2010年03月08日

黒沢清トウキョウソナタ・成熟と未成熟をめぐって

2010年3月6日に行われた国際シンポジウム 「クール・ジャパノロジーの可能性」についてのTwitterのまとめがあるのですが、リンク先があまりにも重いので、手軽に読めるように黒沢清監督関連の発言だけ抜き出してみた。(一部関係ない発言もあるかもしれないので、リンク先のTogetterで確かめてください)

テーマ「日本的未成熟をめぐって」
登壇者
東浩紀(批評家)
黒沢清(映画監督)
宮台真司(社会学者)
村上隆(現代美術家)
キース・ヴィンセント(比較文学者)

キース・ヴィンセント・黒沢清のトウキョウソナタでの父親は社会の荒波において大人ではないが、次男は米軍に志願しエディプス的な男性として未成熟さを治癒するかのように見えるが、その関係はアンビバレントなものである。

キース・未来に向かって何も起こらない時間的感覚は、日本の敗戦後から続いている。日本は敗戦した時、『次の戦争の可能性が消滅した』ために、今のような幼児性を永劫抱えることになったのだ。『次の戦争』が起こらない限り、この感覚が消失することはない。

成長の手段として戦争を選ぶ長男と、ピアノを選ぶ次男。成長を選ばない父親。脱却を選ぼうとする母親。ートウキョウソナタ

東浩紀・キースさんは基本的には未成熟と成熟、男性女性という二項対立から逃れていくことの重要性。村上隆の作品や、トウキョウソナタの作品にそれらが現れており、現実と架空の融合性などといった『新たな成熟性』を論じる必要がある、ということを言ってました。

黒沢清・日本映画の世界は戦前からの撮影所や徒弟性がのこり、クールジャパンというのとは対照的。古くから海外で受けた巨匠たちは未成熟とは無縁の文脈だった。

黒沢・黒澤明をはじめとする、世界で地位を確立している映画監督は、テレビが娯楽の華となるまえ、映画が娯楽の華だったときの監督は海外で知られているが、それ以降の映画監督はほとんど知られていないのが現状。一番知られているのが宮崎駿。

黒沢・現代の日本映画は海外では関心が持たれていない。北野武などは「個人」として有名。

黒沢・現在の日本の映画監督で最も知られているのは宮崎駿さんだと思います。ただ、宮崎さんと黒澤明、溝口健二との関係性はほとんど考えられてない。

黒沢・世界的に名が通っている「今の巨匠」(=宮崎駿、北野武、大島渚)と、「かつての巨匠」(=黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男、小津安二郎)の間にある、断絶と繋がりを問題にしたい。

ー黒沢清監督作「復讐」シリーズをうつしながら。

黒沢・平面的・静か・スタイリッシュという要素が、海外において『日本的』であると評されている。

黒沢・これが静謐でスタイリッシュで日本的だと評価された。自分としては時間も予算もない中での苦心の策だったからキョトンとした。

黒沢・ヤクザの殴りこみという物語的に重要なシーンであるにもかかわらず、茶室で淡々と茶を立ているような、そのギャップが面白いという評論がある一方で、このシーンをこういう風に撮ると何も盛り上がらないという評論もある。

黒沢・何かを表現する上の狙い≠徹底すること/何かを表現する上の狙い≠徹底せず相手の読解力(暗黙の了解)に期待することを、成熟/未成熟と見る。

黒沢・海外からのステレオタイプにも思える反応で、本当に自分はアクションの迫力や恐怖を完全に狙って演出したかと問われると、そうは言い切れない未成熟で曖昧な日本の私に気づいた。

黒沢・何の狙いも無くても、漠然とシーンが流れていっても、映画として成立してしまうのが、アニメと違うところではないかと思う。

黒沢・ハリウッドは1シーン1シーンを計算ずくで構築していくのかもしれないが、そうではなく、目の前の事象に対して、幼児的に、動物的に、ただただカメラを回すという表現が映画ではあってもいいのではないかと思う。

黒沢・映画は歴史の浅い『未成熟な』芸術。芸術といっていいかもわからない表現。その表現に『未成熟』と言われる日本人が合致しているのはある意味、当然『かも』しれない。

黒沢・アニメは成熟した作業なんだろうなあ。映画なんていいかげんですよ。

黒沢・実写映画を撮るのは『動物使い』のようなもの。全ては『たまたま写る』

黒沢・(アニメが全部のコマを作るんだから)映画はそれに比べると、野蛮的だよね。動物的だよね。たまたま撮れただけ、俳優が偶然そう動いただけっていうのを撮っただけ。だから全然違うような気が(僕には)しますね。

黒沢・(アバターについて)3Dをさも新しいようなことに宣伝して、上手いことやったなぁと思います。3Dの技術は1870年頃に既にあって、そのときからなーんにも進化してない。

黒沢・(キャメロンの映画としては…?)いやーキャメロンですから、うわーこのカットすごい、とか全然無い。ストーリーに関しては、こんな古臭い話(ネイティブアメリカンのような話)を持ってきたなーと。大きな木が一本あって、それが倒れるのなんてまさにそれ。

黒沢・忘れていたことに巨大なサイが突撃してきて敵を蹴散らしていくってのが、一番感動的だった。一番強いのはサイだった。

黒沢・古典西部劇のように古臭い話を19世紀の古臭い手法(3D)で古臭く無難に撮った話がキャメロンの「アバター」。でもサイとかヘリコプターの画は好かった。

黒沢・ハートロッカーはヒドイ、注意しろ!

黒沢・ハートロッカーって映画は実写の力を全面に出して、アバターと対極にありますが、とてもひどいプロパガンダの話で、これは現実だよと押し付けてますが、全然面白くないです。

黒沢・とりあえず「東京」を映しておくと、そんなつもりは作り手になかったとしても、「東京について語った映画」だと思われる。

宮台真司・黒沢さんの映画はリア充批判ですよ。情報の非対称性だとか現実があると思わせるものを出すのは卑怯だと考えている。それらを全て取り去ると「地獄の警備員」や「回路」のようになる。

宮台・黒沢監督の映画は「リア充」批判。「現実」があるように思わせるのは卑怯。所詮「現実」はこんなもの。みんなが「家族」だと思っているものなど成り立たない。不可能な表象としてのみしか成立しない。

黒沢・お前もっと大人になれよって言ってくるのは、いつも上の世代、全共闘世代なんですよね。

黒沢・全共闘世代に政治的に振る舞ってしまった人たちのように「ほんもの」を探求するような生き方だけは絶対にしたくない。そもそも、彼らの「ほんもの」って何?

黒沢・だから僕は(上の世代の言うこと全部に)反発しましたね。あいつらのいう本物は全部ウソだと。彼らの本物は本物だったかというのは今でも怪しい。未だに彼らのことがトラウマである。

黒沢・僕は成熟するのが正しいとは思ってないし、未成熟なものに強い政治的なメッセージがあるのではないかと思ってる。でもその未成熟が全て「カワイイ」に回収されるのは何か違うような気がします。

キース・トウキョウソナタの最後の「ピアノ」は「かわいい」とは別の未成熟。
posted by シンジ at 05:15| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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