也監督の発言を書き出してみよう。
ー抱寝の長脇差の再現ドラマを撮影中の山本監督、有名なシーン、お露が地面に「こいししたわしげんたろ」(恋し慕わし源太郎)と書いて、足で消す場面をモニターで見るとこう言う「思い出した、こういうカットあったよ!40年前だよ・・・」
(ナレーション)実は山本監督は山中のデビュー作「抱寝の長脇差」を見ているのです。この幻の映画を見たのは昭和50年頃です。
(山本晋也監督インタビュー中)
「ある人が福生(東京都福生市)に住んでいた、フィルムコレクターが。そこへ行ったら、まぁ〜福生の方のうちは家が傾いてるくらいフィルムの山!それで行ったら、コレクター自慢だよ。(その人は)本来アニメのすごいコレクターなんだけど、俺なんのアニメにも興味ないわけですよ」
福生のコレクター「山中貞雄なんて知ってる?」
山本晋也「知ってるよ」
コレクター「抱寝の長脇差なんて、これは貴重品だぞ」
山本監督は再現ドラマを撮っているとき、「思い出した、こういうカットあったよ!」と言っています、ということは、その福生のコレクターの家で抱寝の長脇差を映写してもらったということでしょうか。
無声映画時代に詳しい人によると、寛プロ(嵐寛寿郎プロ)のようなマイナーは、新人映画監督のデビュー作は2本くらいしか上映プリントを作らなかったそうで、その映画が公開巡業を終える頃には、プリントはボロボロになっていたはず。山本晋也監督が見たという「抱き寝の長脇差」が完全な形で残っていると言うことは有り得ず、おそらくは短縮ダイジェスト版か、せいぜい10分程度の断片的なプリントを見たのではないかと推測されるそうです。ー山中貞雄掲示板より
では気になるその福生のアニメコレクターとは誰なのか?
伝説のフィルム・コレクターとして知られる杉本五郎氏のことである。
杉本 五郎(すぎもと ごろう、1924年 - 1987年6月13日)は、東京都出身の男性。アニメーション研究家、映画フィルム収集家、漫画家、アニメーター、著作家。漫画執筆時のペンネームは、つゆき・サブロー、露木三郎。大日本フィルム社取締役、青山デザイン専門学校講師、東京工学院専門学校講師、アニドウ顧問などを務めた。wikiより
さらに山中貞雄掲示板では
彼は埼玉の大宮市に住んでおりましたが、1971年に火災があり、所有コレクションの一万五千本のフィルムを焼失し、その際の隣人トラブルで、福生市に引っ越し、再びコレクションを始めて5千本まで集め直したそうです。山本監督が「抱き寝」を見たというのは、明らかに火災後の福生市に引っ越してからですから、このフィルムは焼失を受けていません。ー集まれ! 山中貞雄ファン掲示板
これはかなり抱き寝のフィルムの生存率が高くなってきた。あとは杉本氏が亡くなられた後その膨大な数のフィルムコレクションがどこへいったのか?それも掲示板に答えがありました。
ー現在は、大日本フィルム社の金子けいじ氏がその遺産を管理、運営している。
で、この大日本フィルム社。検索すれどもすれどもいっこうに出てこない。さてどうするべと悩んでいたところ、たまとわさんがヒントをくれました。
アニドウのオフィシャルHPにはBBSもあるので、杉本コレクションの現状について質問してみるのも手かも。ー@tamatowa
なるほど!杉本五郎氏はアニドウ顧問とwikiにある。
アニドウとは・・アニドウは1967年に東映動画(現東映アニメーション)、虫プロ、東京ムービー(現トムスエンターテイメント)、スタジオゼロ、TCJ(現エイケン)、Aプロダクション(現シンエイ動画)などに働くプロのアニメーター達によって設立された組織。アニドウが主催した上映会は今までに400回を超え、専門書の出版やフィルムのコレクション、ジャンルを問わないアニメ資料の収集、さらに世界の新作アニメの配給など行っている。アニドウ・フィルム代表取締役なみきたかしーアニドウHPより
というわけでアニドウBBSに突撃。
シンジーかってアニドウ顧問をつとめられた杉本五郎氏のフィルムコレクションの中に山中貞雄監督の「抱寝の長脇差」(1932年)があるのではないかと思い書き込みをしました。くわしく説明すると、NHK-BSで放映された山中貞雄生誕100年記念のドキュメンタリー「チトサビシイ」の中で山本晋也監督が1975年頃福生のアニメコレクター宅で「抱寝の長脇差」を観たと証言しているのです。当時福生在住で高名なアニメコレクターというと杉本五郎氏以外にはいないと思われます。杉本氏のフィルムコレクションの中に「抱寝の長脇差」があるかどうか確認はできないものでしょうか?
アニドウー少なくとも、僕は見たどころか聞いたこともない話しです。この番組の制作社からも問い合わせがありましたが、そうお答えしました。もし、存在するなら所有者は世に出す義務があると思います。
シンジー早速のお答えありがとうございました。>杉本五郎氏は1971年に大日本フィルム社を設立し、同年、自宅の火災でコレクションの大半を焼失。火災後、福生市に引っ越す。ということでしたので、抱寝の長脇差は火災からまぬがれ、山本晋也監督の目に触れたのかと思われたのですが・・・。残念です。
アニドウー杉本さんは火災後にも収集していましたので、あったとすれば比較的新しく収集したものでしょう。ただ、他にも何人かの評論家・研究家の方が出入りしましたので、その方々が見ていない(見せられていない)というのが疑問です。僕はアニメーション専門ですから、自慢されてもわからないので見る機会は最初からなかったでしょうけれど、時代劇に詳しい方が他にいましたから、本当に幻の作品があれば杉本さんからすすんで見せていたはずです。
山本晋也監督を疑うことになって申し訳ないのですが、話し半分という気持ちです。
いきなりの不躾な質問にお答えくださったアニドウ様本当にありがとうございました。
・・・・というわけで晋也〜w
確かにそうなんだよな、もし杉本五郎氏が抱き寝のフィルムを持っていたなら、山本監督以外にも見せていたはずなんだよ。でもNHKの特集で山本監督が嘘をついていたとは思えない、というか嘘をつく理由がない。となると考えられるのは・・
@山本監督は確かに杉本氏から「抱寝の長脇差」を見せられたが、その後すぐに杉本氏が誰かに譲ったか、あるいは紛失、最悪の場合盗まれた可能性。
Aそもそも山本監督が福生で会ったアニメコレクターは杉本氏ではなかった可能性。
@の場合はどうしようもない。Aは山本晋也監督に尋ねればすむことだが、さて・・。
とりあえず調査はここまで。私としては山中貞雄の「抱寝の長脇差」のフィルムが現存するという一縷の望みを捨ててはいない。
なる人物が、どういう人なのかを
一度お調べになった方がいいのでは?
なお、こちらのurlもご参照下さい。
http://www.style.fm/as/05_column/gomi/gomi122.shtml
「河内山宗俊」の日活版DVDに収録された「磯の源太 抱寝の長脇差」を見て衝撃を受け、ネットで情報を集めていたところ貴方様のブログにたどり着きました。
おお...山本晋也をめぐってそのようなことがあったのですか。知りませんでした…。
私も見たくて見たくてしょうがない映画です…!
最近、全くの偶然で、山本晋也監督と食事を同席することが出来て、「抱寝の長脇差」についても訊いてみました。
山本監督に依りますと、福生の杉本五郎さん宅で視たそうで、ダイジェスト版ではなく全長版だったとの事でした。
杉本さんの著作には、上山草人がポパイに扮した「娘たずねて三千里」の映画フィルムも所蔵されており此れも行方不明。おそらく「アニドゥ」は杉本コレクションの内.アニメ映画ばかり引き取り、実写映画は誰かが持っていたったのでしょうね。未だ、「抱寝の長脇差」を発見する一縷の望みはありそうです。