「先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い」(はてな匿名ダイアリー)
というリコリコに対する代表的な批判に対して、まだまだ寛容だった時↓
「リコリスリコイルに関するこの手の批判は
@1話目でこの世界がディストピアだと明示されている。
Aまだ6話なので結論を出すのは早い。
に尽きるが、ディストピア世界を自明のものとして進行していく作品には他にサイコパスなどもある。まだ6話目なので結論を出すには早いが、」
「私にとってリコリコはディストピアを自明のものとして進行していく「萌え」フォーマットの作品の一種だと思える。そうした作品を、この作品には深いテーマ性や社会的なメッセージがないと言って批判するのは単に「カテゴリーミス」としか思えない。」
「批評における「カテゴリーミス」とは例えばアガサ・クリスティーの作品にドストエフスキー的な深みのあるテーマがないとか、ミケランジェロと現代美術を比較して批判するようなことを指す。そもそもカテゴリーが違うのだ。これを批評におけるカテゴリーミスという。」
「とはいうもののリコリコのスタッフがこの先物語をどう転ばせていくかは誰にもわからないので、まずは終わりを見届けてから批評を始めても遅くはないだろう。」
とここまでは寛容というか鷹揚にかまえている。これが8話目になると・・・
「リコリスリコイル8話。めちゃくちゃよくできている。だがしかし、だからこそ「萌え」に頼らずアクションとプロットで勝負してくれ。萌えに頼るか、プロットによるかでアニメ史に残るか否かが決まる。」
作画も、演出も、美術も高水準なのにだんだん不安を感じていることがわかる。そして10話になると評価が一変する。
「リコリスリコイル10話。もともとガバ脚本なのには目をつむってきたが、ここにいたって段々きつくなってきた。設定がガバガバなのは受け入れる(そもそも少女暗殺者集団だしな・・)がストーリーの細部までガバになると・・・」
「創作物のセオリーとして大きな嘘をつくときは、小さな事実を積み重ねろというのがある。設定のリアリティラインは低くてもよいが(大きな嘘)、ドラマやアクションの細部はリアリティラインを高くする。リコリコはそれができているか?」
「あんな厳重な警戒態勢を敷いていながらあっさりタワーへの侵入を許すDA。そんなスーパーテロリスト真島のテロの方法が拳銃千丁を街にばらまくだけ(現代日本でも千丁ばらまいたって重大なことは起こらないでしょう)細部がガバだとすべてが台無しになる。」
ガバガバな脚本の荒に目が行き、評価が辛くなってくる。そしてついに11話では作品内モラルとの決定的な齟齬が生まれる。
「リコリスリコイル11話。本当にアクションは素晴らしいだけに、設定面が気になってしょうがない。この物語どう考えてもテロリスト真島が正義の味方であり、千束たちの所属するDAこそが悪の組織そのものなんだよね。そこらへんにムズムズして素直に楽しめない。」
「犯罪者を、法律も無視し、逮捕も起訴もせずにただ殺害するだけの組織と、殺害を実行する少女たちは、どう考えても悪の組織であり、革命を起こされる側の腐った体制側である。その体制を覆そうとしている真島は革命側であり、正義なんだよね。」
「このどんだけ腐った体制でも、平和と日常さえ維持できてさえいれば、それは尊いものであり、守るべきものであるという考えのアニメがリコリスリコイル以外にもある。「サイコパス」である。」
「アニメ「サイコパス」は大好きだし、傑作なんだけど、腐った体制を維持し続ける点にモヤモヤしたものを感じた。どうやらリコリコにもそうしたモヤモヤを感じることになりそうだ。」
リコリスリコイル12話ともなるともう評価は覆らないあきらめの境地に。
「リコリスリコイルはスーパーテロリストが銃を千丁、街にばらまくだけのスーパーテロ(笑)を起こしたあたりと、リコリコの存在が世間にばれて全員抹殺指令が出てるのに、実はリコリコはテーマパークの新しいアトラクションでした、で全国民納得する時点で、傑作からありきたりな萌え作品になった感」
リコリコ13話では制作者側の思想自体に問題があると考えるように。
「リコリコ13話。制作者のグロテスクな思想が垣間見えてきつかったな。千束の「世界を好みの形に変えてる間にお爺さんになっちゃうぞ」「世界がどうとか知らんわ」というのは作品で描かれるこの世界の人権無視、法治主義否定のファシズム体制の現状肯定という意味だからね。」
「千束の現状肯定はニヒリズムと表裏一体で、「この世界はこのままで完璧なんだから、一切変える必要はない」は、「この現実の世界にはなんの意味も価値もないのだから変える必要はない」と同義である。これが現状肯定のニヒリズム。」
「制作者は意図しなかったことだろうが、今、人権も法律も無視してロシアが侵略してる最中に、「どんな腐った体制でも、変える必要はないし、この体制を維持していきます」という主人公なのはバッドタイミングとはいえグロテスクすぎる。」
「リコリスリコイルに感じる、このロシアや北朝鮮をはるかに凌駕する極悪国家、ファシズム体制を命を懸けて守る意味ってなにかね?」
これ書き終えてしばらくしてイプセン「野鴨」が裏テーマなんだと気づいた。
イプセン「野鴨」とは。〜正義にとりつかれたグレーゲルスが虚偽の土台の上に築かれた家族を壊し、真実の愛という「理想の追求」を友人のヤルマールとその家族に強いた時、それまでのヤルマール家の幸福は崩壊し、悲劇が訪れる。
「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことになるんだからね」−「野鴨」より
これまったくリコリスリコイルやPSYCHO-PASSサイコパスのメッセージなのだ。
吐き気を催すディストピアであったとしても、そこで暮らす人々は幸福に暮らしている。だがしかし「正義」や「真実」に価値を置くならば、この虚妄に満ちた世界を破壊しなければならない。たとえ真実と正義のために人々の日常や生活や幸福が完膚なきまでに破壊されようと。・・・だがしかしそれは本当に正しいのか?
PSYCHO-PASSではこの社会のシステムが破壊されれば、大混乱が起こり、人々の平穏は一瞬で終わるがゆえに、シビュラシステムを温存せざるえない=このディストピアを続けていくほかないという答えにある程度の説得力があった。
しかしリコリスリコイルではそれほどの説得力はない。むしろ少女暗殺集団を国家が運営してること自体、なくしてしまったほうがいいのではないか?つまりこの虚妄の世界を維持し続けなければならないという理由がとぼしいのだ。
イプセン「野鴨」のテーマを突き詰めて考えているがゆえに、PSYCHO-PASSは傑作であり、おそらく制作陣が野鴨など読んだこともないであろうリコリコが浅い萌え作品のなったのは当然であった。