テレビマンで放送作家の監督堀部圭亮の考える演技と演劇人の内田聖陽の考える演技の負のベクトルが同じだと言うことに驚く。
演劇人は広い客席を意識した演技。テレビマンは馬鹿な視聴者を想定したわかりやすい演技を心がけるというが、その真逆のアプローチがはからずも映画では同じベクトル〜映画の客を馬鹿にしてるようにしか見えないふざけた演技という結果を生み出している。
おれは内田けんじが好きだから、こういう出来の悪いフォロワーが増えるのは嫌だな。だって本家の内田けんじ作品を知らない連中からいっしょくたにされる恐れがあるし、内田の新作の新鮮さが失われるかもしれないから。まあ杞憂だと思うが。
話題を変えてロケスタ社長日記の養老孟司の話が興味深い。
紙に印刷されて発表される文章と、ネットにのる文章は、どうしたって違ってくるはずなんです。ネットの場合は明らかに、反論を予測しながら書くことになりますから。読む人間がどう反応するかを極端なケースまで予想して書く。ウェブは書いたことにかなり悪口を言われますからね。しかも、新聞や雑誌を違って反応がダイレクトだから、書いたほうもついつい悪口を読まざるを得なくなる。そうすると、あれこれのケースを考えながら書くようになって、すっきりした文章にならない。読んでいるとなんだかうるさい感じの文章になってくる。
反論を予測しながら書くとどうなるかというと、これは官僚の作文に近くなっていきます。
自分の場合ブログは結構好き勝手に書いてるけどTwitterは控えめに書いてる。書く媒体によって自分の人格を切り替えているようなところはあるね。匿名掲示板だと言葉使いも荒くなる感じ、ブログは読んでる人がわからないし、少ないから結構自分の考える素の自分っぽい感じ。Twitterはいくら読んでる人が少ないからって変なことを書いたら確実にブロックされるだろうからおすまししている自分。
書く媒体によって人格を切り替えてるという話つながりで平野啓一郎公式ブログで書かれた「分人主義(ディヴィジュアリズム)」という考え方が面白い。
「個人」の中には、対人関係や、場所ごとに自然と生じる様々な自分がいる。それを僕は、「本当の自分が、色々な仮面を使い分ける、『キャラ』を演じる」といった考え方と区別するために、「分人(ディヴ)」と言っています。
好きな友達や家族の前での自分は、必ずしも「演じている」、「キャラをあえて作っている」のではないし、逆にあわない人間の前では、イヤでもある自分になってしまうわけで、人間が多様である以上、コミュニケーションの過程では、当然、人格は相手ごとに分化せざるを得ません。その分人の集合が個人だという考え方です。詳しくは、『ドーン』を読んでいただきたいのですが。
会社や学校でうまくいっていないとしても、それを自分という人間の本質的な、全人格的な問題と考えるべきではないです。そうした場所や対人関係の中で生じた分人だと、分けて考えるべきです。
その上で、自分の中の分人の比率、バランスを考えることです。対人関係や場所の分だけ、分人を抱え込むことになりますが、好きな、居心地がいいというか、「生き心地がいい」分人をベースにして生きていくべきだと思います。
この考え方は多くの人を救うんじゃないかな。嫌な自分、最低の自分を自分の全人格だと思わないこと。そうすれば自分を全否定することもなくなる。
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