どれみは魔女見習いの少女。学校から帰宅途中ふと遠回りをして不思議な家を発見する。そこには魔女をやめた魔女、未来(みらい)さん(原田知世)が住んでいた。自宅に溶解炉があり、そこでガラス工芸をしている魔女。
引っ越してきたばかりの未来さんに街を案内するどれみ。美空町で一番夕焼けが素敵な海の見える高台に案内してもらった未来はお礼に自分で作ったビー玉をどれみにプレゼントする。
未来「ガラスってね、冷えて固まっているように見えて本当はゆっくり動いているのよ。ただし何十年も何百年も何千年もかけて少しずつゆっくりと。あんまりゆっくりなんで人間の目には止まっているようにしか見えないだけ。でも何千年も生きる魔女はガラスが動いているのを見ることが出来る。いずれ私もそれを見る」
この作品を支配する最も重要なセリフがこれだ。このガラスの性質を言いあらわした言葉こそ魔女の世界を端的にあらわした言葉なのだ。ガラスの性質とはー
ガラスをいくら冷やし続けても、結晶化はしない。固体の定義である、温度低下に伴う結晶化が見られないので、ガラスは個体の仲間には入れないのだ。そのためガラスは異状に粘度が高く、剛性がある不思議な液体、ということになる。ですから、長い年月がたつうちに、少しずつガラスはたれてくる。一番良い例が、長い年月を過ごしてきたステンドグラスです。ちょっとみただけでは判りませんが、上に比べればやや下側が厚くなっている。ーステンドグラス〜ガラスが描く世界より抜粋
つまりガラスというのは、固形物のように見えながら実際は長い年月をかけてゆっくりと動く液体。どれみと魔女をやめた魔女は明確にガラスが魔女の永遠の生命のメタファーになっている。
永遠に生き続けるということは周りから見れば止まった時間を生きているように見えるが、実際は周りとは違うゆっくりと進む時間の中に生きている。つまりガラスは現世に存在していながら、現世とは完全に違った時間を生きている魔女のメタファーである。
金魚鉢のガラスから透けて見えるどれみ、理髪店のポール、波ガラスを横切るどれみ。ビー玉をのぞくどれみに、ガラス細工を生業とする魔女。
細田守は執拗なまでにガラスの反射と、ガラスから透けて見えるどれみとその世界を描写する。現実に存在しながら現実とはまったく違う時間を生きているガラスが現実と魔女の住む世界との差異を表すのだ。
「何千年も生きる魔女はガラスが動いているのを見ることが出来る。いずれ私もそれを見る」
この未来さんのセリフはそのまま、ガラスが動いているのが見えるほど私は何千年も生きてきたという意味だろう。だがこのシーンは異様に死の香りが濃厚で、まるで遺言のようにしか聞こえないほどゾッとするほどの響きがある。
そこにあるのは永遠の孤独、絶望の響き。死なないこと、永遠に生きることが喜びも幸せもない、ただ永遠に続く苦痛でしかないことを匂わせる、これはそんな言葉だ。
翌日、どれみは再び未来宅を訪れ、三面鏡のなかにびっしりと貼られた写真を見る。それはすべて未来が過去にかかわった人たちの写真。そこにかって未来が愛した男の写真があったが、未来はその恋をあきらめたという。どれみはなぜなのかわからない。未来はどれみと記念写真を撮りながら言う。
未来「町から町へ、国から国へ、すぐ引っ越しちゃう」
どれみ「ずっと同じとこにいてもいいじゃん」
未来「それはね、同じ人間といるといろいろ不都合があるからよ。だって、あなたも魔女になるなら・・・」
ハッとして口ごもる未来。この娘はいまだ魔女の過酷な運命を知らないのだ・・・。永遠に生き続けると言うことは永遠に年を取らないということでもある。だから魔女は決してひとつ同じ場所に居つづけることは出来ないのだ。
うっとりするようなガラス工芸の行程をじっくりと見せるシーンが続く。これが20分程度のアニメとは思えないほどの贅沢な時間の使い方。どれみが友達はみんな目標があるのに自分だけは何をやっていいかわからなくて、何も見えないと未来に悩みを打ち明ける。
どれみが何も見えない(自分の未来が見えない)というのに対し未来は何も見えなくていいじゃん、とあっさりという。
なぜ未来はどれみに対して何も見えなくていいと素っ気なく答えたのか、それは魔女の先には過酷な運命しか待ち受けていないことを知っているから。そして幼い子供であるどれみにそんな過酷な運命を背負わせることの残酷さも。未来はどれみの悩みに答える代わりにグラスの縁をなでて不思議な音色を奏でる。
まるでこの時この瞬間が永久にパッケージされたかのようなガラスの音色。このとき未来はどれみに呪いをかけたのだ。ガラスの時を生きる魔法を。
ガラス工芸の作業が終わると、未来はどれみにまた引っ越すことを告げる。ヴェネチアにいる、かって愛した男が90歳となり未来にこっちで勉強しないかと言ってきたのだ。
未来「彼は今、私のことを昔好きになった人の娘や孫だと信じてる。だから、私も彼が昔好きだった人の娘や孫を演じ続ける」
かって愛した男が今は死の間際にいる。未来はそれを知り、その死を看取りに行くのだ。自分はその孫と偽って・・・。これが魔女というあまりにも残酷な現実だ。そして未来は思いがけないことをどれみに言う。
未来「あなたは人間で、まだ魔女見習い。魔女の世界を知っているようで実はガラス越しにしか見てないようなもの。でも、もしその先を見てみたいなら、ヴェネチア、私と一緒に来る?」
ここで未来はどれみにあまりにも過酷な決断を迫るのである。私と一緒に来て、魔女の本当の世界を知る?と。
その言葉が何を意味するのか。それは今どれみが住んでいる土地を離れ、家族や友人たちと別れて、永遠の時を生きる魔女となるということ。現世を捨て、もはや普通の人間との関わりを捨てた彼岸の世界への旅路を意味する。
未来は明日必ず来てという。明日がその旅立ちの日だという。
どれみは家に帰るが、家族の団らんがとても遠くに感じられる。まるでもう自分とは関わりのない人たちのように感じられて・・・。なぜ少女がこのような苦悩を抱えなければならないのか?いままでどおりみんなと一緒に魔女修行をしていれば魔女になれるはずではないか。
だが、どれみは思い悩むのである。家でも学校でも周囲から隔絶した時の中で苦悩するどれみ。それこそが未来のかけたガラスの魔法。現世とは違う時の中を生きる魔女の呪い。
そして次の日、夕闇、黄昏時。いつもの五叉路に立ったどれみは決断を迫られる。左にゆけばいつもの平和で穏やかな日常が待っている。暖かい家族、楽しい学校、にぎやかな友達。そして右にゆけば、それらすべてのものと別れ違う世界へと行くことになる。
そして、どれみは決断する。現世を離れ、魔女の世界、彼岸の世界へと飛び込むことを。一人の少女がはじめて安穏とした道、通い慣れた道ではなく、明らかに苦難が待ち受けている道を選ぶのだ。
その決断のなんと重い事か・・・彼女は家族を、友達を捨て、未来とともに魔女として永遠の時を生きる事を決断したのだ。
このような彼岸への旅路といってもいい決断を幼い少女にさせる物語は異常である。
魔女として生きるということはどういう事か。それは永遠の時を生きること。永遠の時を生きることとは、無数の苦痛と無数の死を通過する事である。それはまさに死出の旅路といって差し支えない。
それも永遠に終わることのない死出の旅路である。
だが、どれみが必死の思いで決断した時、未来は去っていた・・・。未来にはどれみを最初からヴェネチアに連れて行く気はなかったのかもしれない。未来はただどれみをためしただけなのかもしれない。魔女になる事がどんなことか理解できないであろう子供に対して、永遠に生き続ける事が終わりのない死だということを。そのことを受け入れる覚悟があるのかどうかを。
そしてどれみは幼いながらもその覚悟を示した。どれみは家族や友人という現世への執着を捨て永遠の魔女の孤独という彼岸への道を選んだのだ。幼い少女にこのような決断をせまる細田守の残酷さに呆然とするほかない。
だがしかし、未来はどれみに魔女の世界の一端を見せただけで去った。そして少女はいつもの日常へと帰って行くのだが、ふと私は想像するのだ。本当に未来はどれみをためしただけで一緒に連れて行く気はなかったのかと?
未来さんは穏やかで優しい魔女?。何千年もの想像を絶する長い年月を生きてきた人ならざるモノが、人間の価値観や道徳観ではかれるようなものだろうか。一人の少女の運命をもてあそぶことに蚊に刺されたほどの痛痒も感じないと考えるのは間違いだろうか。
私は恐ろしいのだ、未来のなかにエゴイズムはなかったのか・・・永遠の孤独に耐えかねた魔女がその孤独をまぎらわすために少女を巻き添えにしようとしたエゴイズムが本当になかったといえるのかと。
グラスの縁をなでた時、未来は確かにどれみに呪いをかけた。
最後どれみは日常へと帰って行くように見える。だが、そこはどれみにとってのいつもの日常ではない。すでにどれみの時はガラスの時に浸食されている。いずれ家族が、友人が、恋人が遠くに去り、永遠の孤独がどれみを蝕むだろう。
私は慄然とする。一人の少女が世界を転々としながら、誰にも関わらず、誰も愛さず愛されず、永遠に終わることのない旅を続けている姿を想像して。
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おまけ・細田監督がブログなどでよく見せるポーズ
これどれみのポーズと一緒ですね。ディープな細田ファンなら知っていたのでしょうが、自分はおジャ魔女どれみを見て初めて気づきました。
これは名作ですね、ビックリしました
いま、この瞬間が、関先生の声とか、玉木の後姿とか、はなちゃんとか、魔法堂とか、そのはかなさとか。
そういった、愛しいものたちと、いずれは別れていく運命なのだ。それはドッカーンの最終話に収束していく。
この回は、最終的にどれみたちが魔女(=永遠の生命)を選択しなかったストーリーの伏線かな、と思っていたけど、そういう見方もあるのかな。と。
おおかみこども、、、を見て、感じたのは、ある種の残酷さです。現実を前にした容赦のなさというか、お母さんがかわいそうすぎるとか、そういった現実を超えた苦悩に、細田さんの作家性を感じます。
何年の記事だと思ってるんだ
小学生の頃にはアニメは最終回で終わりと見ていましたが、見る人が見ればその後もあるのだなと。
Japanese title given to it is"Love of 6400-year-old",Captain.
だけど、自分自身の「魔女」の概念が180度変わった記事だ
(喩えがおかしいのかもしれないが、)ウルトラマンでも、現実を感じさせる回がいくつかあるのと同じようなものかな、今回のこれは?
改めて、脚本担当や監督が変わると、伝えたいことが違うんだなって思った
先の事が分からなくていいっていう台詞は、未来の無い自分と比べて全てが未知である事が価値のある事だと言ってるように聞こえるし、未来の人物像も単純な善意の人とまでは思わないけど、最後にベネチィアに見取りに行く事からも誠実な人だと読み取れる事からどれみを巻き添えにしようとは微塵も考えていないと思うわ
ついでに最後の分かれ道でのドレミの選択も暗喩的ではあるけど魔女として生きる覚悟を決めたと断じるには描写が無さ過ぎるから、せいぜい楽しい事ばかりだと思ってた魔女になるって事に対する不都合な事から目をそらさず考える事と向き合う覚悟が出来たくらいでベニスに着いていく事まではさすがに決めてないと思うな
シンジ様
見事な切り込みと、物語の汲み取りの、解説だと思います。
深く、感銘を受けました。
敢えてコメントの必要の無い内容なので、「コメント欄の『深読み』説に対して」どうしてこの作品のみ、ゲストの声の出演が「原田知世」だと言う事に、言及しないのでしょう?
彼女の映画初出演作が、名作とされる大林宣彦監督の『時をかける少女』そして、その数年後にこの演出(TV1話分においては監督に同じ)を担当した細田氏自身が、その映画にオマージュを込めた平成版の、初アニメ化『時をかける少女』を監督した事実。
これらを知ったこの時点では、とても唯の偶然とは思えません。
今のところ彼女は、TVアニメ・シリーズでは2話の作品に、ゲスト出演しているに過ぎません。
その内の1本。それもこの話に限っては、主役とも言える役柄。
わざわざここまでした作品を、「深読みに過ぎる」とは、余りにも浅慮に思えます。むしろもっと深く、細田アニメ論を語る、キッカケにしてもいいくらいです。
実は基本的にどうして、ここで原田友世を出演させる事が出来たのか?
何か、個人的なつてでもあったのかと、その方が気になります。そして、彼女が出演した事で、この作品はその時点で、「凄ぇ〜ッ!」となりました。
書き汚しで、失礼致します。
でもまぁ何はともあれこの話すごいわ。
この解説は概ね細田演出に忠実だと思う。
ただどれみ自身の理解はもうちょっと断片的に思う。
どれみが事の大きさは感じつつも子供の断片的な理解のままの子供の好奇心による決断に過ぎない事に未来が気づいたから目の前から去って行ったのだろう。
どれみ自身はなんとなくは感覚的に感じつつもその「代償」に関しては未来はもちろん第三者視点の視聴者ほども理解しては無い。
1000年生きた未来は「大人」とも同列ではない何かに成ってしまってるかもしれないけど、どれみは「子供」以外の何者でもないから。
未来は残酷ではあるが騙し討ちをするような悪人では無いし。
もし本当にどれみが意味も代償も理解しきった上で決断したのなら例え未来が去ろうとも日常に戻れずに最終回になっちゃう。
実際に、先々代の女王は未来さんと同じ思いで呪いをかけてますし。
人間界での悲しみを動的に表現したのが先々代の女王で、静的に表現したのが未来さんのように思う。
この話も当時見てたはずだけど、あまり覚えてません。懐かしいです。
お子様向けなのにすげ〜話だと思ってたんだけど
細田監督か〜なるほどねって今納得
「俺はそう思う」というだけの話で別に間違っていると言い切ったわけじゃないし、考察していないなんて俺は一言も言っていない。
それに万が一、特に考察していないとしても、別にそういう楽しみ方だって絶対に間違ってはいない。
深く考察することが正しくて、軽い気持ちで見てるニワカは悪いなんて考え方はバカバカしい、独りよがりな意見だ。
ましてや俺は軽い気持ちで言ったわけではないし、断定したわけでもないのに、他人の自由な主張に対し「頭が悪い」などと決定づける意見はどう考えてもおかしい。
“全員自分の意見に賛同させよう”
って考え方の輩が出てくるのかね? 宗教なの?
自分の感想を書くなら解るが、
他人の感想を否定するのは製作者側にも失礼だと思うんだが・・・。
一つの答えに辿り着いてほしいならはっきりと描くでしょ。
それを態々、メッセージ性を込めながらも曖昧な表現をしてるのは、
観る人に色々な感じ方・捉え方をしてほしいからじゃないの?
今さっき改めて見てたらゾクッとした。
しかしそれぞれに別々の色の夕陽を見た人達も同じ感情を想起する。それは寂しさ。このエピソード全体を包んでいる空気感と似ている。
余韻を残すいいエピソードだと思うが細田演出ならデジモン21話の衝撃には到底敵わないと感じた。
そしてこのブログを通して再度視聴しました。一つ一つのシーンにそんな意味、意図があるとはつゆ知らず、ただただ感服致しました。
素敵な感想、考察とても役立ちました。ありがとうございました。
感想、考察とても役立ちました。
演出の意味がわかり納得しました。
ありがとうございました。
自分が初めてこの回を偶然に観た時も、同様の衝撃を受けました。
何より佐倉未来役に原田知世をキャスティングしている時点で、細田監督は全部考え抜いて演出している確信犯と見て間違いないと思います。