映画はアスカがレイとシンジの食事会に気をつかってみずから3号機に乗り込むことを希望するところからラストまで一気に加速する。ここからは本当に怒濤の勢いというやつでケツの痛さとかおしっこ行きたいとかの雑念が吹き飛び、ハートを揺さぶられまくる。どうしてここまで私はこの映画に引きつけられるのか?(例の唄についても合ってるとは思わないけど異化効果ということで納得はする)
プロットに複雑さはない。人類補完計画とかネブカドネザルの鍵とかは映画でいうマクガフィンだと思えばいい。プロット自体は少年漫画などの王道でもある
「唐突に見知らぬ世界に放り込まれて→逡巡し苦悩するも→かすかな希望が見え始めたところへ→絶望が襲いかかり→逃避→みずからの宿命を悟り→自己を超克する」
散々使い古された典型的なビルドゥングス的王道展開にもかかわらず私の心を直接えぐってくるのはなぜか。古今東西あらゆる物語に使いつくされてきた定型がこれほどまでに心に染みるのはなぜなのか。
この定型(ジョセフ・キャンベル的定型)を使った物語にスターウォーズがあるが、私はSWには心に染みるものはなかった。同じような使い古された定型を使ったエヴァンゲリオンが私にとってどうして迫真性をおびてくるのか。
それはエヴァンゲリオンには日常描写の丁寧な積み重ねがあるからだ。2年A組での普通すぎるほど普通な学校風景。ミサト宅での他愛のない描写にテレビ版からのファンはともかく、映画から入った普通の映画ファンはとまどうはずだ。なんて陳腐な日常シーンなんだろうと・・。
だが私がエヴァ破にのめり込む最大の理由はそこにあった。そのあまりに陳腐で退屈な日常の光景とその描写こそが自分の世界とエヴァ破とをつないでいるものだとわかったからだ。
第3新東京市の住民は身近に人類滅亡の危機があるにもかかわらずパニックにもならず平穏な生活を営んでいる。朝起きたら通勤通学ラッシュのなか学校や会社へと出かけていく。そんな普通の光景。だがそんな光景はかって戦時中だった日本にもあったはずだ。敗戦間近でも空爆で焼け野原になっていても人々はパニックにもならずヤケをおこして自暴自棄にもなったりせず日々の生活を営んでいた。
戦時中であろうとなかろうと陳腐で退屈な日常は続いていく・・・私たちとエヴァの世界が別の異世界のことではなくつながっているというのは、映画で描かれる戦時中の平凡で退屈な日常が今の私たちの平凡で退屈な日常と地続きであると感じさせてくれるからだ。
日常シーンが陳腐であればあるほどエヴァと私たちの世界との地続き感が強まる
この平凡な日常シーンあってこそのエヴァンゲリオンなんだよ。今私たちのいる世界とエヴァの世界が同じ地平にあると自然に思えるからこそ、アスカがあ〜なってしまってからのシンジの絶望に塗りつぶされた世界とそこから自力で脱しようとするシンジの姿にモーレツに感動し、最後には神の領域へと入る超展開も自然に受け入れることが出来る。このエヴァの世界は私たちの世界と地続きであると。
とにかく今年見るべき映画は「愛のむきだし」と「ヱヴァンゲリオン・破」以外にはない。(サマーウォーズもそれに入るかもしれない、まだ見てないけど)エヴァは1回目は映像と音響の洪水にのみ込まれてワケわかんなくなる可能性があるので最低2回は見てくれ。
ラベル:エヴァンゲリオン