確かにこの作品で殺されるやつは最低のゴミカスうんこ野郎で、死んで当然のやつかもしれない。こいつが殺されることにはべつに異議はないよ。でもさ、どんな極悪非道のウンコ野郎であろうとそいつを殺した人間は殺す以前の自分とは根本的に違ってしまうのは避けられないと思うんだ。
人を殺した人間は以前の自分では決していられない。たとえそれが「正義」の殺人であろうと。
ところがこの重力ピエロでは一人の人間を殺した後、兄弟は仲良く暮らしましたとさ、めでたしめでたしだって・・・アフォか!殺人を犯した人間の心の闇も葛藤も何もない。「いや〜俺いいことしちゃったな〜爽快!」こんなお話ありかよ!
北野武が映画内の殺人に関してこう言っている
「映画の中で人を殺したものは映画の中でかならず死ななくてはならない」
それは北野武のモラルであり、自己に律した厳しい掟だ。それにくらべて重力ピエロを作った奴らときたら・・・
なんていう宇多丸風モラリスト批評がこの映画を観た後真っ先に浮かんだ。宇多丸さんみたいに映画の中のモラルに厳しい人には突っ込みどころ満載の映画ですな。
じゃあ、ここからは俺の批評ね。
この重力ピエロの兄弟はまんま「ゆれる」(西川美和監督)の兄弟だね。兄・泉水(加瀬亮)弟・春(岡田将生)の関係性は「ゆれる」の弟・オダギリジョーと兄・香川照之のゆがんだ関係とそっくりだ。
兄弟のゆがんだ関係とは何か・・・単純に言えば「兄貴とファックしたい」である。
「ゆれる」批評の時に書いた名越康文氏の「ゆれる」分析がそのものズバリ指摘している。
オダギリジョーの愛という名の呪縛「ゆれる」←ここに書いてあるんでどうぞ
「弟は兄との愛を温存するために、兄からこの女性を本能的に奪おうとするわけです」
「弟は最後に兄を裏切ることで兄との絆をためそうとしている」
「ゆれるのラストは兄が弟の愛という呪縛にまた取り込まれてしまったというとても怖いシーン」ー名越康文
このように「ゆれる」はひたすら弟が兄とファックしたいと願う異様な映画だった。そしてこの重力ピエロもそうした異様な映画の傑作になる可能性はあった。
最初に疑問を呈した、なんで遺伝子配列の暗号みたいなまわりくどいやっかいな犯行を繰り返したのか?答えは簡単、兄が遺伝子の研究をしてたから。兄の気を引くために膨大な手間ひまかけてなんの意味もないことを繰り返したんだ。愛する兄の気を引くためだけに。
弟はどんなに兄を愛していようとも「兄貴とファックする」ことなんてできようはずもなく、できないからこそ狂おしいまでの愛の発露がこの複雑怪奇な犯行になった。兄に解いてもらうために遺伝子暗号を作り、わざわざ兄の目の前で人を殺す。
兄をがんじがらめに呪縛して自分のものにする。それが春のやりたいことだったんだよ。
・・・・とそこまでこの映画が描ききっていれば傑作になったと思うけど、残念ながらこの映画はそこまで描ききっていない。ただ単に家族の絆とか麗しき兄弟愛という、いいお話風のところに落とし込んでしまっている(モラル的には全然いいお話じゃないのに!)
ミステリーや家族の絆などというわかりやすさに逃げ込むのではなくもう一歩踏み込んでいれば境界を突破した作品になったのにね。