2008年08月20日

すべての人間は有罪「ダーク・ナイト」

ジョーカーが強烈。確実に映画史に残る悪を創造した脚本クリストファー・ノーランとジョナサン・ノーラン兄弟に感服。


ノーラン兄弟は映画の中のよくある悪役を超えた悪を創造した、ではそれはどんな悪か?


従来の映画の悪役は自分たちスクリーンの前にいる観客には関係のないひどいことをする奴であり、自分たち「普通の人間」とはまったく違う怪物で、正義によっていずれは打ち砕かれるもの。


観客の前に差し出される供物のようなものでしかなかった。


だが「ダーク・ナイト」のジョーカーはそうじゃない。我々「普通の人間」のなかにあるエゴや欲望を利用してすべての人間を自分のゲームに引きずりこむ。


我々普通の人間たちをたんなる被害者やテレビやスクリーンの前の観客であることを許さない。


ジョーカーはすべての普通の人々を自分の犯罪に加担させ、その罪深さを眼前につきつける。


被害者も加害者も傍観者も全員が有罪といういまだかってない悪を作り上げた。


またこの映画の見せ場すべてが善と悪の価値観が転倒するように仕組んであるのも驚嘆にあたいする。


ジョーカーはバットマンが正体を明かさなければ市民を殺し続けるという、市民はバットマンを批判するようになる。次はバットマンを裏切ろうとした男を殺さなければ病院を爆破するという。今度は市民がこの男を殺そうと襲い掛かる。


象徴的なシーンは男を護衛していた警官が自分の家族がその病院に入院していたためにその銃口を男に向けるシーンだ。正義だと思っていたものがあっさりとその立場を変える。ジョーカーによってすべての人間が善悪の彼岸へと投げ出されることになる。


クライマックスのシーンもあまりに象徴的だ。二つのフェリーの二つの起爆装置もそうだが、それと並行して描かれるバットマンの見せ場。警察がジョーカーのいるビルに突入しようとする。バットマンはなにをするか?


突入する警官隊を阻止するために警官を次々と倒すのだ。無論理由があるのだが、これまでノーラン監督が描いてきた善悪の転倒をクライマックスの見せ場にまで徹底させる。


また最後のジョーカーとバットマンの対決も味わい深い。バットマンはジョーカーを殺せない、同じようにジョーカーもバットマンを殺せないと告白する。バットマンがいるからこそ自分が存在すると最後に告白する悪役。


ジョーカーにとってすべての人間を有罪にするためには有罪判決をだせる高貴な存在が必要だ。それがジョーカーにとってのバットマンなのだと思う。自分をふくむすべての人間が有罪ならそんな奴らを救う行為にどんな意味があるというのだ?


勧善懲悪のヒーローものとしてはありえない高みにまで到達した「ダークナイト」


何度でも言うがヒース・レジャーのジョーカーは映画史に残る。これほどまで説得力のある悪が映画史上存在しただろうか?


posted by シンジ at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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