『劇場版 PSYCHO-PASS PROVIDENCE』、さすがに、さすがにお粗末すぎるだろ…お話が。登場人物が「法律の廃止」を連呼して作品世界でどうも大きな流れになってるみたいで、しかしそれは「刑法」の廃止の言い換えか?と思ってたらどうもマジに「法律」の廃止っぽいので脳みそ焼き切れるかと思った
法務省解体して法律廃止したらふつうにすべての省庁の根拠なくなって国家そのものがおしまいにならないの?これだけ主要人物に役人が出てくるのに作り手は官僚制のことどういうふうに捉えてるわけ?結末が決まっているのでどうそこに着地させるか苦慮した結果とは推察しますが、それにしたってですよ。ー@AmberFeb201氏のtweetから引用。
映画を見る前にこの批判を読んだので一時はなるほどと思ったが、映画を見てからはこの批判は的外れだと感じた。
「サイコパス」の世界ではシビュラシステムという全能のAIがすべてを支配し、人間を完全に数値化することに成功しており、そこから人の犯罪係数をわりだし犯罪を未然に防いだり、その人にとって一番いい職業を選択してくれたりする。人間が考え決断する手間をすべて省いてくれるシステムだ。
この作品のテーマは全能のAI(=神)と法律との対立構造だが、実はこの対立は今現在、現実の世界でも形を変えて存在している。
近年政治的に正しくないという理由で訴訟を起こす前にキャンセルを起こし、失職させるという動きが多方面であった。
どんな最悪の犯罪者でも法の下で裁きを受ける権利がある。裁判以前に確たる証拠もなく有罪を宣告される前に容疑者をリンチにかけ、職を奪い人生を奪う権利は誰にもない。
今は下火になったとはいえ数年前の「キャンセル」ムーヴメントに心のしこりを感じるのはこの一点だ。
私はこのキャンセルと法律の対立関係にサイコパスのシビュラと法律の対立関係を重ね合わせてみてしまう。
正義の大衆の私刑とかたや全能のAIによる合理的判断。
まるで別物のようにも見えるが、どちらも大衆(マルチチュード)と法律の緊張関係に関係していることをこれから論証する。
まず「大衆」に歴史上はじめて重きを置いた人物に「君主論」で有名なマキャヴェッリ(1469-1527)がいる。
君主論は君主による非情な政治手法を説いたものとして有名だが、これはあくまでロレンツォ・デ・メディチ公に捧げるために書かれたものであり、実際のマキャヴェッリの主張とは違うものだった。
本来のマキャヴェッリの思想は君主政にはなく共和政の道を説いた「ディスコルシ」にある。
マキャヴェッリはカエサルを痛烈に批判し、独裁政を酷評する。
民衆の持つ性格が、君主の性格に比べて罪が重いわけではない。なぜなら、あとさきのことを考えもせずに、あやまちを犯してしまう点では、両者は五分と五分だからだ。−第1巻58章
人民に比べると、君主の方がはるかに失敗を犯しやすい。−第1巻58章
大衆の政体である共和政が君主政と比べて劣っていることはないのだ。
こうしたマキャヴェッリの政治学における「大衆」の重要性をさらに推し進めたのがスピノザ(1632-1677)である。
常にスピノザの念頭にあった仮想敵とはアリストテレスをはじめとする「徳」を掲げ大衆を支配する政治論を主張する一派だった。
大衆は愚かでまぬけで感情に支配され、欲望にまみれている。そんな大衆を政治に関わらせてはならないといった考えが数千年もの間ヨーロッパを支配してきた。
そうしたアリストテレス以来の考えをマキャヴェッリとスピノザはひっくり返す。君主も貴族も大衆も同じ人間本性を持つ以上愚かさでは五分五分でしかないし、間違える確率も同じだろう。
ならばより集合知の力が期待できる「大衆」を政治の基盤にすえるべきなのだ。
そして重要なのは徳や道徳といったもので大衆を支配することはできない。徳による大衆支配の政治体制は必ず失敗するということをマキャヴェッリ、スピノザともに主張している。
徳による支配をわかりやすく言うと、ある一つの理想を描き、その理想を大衆に強要する政体のことをいう。いろんな政体が思い浮かぶはずだ。
スピノザはそうした「上」からの支配は必ず失敗するとしたうえで、「上」からではなく「下」からの政体しか成功しえないという。
上から(理想や徳)ではなく、下=大衆の感情や情念、欲望といったそれまで何千年も馬鹿にされ、悪しきものとされ、汚らわしいとされてきたものこそが大衆を基盤とする政体をつき動かすものとなるのだ。
こうして「大衆」はマキャヴェッリとスピノザによって「神」にとって代わるものとして誕生する。
その「神」は法律に対しこう宣言する。
「法は理性と人間の共通の感情とによって支持される場合のみ破られない。そうではなく、もし理性の助けによってのみ支えられるなら、それはきっと無力で、容易に破られる」−スピノザ国家論第10章第9節
大衆の感情こそが法の根拠であり、大衆の感情によって支持されない法律は意味をなさない。
こうしたマキャヴェッリとスピノザ流の考え方はまさに近年キャンセルの嵐となって吹き荒れたのを私たちは見ている。法律を超えて判断を下す神なる存在としての「大衆」
万能の神としての大衆と万能の神としてのシビュラシステムは必然的に法律と対立し齟齬をきたすのである。(映画の中で法律を廃止すべきと言っているのは人間だが、それを指示したのはシビュラだろう)
そして映画サイコパスの常守朱(つねもりあかね)は極限まで達した万能の神と法律との齟齬の中でひとつの決断を下す。
それはグロティウス(法学者1583-1645)的決断である。
グロティウスはこう言う。
「たとえ神が存在しなくとも法(自然法)はその効力を失わない」−「戦争および平和の法」
もはや万能の大衆も万能の神をも必要としない神殺しの一撃である。
映画「サイコパス プロヴィデンス」は常守朱のグロティウス的一撃により神は必要ないことを証明した傑作である。