2009年10月19日

山中貞雄全作品解説

山中貞雄全作品をくわしく解説してるサイトが見つからないので、自分で書いてみようかなと思いました。解説自体はまだ不十分なものですが、これからいろんな文献を集めて付け足していこうかなと思っています。

参考文献・「山中貞雄作品集全一巻」、「映画監督山中貞雄」加藤泰著、「評伝山中貞雄」千葉伸夫著、山中貞雄を見よう!!(映画サイト)あらすじはシナリオを読んでシンジが書きました。シナリオがないものは映画監督山中貞雄、評伝山中貞雄を引用しました。

「僕は山中貞雄の世界は“恋愛”だと思う。“恋愛”における男心と女心の葛藤だと思う」ー加藤泰

@「磯の源太 抱寝の長脇差(だきねのながどす)」1932嵐寛寿郎プロキネ旬8位
原作長谷川伸・脚色監督山中貞雄・撮影藤井春美
嵐寛寿郎(磯の源太)・松浦築枝・市川寿三郎・片岡市太郎
茶屋で働くお露は人気者。矢切一家の勘太郎と弥吉もお露を愛しているが一家に草鞋を脱いだばかりの磯の源太とお露が幼なじみで仲がいいのを横恋慕して源太の命を狙う。さらに矢切一家の敵である宮久保一家の用心棒もお露を我がものにしようとしていて・・・。印象的なのはラストで、お露が源太のことを想い地面に「こいししたわしげんたろ」(恋し慕わし源太郎)と書いてげんの字を踏んで消す。それを読む勘太郎。ラスト弥吉を殺したのが源太ではないと知った勘太郎は、源太を助けるために用心棒連中へ殴り込み深手を負う。そこへ源太とお露がくる。源太は地面に書いた文字は「こいししたわし“かん”たろ」と書かれていたといい、瀕死の勘太郎の手をお露に握らす。
(シナリオから)源太「握ってくれてるなぁお露さんの手だ。勘太お露さんへの置き土産ににっこり笑って死んでいきな」
勘太苦痛をこらえて笑う。
「ありがてえ、お露さん」
そのまま勘太はこと切れる。
敵二人、源太に斬りつける。
二人を斬った源太は泣いている。
お露も泣いている。
笑っているのは勘太一人。

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昭和7(1932)年、長谷川伸の「源太時雨」を自ら脚本化した「抱寝の長脇差」で22歳で監督デビュー。当時阪東妻三郎プロ、片岡千恵蔵プロ、市川右太衛門プロ、など時代劇スター主催の独立プロがいくつかありましたが、寛プロは今風にいうならB級映画の撮影所で、その作品は阪妻プロや千恵プロのものにくらべてあまりインテリ層には注目されませんでした。しかし、のちに生涯の親友となる岸松雄が「キネマ旬報」でこの「抱寝の長脇差」を絶賛したために山中貞雄は一躍注目を浴びます。(山中貞雄を御存じですか?より引用)「鉄の花環」(曽根純三監督)の併映作品として公開。寛プロというB級映画専門の映画会社の添え物映画という批評家が見向きもしない作品を発見評価した岸松雄はえらかった。

A「小判しぐれ」1932
原作長谷川伸・脚色監督山中貞雄・撮影吉田清太郎
嵐寛寿郎(いの一の太郎吉)・頭山桂之介・玉島愛造・歌川八重子
不覚にも小判五百両を盗んだ悪浪人二人にだまされその手先になりお尋ね者にされた元火消しの太郎吉と、彼をしたって故郷を出て江戸の小料理屋の女になって彼を捜すおよね(歌川八重子)との悲恋。運命は太郎吉が堅気の火消しの時には二人をあわせず、不覚のお尋ね者となった時にバッタリ会わせる。だが太郎吉はおよねに累を及ぼすのを恐れ「人ちげえ」とシラを切り通す。およねは絶望しその心の隙へ悪同心の好色の手がのびる。それを知った太郎吉は隠しておいた小判を取り出し、迫る捕手への目つぶしに投げておよね救出にひた走る。そして絶体絶命の状況でおよねだけは助けようとする間際、太郎吉はたまらず「人ちげえは嘘・・・」と打ち明ける。およねはただ「恨めしい・・・」(映画監督山中貞雄・加藤泰著より引用)
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小判しぐれが完成したとき嵐寛はマキノ正博にこう言ったという。「若旦那、おかげはんで、ええシャシンが出来ましたんや。川を流れていく笠から始まって、「流れ 流れて 此処は 何処じゃと 馬子衆に問へば 此処は信州 中仙道」と、次々に、タイトルを切って、パッパッと画がはいって、何ともたまらんでっせ。山中貞雄はんは天才監督や!」
そのシーンは太郎吉が中仙道へ落ちるツナギとして笠を使ったもの。日本橋で捕手に囲まれた太郎吉はザンブと橋上より飛び込む。水煙。笠が浮く。太郎吉は橋の上の梁上に身をひそませている。笠が流れる。静かに。ダブって、水が流れ「流れ」「流れて」という有名なタイトルになる。
小津安二郎は小判しぐれを見て岸松雄にこう話している。「とにかく第二回作品であれくらいやれたら立派なものだと思ひます。山中貞雄といふ人などまだ若い人らしいから、もっと、まともなのを力一杯演出したらよいと思ひます。丁度、ウィリアム・ワイラーのやうに」(キネマ旬報1933年11月12日号)

B「小笠原壱岐守」1932
原作佐々木味津三・脚色監督山中貞雄・撮影藤井春美
嵐寛寿郎(小笠原壱岐守長行・有賀源五左衛門)・嵐徳三郎(山内容堂)
〜時は幕末、生麦事件勃発。圧力をかけてくる英国に、英国の要求を突っぱねろと攘夷派。その狭間にたった壱岐守は知略を振り絞った駆け引きの中、英国との交渉に成功する。だがその後壱岐守は失脚、攘夷派が壱岐守をつけ狙う。
佐々木味津三原作の紹介文・・唐津6万石小笠原家の世嗣長行(ながみち)がたどった波瀾の半生。わずか2歳で廃嫡の非運から、一転、土佐の雷公・山内容堂の推輓(すいばん)もあって、幕閣の中枢へと異例の昇進をとげた長行。その闊達な人間性と、国を想う熱誠。老中兼外国奉行として国難に対処する異色の合理主義者。
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およそ山中にむかない題材だが、それもそのはずもともと監督するはずだった仁科熊彦が降板したため、山中に回ってきた企画。興行的にも惨敗。


C「口笛を吹く武士」1932
原作林不忘・潤色平尾善夫・脚色監督山中貞雄・撮影吉田清太郎
嵐寛寿郎(清水狂太郎・浅野内匠頭)・市川寿三郎(清水一角)・山路ふみ子・嵐橘衛門
忠臣蔵もの。吉良の家臣清水一角は浪人である兄狂太郎を吉良上野介の護衛に推薦する。しかし狂太郎は心情的には赤穂側であり、赤穂側のスパイ活動を密かに手助けするのであった。狂太郎の口笛吹くところ吉良側の血煙が立つ。
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吉良邸に乱入した赤穂義士を導く口笛の効果は、サウンド版の有難さを狙ったものであったが不幸にしてこれは無声版として作られた(岸松雄)
撮影してから公開するまでが異様に早い。昭和7年6月11日撮影開始、7月1日完成、7月6日公開!撮影のエピソード、撮影中、山路ふみ子がニヤリと笑うので何がおかしいと聞くと「あまりにアゴが長いので・・・」という。滅多に怒らない山中もこのときは大変怒ったそうです(吉田清太郎談)


D「右門三十番手柄帯解仏法」1932
原作佐々木味津三・脚色監督山中貞雄・撮影吉田清太郎
嵐寛寿郎(むっつり右門)・頭山桂之助(おしゃべりの伝六)・尾上紋弥(あばたの敬四郎)・山路ふみ子
ここに行けば想い人と添い遂げられるという噂のお寺。殺人事件を追ってこの寺に潜入した右門が見たものはお寺を利用した出会い系&のぞき風俗店でした・・。目の前にあるお膳をよければ下の部屋でなにやらやってる男女の姿が見えるという趣向。右門のライバル?あばたの敬四郎が見たものは自分の女房が浮気してる図だったという。
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あばたの敬四郎がことごとく笑いをさらっていくのが楽しい。
山中は右門捕物帖の脚本を8本書いている。第1作目の脚本も山中であり、右門と伝六に対するあばたの敬四郎と松公の笑いのフォーマットを完成させたのは山中だといってもいい。

E「天狗廻状・前編」1932嵐寛寿郎プロダクション
原作大佛次郎おさらぎじろう・脚色山中貞雄・監督吉田清太郎
嵐寛寿郎(鞍馬天狗)・市川寿三郎・淡路千夜子
天狗のおじさんと彼を慕う角兵衛獅子の子供たちとの友情と、ラスト大人たちの勤王佐幕の争いに巻き込まれて危機に陥る子供たちを助けようと白馬に鞭打った鞍馬天狗が「杉作死ぬなよ」「新公も死ぬな」と宙を飛ぶ。子供たちの運命やいかに、というところで前篇の終わり。
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この作品を最後に寛プロを去る。山中はこの作品の脚本料はノーギャラでいいからやめさせてくれとアラカンに頼んだそうです。

F「薩摩飛脚 剣光愛欲篇」1933日活
原作大佛次郎・脚色監督山中貞雄・撮影吉田清太郎
大河内伝次郎(神谷金三郎)・沢村国太郎・高勢実乗・山本礼三郎・マキノ智子
薩摩飛脚の後編、前編は伊藤大輔監督。
公儀隠密として薩摩に囚われの身となった松村四海(沢村国太郎)を助けるべく薩摩へ向かう弟欽之介。そしてそれを追う松村の親友神谷金三郎(大河内伝次郎)と泥棒のやらずの清吉(星ひかる)。だが四海は公儀への見せしめとして殺すために船で江戸に送られていたのだ。神谷の情婦小富(伏見直江)に横恋慕する薩摩江戸留守居役の伊集院は小富が自分のものになれば四海を助けてやると持ちかける。小富は覚悟を決めて伊集院のもとへいき、身をまかせようとしたところに神谷登場。伊集院を倒し神谷とお富は仲良く旅立っていく。山中らしさはやらずの清吉とお蘭(マキノ智子)のやりとり。この二人のやりとりで笑いを作っていく。
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日活移籍第一作目。伊藤大輔が前篇を撮って日活から去ったため、山中に後篇監督が廻ってきた。大河内伝次郎によると、日活入社当時の山中は周囲から小僧扱いされて「薩摩飛脚」のロケ撮影で山中の面前で悪口を言うものもあり、スタッフはろくに命令も聞かなかった。それが「薩摩飛脚後篇」の試写で一変したという。
伊藤大輔は山中をこう評している「欠点もあるが山中君は若い時代劇監督の中では随一のひとでせう。あの鮮やかな映画感覚は、全く恐るべきものです」(キネ旬1932年7月1日号)
大河内と山中のコンビは共同監督も入れると13作品。大河内はこう言っている「私が一番恵まれております。伊藤さんの時代があって、その後私もどうにもならないスランプに陥った時代があった時に山中さんが来て、私をぐっと新しい方面に導いてくれたといふことは、大変自分としても感謝しております」(キネマ旬報1938年10月21日号)


G「盤獄の一生(ばんがくのいっしょう)」1933日活キネ旬7位
原作白井喬二・脚色監督山中貞雄・撮影吉田清太郎
大河内伝次郎(阿地川盤獄)・山本礼三郎・山田五十鈴・高勢実乗
旅の浪人盤獄が旅先でひたすら人にだまされ続ける道中記。友人に就職を斡旋されるも、そこで住民運動に巻き込まれてやってもいない罪をきせられ逃げだし、めくらの乞食に落とした財布を盗まれそうになり(盤獄怒ると乞食、めくらと書いた札を裏返してつんぼと書かれた札をだす)。絶対ウソをつかないという忍齋先生(高勢実乗)に会いに行ったらとんだ食わせものだったり。道中、馬子の三次に道の先で盤獄を待ち伏せしている一味があると教えられるも、盤獄は騙され続けているのでもう信じようとしない。ところが本当に盤獄の持つ名刀日置光平を奪おうと一味が待ち伏せしていたのだ。盤獄は襲われているにもかかわらず「本当だったぁ!」と大喜びで戦う。ところが多勢に無勢、「これはあんまり」「本当すぎた」。怪我をした盤獄は馬子の三次と妹お時にかくまわれている。しかし貧乏暮らしの兄妹に迷惑はかけられないと仕方なしに医者の竜伯の薬代取り立て役になる。が、そこでも首つり騒ぎをおこした親子を哀れに思いかばうも狂言だと知りがっくり。親子を逃がしたためその借金まで背負うことになった盤獄に地主が助け船を出す。地主のスイカ畑を三ヶ月間泥棒から守りとおすこと。ここで有名なスイカ泥棒との争いをラグビーとして描くシーンが生まれた。スイカを泥棒に盗まれた盤獄は約束だった名刀日置光平を地主に渡して去っていく・・・実は地主は刀を奪うためにみずからスイカを手下に盗ませたのだ。それを知った盤獄は刀を奪い返し去っていくのだった。
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「盤獄の一生」は発表当時から内田吐夢の「仇討選手」、伊丹万作の「国士無双」に続く諷刺映画の傑作として高く評価された。21歳の新藤兼人は尾道の映画館でこの作品を見て、映画の仕事に生命をかける決心を固めたという。ちなみに映画前半の住民運動うんぬんは左翼的だということで検閲を受けたそうです。

H「鼠小僧次郎吉 江戸の巻・道中の巻・仁義の巻」1933(三部作)日活キネ旬8位
原作大佛次郎・脚色監督山中貞雄・撮影吉田清太郎
大河内伝次郎(鼠小僧次郎吉・長沢屋勘右衛・大阪屋仁吉)・清川荘司・星ひかる・高勢実乗・小川雪子・高津愛子
世間を騒がす義賊鼠小僧。鼠小僧に恨みを持つ梵字の安五郎(高勢実乗)と清廉なる目明かし長沢屋(大河内二役)が鼠を追う。次郎吉の幼なじみで夜鷹に身をやつしているお鈴(高津愛子)はある日次郎吉とばったり会う。そのことを知った梵字はお鈴に次郎吉を売るように脅しお鈴はやむなく次郎吉を売る。呼子の笛の音が町にこだまし次郎吉は屋根の上へ逃げる。眼下は捕方と御用提灯。次郎吉は梵字からはまんまと逃げおおせたが、長沢屋が鼠小僧に肉薄する。長沢屋からも逃れた次郎吉は世を忍ぶ仮の姿大阪屋仁吉となって火鉢の前でほほえんでいる。
第二篇である道中の巻では、幼なじみの虎吉とお鈴の夫婦を登場させて、夫婦が梵字の安五郎とその配下の清次の罠で鼠小僧を裏切ったため、鼠小僧の正体がバレて道中に逃げのびる。
第三篇仁義の巻では、鼠小僧にもらった小判から捕まった虎吉が鼠小僧と名乗った。次郎吉はお鈴からそのいきさつを聞いて、護送途中を襲って虎吉を救う。江戸に戻って、おんぼろ長屋を取り壊そうとする梵字と戦って倒し、長沢屋に自ら捕縛される。
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サイレント時代の最高傑作といわれる「鼠小僧次郎吉」三部作。

I「風流活人剣」1934日活
原作野村胡堂・脚色監督山中貞雄・撮影吉田清太郎
片岡千恵蔵(篠原救馬)・瀬川路三郎・田中春夫・山田五十鈴
二人の浪人もの救馬と鉄心(田村邦男)が追われて逃げる巾着切のお蘭に体をぶつけられる。実はそのときお蘭は35万両が隠されているという宝の地図を逃げる最中に鉄心の懐に入れたのだ。そのお蘭にすり取られた宝の地図を持っていた横山新太郎(田中春夫)とお京(山田五十鈴17歳!)に地図をゆずってもらうはずだった加賀屋(瀬川路三郎)はだまされていると勘違いして二人を殺そうとする。逃げる二人、新太郎は斬られて川に落ち、お京も又川に落ちる。シリアスっぽいけどここの加賀屋の用心棒猿右衛門と救馬の立ち回りでコメディだとわかる。救馬が刀を抜いた途端猿右衛門斬られてガーッとのけぞる。その横っ面ピシャリと叩いて「竹光じゃ、安心せい」。川に落ちたお京を助ける救馬と鉄心。お京は救馬の部屋に運んで救馬は隣の鉄心の部屋に居候。その部屋と部屋の間に穴が開いているので例の地図でその穴をふせぐ。お京との貧乏長屋での生活。救馬は実は仇討ちの途中であるらしいことがわかる。一月ほど経ち、巾着切りのお蘭に案内されて行方不明だった新太郎が救馬とお京をたずねてくる。川に落ちた後、加州藩士新居勘左衛門に助けられ、地図を持ってくれば百石で召し抱えられるという。地図を渡せば新太郎とお京は幸せになる、だが、救馬は・・・。救馬と鉄心は敵の猿右衛門と一緒にへべれけになるまで飲む。猿右衛門はいう「俺のところに持ってくれば百両で売れたに惜しいことだ」その夜、地図が何者かに盗まれる。鉄心は救馬の刀が竹光から本身の銘刀になっていることに気づく。鉄心はまるで救馬に聞かせるようにお京に話し始める「絵図面を盗んだ男が哀れな奴だというんです」「恐らくその男は、あなたと別れることが嫌だったのでしょう」「あなたの幸せをブチ壊してまでも、その男はいつまでもあなたの隣に住んでいたかった」救馬は自分の愚かさを悟りその場を去る。地図を売った先である加賀屋へ単身乗り込んで行く救馬。加州に仕官にいくため旅立つ新太郎とお京夫婦。ラストに意外な事実が明らかになる。新太郎を助けた新居勘左衛門は実は救馬の敵討ちの相手だったのだ・・・。
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山中貞雄が千恵蔵プロダクションで撮った最初の作品にして最後のサイレント作品。

J「足軽出世譚」1934日活
原作伊勢野重任・脚色監督山中貞雄・撮影石本秀雄
片岡千恵蔵(唐鎌金八)・瀬川路三郎・香川良介・市川春代・花井蘭子・高勢実乗
足軽の金八はひょんなことから出世していくとお姫様(市川春代)に見初められるが、それをけしからんと殿に手討ちとなるところ、立派な土産を持って帰れば姫をやろうという妙に禅問答っぽい宿題を出され5年間の猶予を与えられる。“立派な”土産とやらを探しに旅に出る金八。道中仇討ち騒ぎに巻き込まれた金八は間違えて仇の方の味方をしてしまい、仇討ちをしている方を斬ってしまう。責任を取って仇討ちをしていた男の娘に同行して仇を追うことになる金八。見事仇を討ち取るが、今度は自分が娘にとって仇だと気づき、いい雰囲気になっていた娘と別れる。立派な土産とはなにか?ということを高僧と問答しあうも僧は答えあぐねて指を一本立てたまま卒倒してしまう。約束の5年がたち、やむなく金八は城に戻り殿様の前に出て苦しまぎれの指一本を立ててみせる。ところが、意外にもこれが殿様に激賞されお姫様との結婚を許されるのである。金八はひとり指を立て「わからない・・」
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足軽出世譚はラストの一言「わからない」だけがトーキーになっているユニークなサウンド版。

K「勝鬨」1934日活
原作旗冬吉・脚色梶原金八・監督小石栄一・応援監督山中貞雄・撮影石本秀雄
片岡千恵蔵(武蔵弥太五郎)・花井蘭子・林誠之助・高勢実乗
最初は小石が監督していたが、予備役招集のため途中で山中が監督を引き継いだ。「勝鬨」で初めて鳴滝組の総称「梶原金八」がクレジットされる。“梶原”は東京六大学野球の帝大を贔屓にした山中が昭和九年のリーグ戦で7割2分2厘の高打率を残した梶原英夫投手にちなんで付けた。メンバー八人は、稲垣浩、八尋不二、滝沢英輔、三村伸太郎、藤井滋司、萩原遼、土肥正幹、山中貞雄。

L「雁太郎街道」1934日活キネ旬10位
原作梶原金六(なぜか金八じゃなく金六表記)・脚色三村伸太郎・監督山中貞雄・撮影石本秀雄・録音塚越システム
片岡千恵蔵(銚子の雁太郎)・伏見直江
トーキー第一作目。山中お得意の道中もの。渡世人雁太郎が旅の途中伝兵衛親分(瀬川路三郎)のところに草鞋を脱ぐ。そこで親分から自分の元から逃げたお夏(伏見直江)を探して連れて戻るように言われ子分の喜三郎(鳥羽陽之助)とともにお夏を探す旅に出る。道中雁太郎は一人旅のいい女を見初めるが、実はその女がお夏。それとは知らずにお夏と道中を同じくする雁太郎。ある日同じ旅籠に泊まるも二人とも枕探しの女泥棒に有り金全部盗まれてしまう。なんとかせねばならぬと雁太郎はお夏を旅籠に待たせて、その土地土地の親分衆に草鞋を脱ぎ、出入りはないかとたずねては喧嘩の助太刀をして道中の路銀を稼ぐのだった。しかしお夏が喜三郎に見つかってしまい連れて戻ることに。雁太郎はなんとかお夏を逃がそうとするのだが、なぜかお夏は逃げない。お夏はもう先の長くない母に会いに行こうとしたのだが、こんな水商売女ひとりみのまま会いに行くのがつらいという。雁太郎は自分が亭主に扮して一緒に母に会いに行こうと提案する。雁太郎は10日後に必ず戻ると喜三郎に約束してお夏とともに母親の元へ旅立つ。・・・そして10日後約束の日、伝兵衛親分と喜三郎が約束した旅籠に行くと番頭はもう二人は立ったという。その旅籠の宿帳には雁太郎と“その妻”お夏の文字が・・・。
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山中はキャプラの「ある夜の出来事」を気に入り雁太郎街道に生かした。

M「国定忠治」1935日活キネ旬5位
原作山中貞雄・脚色三村伸太郎・監督山中貞雄・撮影安本淳
大河内伝次郎(国定忠治)・鬼頭善一郎・清川荘司・高勢実乗・山本礼三郎・深水藤子
ある宿場街を舞台にしたグランド・ホテル形式の映画。女中が朝食のお膳を旅籠の各部屋に運んでいき登場人物を一気に紹介していくオープニングの手法が鮮やか。登場人物は元忠治の子分で今は板場で働く亥之吉(清川荘司)その妻お吉(高津愛子)。亥之吉は昔の悪い癖ー博打で借金をこさえそのかたに女房のお吉を差し出すという証文を書いてしまう。お吉の父伍助(横山運平)は十手を預かる身。兇状持ちの忠治がこの街に潜伏しているとにらんでいる。仇討ちの武士(久米譲)はお付きの老僕とともに仇を捜し求めている。そしてその仇の番田権六(葉山純之助)は宿場町の親分で十手をあずかる山形屋(鬼頭善一郎)の用心棒に身をやつしていた。駆け落ちの男女(山本礼三郎・五月潤子)は宿賃も払う余裕はなく女の着物を売ってしのごうとしている。百姓の佐兵衛(尾上桃華)は貧困のあまり山形屋に娘のお光(深水藤子)を売りに来た。そして山中映画でおなじみの二人駕籠屋茂十(高勢実乗)当八(鳥羽陽之助)がことあるごとに女物の半纏をかけて勝負するシーンで笑いを取る。物語は娘を売りに来た佐兵衛のシークエンスから動き出す。佐兵衛は娘を50両で売って村に帰る。山形屋はその後をこっそりつけさせて金を奪おうという算段だ。忠治は山形屋のたくらみを見抜き、金を返してやれと名乗る。国定忠治という大看板にびびる山形屋から金と娘お光も取り戻した後、大立ち回り。逃げる忠治をかくまう亥之吉。居酒屋の二階に隠れる忠治は亥之吉の忠義とお吉の気遣いに感銘を受ける。だがお吉の父伍助が店に来る。伍助は相手が忠治だと気づきながら忠治と酒を酌み交わす。亥之とお吉が必死になって守ろうとした忠治を伍助は捕まえることが出来ず、それとなく通行手形を忠治に渡すのだった・・・。忠治は借金のかたにお吉を奪おうとした疋五郎を殺した亥之の罪をかぶり大立ち回り、山形屋の用心棒番田は忠治に倒される「あんな奴に斬られて死ぬくれえなら侍らしく名乗って討たれてやればよかった・・・」。次の日の朝、朝食のお膳を運ぶのは駆け落ちの男女。侍主従は永遠に果たせぬ仇討ちの旅に出る。茂十と当八は忠治親分は捕まったか捕まってないかまた賭けをしている。その二人の前に現れる忠治、亥之とお吉に別れを告げるのだった。
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国定忠治は多くの人に絶賛された。小津安二郎は日記に山中貞雄のものでは一番いいと思うと記している。高勢実乗と鳥羽陽之助の二人は国定忠治以降茂十当八役でコンビとなり"極楽コンビ"と称されるようになる。特に高勢実乗は伊丹万作の「国士無双」1932で偽物の上泉伊勢守に破れる本物の伊勢守を演じたことで山中の目にとまり、山中のほとんどの作品に出演する。高勢実乗のギャグ「あのね、おっさん。わしゃかなわんよ」は一世を風靡した。

N「百万両の壺」1935日活
監督山中貞雄・撮影安本淳
大河内伝次郎(丹下左膳)・喜代三・沢村国太郎・花井蘭子・深水藤子・宗春太郎
山中作品現存する3本のうちの一本。柳生家の隠し財宝百万両の在りかを塗り込めたこけ猿の壺をそれとは知らずに売りとばしてしまった柳生家次男の源三郎(沢村国太郎)は妻の荻乃(花井蘭子)に尻を叩かれつつ江戸の町を探し回る。こけ猿の壺はひょんなことからちょび安(宗春太郎)のもとへ。安の父親は殺され一人になった安を左膳とお藤(喜代三)が引き取ることに。壺を探す源三郎は喜代三の矢場で働くお久(深水藤子)にぞっこん惚れ込み壺探しをほっぽりだして毎日矢場に通う始末。壺の在りかがわかったものの矢場通いが妻の荻乃にばれた源三郎は家に軟禁されてしまう。そこへ安のあやまちで作ってしまった借金60両を返すために道場破りに来た左膳。源三郎の弟子たちを次々と倒す。嫌々出てきた源三郎と左膳は顔見知り。あうんの呼吸で左膳はわざと負けて源三郎は荻乃の信頼を取り戻し、左膳は60両を手に入れる。が、柳生本家が江戸中にある壺を一両で買い取る作戦で安はこけ猿の壺を持って売りに行こうとする。すんでの所で安を見つけた左膳。ラストは矢場で矢を射る源三郎。壺は左膳に預けて壺を探すのを口実にして矢場に入り浸るのであった。
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百万両の壺は原作と内容が違うということで、原作者の遺族から強い抗議が出て(原作者林不忘は映画公開2週間後に急逝)丹下左膳のタイトルを削った。
百万両の壺をほめた人の中には林芙美子がいた。林は「小津氏の「東京の宿」に流れる詩情と、山中貞雄氏の「百万両の壺」に溢れる心理描写は、私をして、この二人の監督諸氏に逢って話してみたい気持ちをおこさせるのである」と書いている。

O「関の弥太ッペ」1935日活
原作長谷川伸・脚色三村伸太郎・潤色梶原金八・監督稲垣浩、山中貞雄・撮影松村禎三、竹村康和
大河内伝次郎(関の弥太ッペ)・鳥羽陽之助・山本礼三郎・深水藤子・高勢実乗
関の弥太郎と箱田の森介(鳥羽陽之助)は旅鴉のライバル同士。発端は、森介の狙った金五十両の首を、弥太郎が横からさらったからだ。甲州街道吉野宿で弥太郎は堺の和吉(山本礼三郎)に五十両を盗まれた。和吉は娘お小夜を連れていた。お小夜の母おすみは和吉が12年前、吉野宿の沢井屋からさらって女房にしていた女。このおすみに死なれ、お小夜を沢井屋へあずけに行く途中だった。弥太郎は和吉を斬った。今はのきわの和吉からお小夜を頼まれた。沢井屋にかけあったが、沢井屋は聞き入れない。やむなく金五十両を沢井屋へ投げ出し、お小夜を置いて去った。時は流れる。お小夜は美しい娘に成長した(深水藤子)。旅人渡世の弥太郎は森助と会ったおり、仲直りの席で、沢井屋が娘の恩人を探しているという世間話を聞く。森助はえたりと沢井屋に行き、恩人を名乗り、お小夜の亭主にしろとねじ込んだ。弥太郎が来て、森介を斬ろうとする。お小夜は恩人と思いこんで森助を必死にかばった。いじらしさに弥太郎は去った。その後ろ姿をお小夜はいつまでも見送るのだった。(評伝山中貞雄より引用)
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「稲垣浩は、久しくスランプに陥っていたやうであったが山中貞雄の応援を得て作った「関の弥太ッペ」あたりから盛りかへして来たことが感ぜられた」ー北川冬彦(キネマ旬報1936年1月11日号)稲垣自身も山中がスランプを救ってくれたことを後に感謝している。この作品はわずか12日間で撮ったと三村伸太郎が話している。


P「街の入墨者」1935日活キネ旬2位
原作長谷川伸・脚色監督山中貞雄・撮影松村禎三
河原崎長十郎(岩吉)・中村翫右衛門・山岸しづ江・深水藤子・宗春太郎
やくざものの岩吉は親分の依頼で仲間を殺して逃げるも、親分から裏切られて仲間たちから殺されそうになる。岩吉の恋人お雪(河原崎国太郎)のもとにいた親分を殺した岩吉はそこで御用となる。佃島の牢獄にて破牢しようとする与平次(坂東調右衛門)の誘いを断った岩吉に襲いかかる与平次の仲間たち。岩吉は彼らを捕まえるが、与平次は逃げ出す。月日がたち出獄の日。妹のおきち(山岸しづ江)とその夫の三次郎(中村翫右衛門)が出迎えに来てくれた。幼かったおたね(深水藤子)とひー坊(宗春太郎)もすっかり大きくなっている。妹夫婦宅で穏やかな日々をすごそうかという岩吉だったが、目明かし松五郎(清川荘司)と風呂場でバッタリあったことから入墨者が街に帰ってきたという噂が一気にひろまってしまう。風呂場に岩吉が来ると客がいなくなる、長屋の井戸端会議で岩吉のことが話題になる。世話になった頭から仕事をもらおうとたずねるが居留守を使われる。街で押し込み強盗があると真っ先に疑われる岩吉。おきちと三次は大家から出て行ってくれとまで言われる。
(シナリオから)湯屋の表。岩吉、さびしく出てきます。ザーッと湯を流す音。
「誰も彼もが俺を疑っている」

シナリオだとそっけないが、これが映像になると、
「誰も彼もが疑っている」そうつぶやくようにひとりごちすると、湯屋ではもう湯を落とすのか、ザーッと溝に来て走った湯気が白く岩吉の向こうを横切る・・・。(加藤泰)

岩吉が家に帰ってこないのを心配した三次が探しまわるなか、岩吉はお雪の嫁ぎ先の伊勢屋に押し込み強盗を働こうとしていた与平次を発見。逃げる強盗たち、追う岩吉、走る三次。岩吉強盗を斬るが自分も斬られる。与平次は駆けつけた目明かし松五郎に叫ぶ「曲者は西国浪人与平次がしとめ申したぞ」犯人に仕立て上げられる岩吉だったが、瀕死の状態で与平次を刺し「佃島の牢を破って逃げた男です。こいつは与平次。やったのはこいつです。お調べください」与平次が破牢した前科者だと人々に教え疑いが晴れる。
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村上忠久はラストをこう書いている。「大晦日、餅つく音も楽しく長屋の人々は嬉し気であるー良き音響効果ーと、流石に三次郎唯一人は亡き義兄を想って楽しき内にも暗澹の感懐は去るべくもない、足はひとりでに亡き人の幻を追って物干台へというラストの余情、之を描き得し此の作品は首尾一貫たり得、此に良き山中貞雄の成長はあった」(村上忠久「日本映画作家論」)
前進座との初仕事。脚本は山中単独で書いたもの。山中は脚色にあたってエルンスト・ルビッチの「私を殺した男」1932を参照にしたと岸松雄。お雪役は女形の河原崎国太郎。山中が舞台で見た時はきれいだったので問題なかろうと思ってキャスティングしたが、実際キャメラの前では大きすぎるので困ったそうです。この作品は批評家に絶賛されトーキー技巧は国定忠治にも百万両の壺にも勝っていると評されている。キネ旬のベスト1こそ成瀬巳喜男の「妻よ薔薇のやうに」にゆずったもののキネ旬2位に選出された。
中村翫右衛門はこう言っている「三十二日かかって上映時間一時間十分ほどの作品を撮り終えた。完成したものを見ると、自分があまりにもうまいので、誰もかれもが嬉し泣きした。監督がすぐれているとこうも演技がちがうものかと思った」(劇団五十年史より)

Q「大菩薩峠 甲源一刀流の巻」1935日活
原作中里介山・脚色三村伸太郎・監督稲垣浩・応援監督山中貞雄
大河内伝次郎(机龍之介)・黒川弥太郎・入江たか子・深水藤子
清澄山の盲目法師弁信(滝口信太郎)と少年茂太郎(宗春太郎)とが大菩薩峠の麓で菩薩道の問答をするプロローグ。峠の上では、机龍之介が新刀試しに老巡礼(横山運平)を斬った。巡礼の孫お松(深水藤子)は青梅の七兵衛(鬼頭善一郎)に助けられた。龍之介は武州御嶽山の奉納試合で甲源一刀流宇津木文之丞(黒川弥太郎)を打殺した。その剣は邪剣として激しく排斥された。龍之介は宇津木の門弟の襲撃を退け、文之丞の妻お浜(入江たか子)を連れて逃げた。京都で新徴組に加わった龍之介は、お浜との間に子をもうけている。その性格破綻はますます苦悶の色を深くしていく。(評伝山中貞雄より引用)
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山中が撮ったのは冒頭の奉納試合、ラストの雪の坂下の場面。島田道場全部。料亭金子の二階とかである(加藤泰)

R「怪盗白頭巾・前後篇」前篇1935後篇1936日活
原作梶原金八・脚色三村伸太郎・監督山中貞雄・後篇応援監督稲垣浩
大河内伝次郎(雲霧仁左衛門)・黒川弥太郎・高勢実乗・花井蘭子
雲霧仁左衛門ものをドタバタコメディにしたもの。腕っぷしは強いが本職の怪盗のほうはヘマばかり。普段は横丁のオンボロ道場の先生である仁左衛門。配下の高勢実乗や鳥羽陽之助はオンボロ道場の弟子兼居候である。彼らが可愛がって大事にしている向かいの居酒屋の娘のお照(花井蘭子)を蹂躙しようとする悪玉から彼女を守り、彼女と旗本の勘当息子(黒川弥太郎)との恋を成就させてやる。

S「河内山宗俊」1936日活
原作山中貞雄・脚色三村伸太郎・監督山中貞雄・撮影町井春美
河原崎長十郎(河内山宗俊)・中村翫右衛門・原節子
現存する三本のフィルムのうちの一本。香具師の元締森田屋の用心棒金子(中村翫右衛門)は縁日の露店から金を集めるのが仕事。でも甘酒屋のお浪(原節子)には甘くいつも集金を免除している。その金子のかっての同僚北村大膳(清川荘司)の殿より拝領した刀の小柄をお浪の弟広太郎(直次郎)(市川扇升)が盗んでしまう。広は宗俊と知り合い一緒に吉原にいくが、そこで幼なじみの三千歳(高津愛子)とばったり会う。身請けされそうだった三千歳と吉原から逃げ出すも、何処へ行く当てもない二人は心中をはかるが三千歳だけが死に、広だけが生き残ってしまう。三千歳を身請けするはずだった森田屋は広に三百両を要求する。弟を心配したお浪は自らの身を売って金を工面しようとする。宗俊と金子はお浪を助けるために大名から金をせしめようと一芝居打つことに・・・。その間広は姉を守ろうと森田屋を殺害するのだった・・・。追っ手からお浪と広を逃がすために犠牲になる宗俊と金子。

21「海鳴り街道」1936日活
原作三村伸太郎・脚色梶原金八・監督山中貞雄・撮影三井六三郎
大河内伝次郎(稲葉小僧新助)・鳥羽陽之助・高勢実乗
実在した泥棒稲葉小僧の物語(とはいっても史実とは全然違うが)。提灯屋稲葉屋新助、その正体は大泥棒稲葉小僧。稲葉屋に御用の手が回ったので逃げだし故郷へ帰ることに。目明かし勘兵衛(鳥羽陽之助)がそれを追う。道中女郎屋によるとそこにいたのは幼なじみのおちか(衣笠淳子)。新助は秘かに金を払いおちかを自由の身にしてやる。新助の実家は裕福な郷士。新助は10年前に家出したのだ。新助の父東左衛門は病弱、新助の許嫁だったお菊(鈴村京子)と三五郎(左文字一郎)を結婚させて家を継がせようと考えている。しかしその結婚に横やりを入れる代官。お菊を自分の息子と結婚させて東左衛門の財産を奪おうというのだ。そこへ新助が帰ってくる。怒り心頭の東左衛門は新助を追い出し、新助はおちかの兄である安(清川荘司)のもとに厄介になる。だが捜査の手はこの村にものび、新助は勘兵衛の手先となって金をゆすってきた健太を殺し、代官をも殺害
する。新助はおちかに別れを告げ去っていくのだった。
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玩具フィルムで1分ほどの断片を見ただけで傑作と確信。稲葉小僧新助(大河内伝次郎)が捕り手から逃げるシーン、大ロングの大横移動撮影。海岸線を多勢に追われながら逃げる新助。キラキラとひかる水面をバックに斬り結ぶシーンは俯瞰で。さらには夜間、捕り手が手に手にたいまつを持ちながらの捜索場面(たいまつの火が花火みたいにはじけてた)わずか1分ほどのフィルムでこれほど興奮したことはない。

22「森の石松」1937日活
原作脚色監督山中貞雄・撮影荒木朝二郎
黒川弥太郎(森の石松)・花井蘭子・横山運平・深水藤子・清川荘司
街道筋茶店の表でヤクザ同士の喧嘩。清水の次郎長一家の喧嘩だ。茶店の息子石松はそれを見て胸躍らせる。その後賭場で次郎長(鳥羽陽之助)の殴り込みを目の前で見て、次郎長が逃げるのに手を貸す。茶店で次郎長をかくまうが、父親の源兵衛(横山運平)はやくざものを嫌い出て行くようにいう。後日かくまってくれたお礼に次郎長の配下大瀬半五郎がたずねてくる。そこで源兵衛も昔はヤクザだったことが知れる。蛙の子は蛙、源兵衛は石松にヤクザになることを許すのだった。3年の月日がたち名を上げてきた石松。喧嘩の最中投げつけられた火鉢が目に当たり片目となる。火鉢を投げつけた相手を追い求め打ち倒した石松は清水港に帰ってくるが、次郎長親分にすぐに出立するようにいわれる。追っ手がかかっているのだ。石松は女房のおはん(花井蘭子)に子供が出来たことを喜ぶ暇もなく出立する。石松は実家の茶店に帰ってくるが、ここにも十手の影がちらつく。昔なじみの友人に裏切られた石松は捕り手に後ろから斬られる。茶屋内ではおはんの赤ん坊を見にいった父源兵衛が家に戻ってきていた。
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「その作品を見たものはゾッとなった、なんとそれは恐ろしく凄惨な映画であったことか。それは意気がってヤクザになったひとりの若者が、抗えぬ運命の手で怖れた死へと運ばれる姿を、的確、簡潔な筆致で描破した一作だった」加藤泰
森の石松の凄惨きわまりない死にかたはウィリアム・A・ウェルマン「民衆の敵」1931のジェームズ・キャグニーの死に方に影響を受けたといわれる。(殺され、す巻きにされたキャグニーが母親の家の前で捨てられる。まるで棒が倒れるように地面に叩きつけられる死体・・・)
河内山宗俊、海鳴り街道、森の石松とシナリオを読んだけど、どうも面白くないのは自分の錯覚ではないはず。1936年はキネ旬のベスト10に一本も入らず、発表した作品の評判もあまりよくない山中にとってスランプの年だったようだ。どの作品もユーモアや叙情性に欠け殺伐とした人物が中心となっているのは、1935年の暮れに母親が亡くなった影響があるのかも知れません。

23「人情紙風船」1937PCL映画製作所キネ旬7位
監督山中貞雄・撮影三村明
河原崎長十郎(海野又十郎)・中村翫右衛門・中村鶴蔵・市川莚司(加東大介)・山岸しず江
とある貧乏長屋で首つり自殺。縁起が悪いということで自殺のあった部屋で住民全員でどんちゃん騒ぎの通夜。長屋の住民たちをいきいきと描いていて楽しい(山中スランプから脱した感あり)。髪結い新三(中村翫右衛門)は土地の親分に内緒で盆ゴザを開いているのでやくざものたちから狙われている。やくざたちが来た時などは隣の浪人海野又十郎の部屋に逃げ込んだりしている。海野は亡き父の友人だった毛利三左衛門に口添えしてもらい再就職を願うものの、毛利は海野を避けている。普段やくざから痛い目にあってきた新三は一泡吹かせてやろうとやくざが世話になっている白子屋の娘お駒(霧立のぼる)を誘拐して隣の海野にあずける。白子屋から莫大な身代金をせしめた新三や海野たちは住民たちと楽しげに酒を酌み交わす。そこへ長屋へ帰ってきた海野の妻おたき(山岸しづ江)が住民たちが話しているのを聞いてしまう「海野さんが片棒担いでいるとは思わなかったわ・・・」。その日の深夜新三はやくざたちに囲まれ・・。翌朝海野は妻に刺殺され妻も自殺したという。長屋の溝を海野が内職していた紙風船が流れていく。
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日活からPCLへ移籍した第一作目。始めに書いた三村伸太郎の脚本は楽天的な世界観だったが、山中が大幅に書き直し、今のようなペシミスティックな作品に変貌してしまう。
中村翫右衛門の証言ーこの映画を撮り終わってセットを出た時だった。山中貞雄に召集令状がきた。いあわせたのは滝沢英輔とわたしの三人だけだったが、誰かが持ってきて渡した“赤紙”を見た山中はサッと顔色を変えた。三人の無言の間がちょっとあって、「これがわいの最後の映画じゃ死にきれんな」とボソッといった。わたしは胸がつまって、「そんなばかなこと・・・。きっと帰ってきていい映画をつくってください。待ってますよ」といい、滝沢も心をこめて励ました。山中はそのまま黙って歩きだした。翌月戦地に送られ、昭和十三年(1938)九月十七日“華北”で戦病死した。わたしよりずっと若い三十歳だった。(実際の享年は28歳)
posted by シンジ at 18:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 はじめまして。
 実は「山中貞雄を見よう!!」を作ったものです。
 確かにないですね。全作品を解説したサイト。
 自分のサイトながら、文章の下手さも手伝ってえらく物足りないものになっています。
 「映画を見て初めて感じる歓び」と「自分の足で文献を探してそれを見つけた時の達成感」……検索すれば何でも簡単に情報が手に入るインターネット時代になって薄れてきたそういう感覚を忘れないために、内容に出来るだけ触れないように簡潔な文章を心掛け、あえて後々感じたことを書き加えたり、といった更新はサイトを立ち上げてからはしていませんでした。
 でもこの解説を読んで最低限これぐらいの文章は書くべきだったかな、とも思ったりもしました。
 自分の作った文章が少し使ってもらっていて素直に嬉しかったです。
 ありがとうございました。
Posted by やま at 2010年01月03日 04:02
「山中貞雄を見よう!!」は山中貞雄ファンならかならず見るサイトで、この記事を書くのにも参考にさせていただきました。やまさんありがとうございまました。
Posted by シンジ at 2010年01月03日 20:14
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