主人公の帆高の選択に対する批判としてこれを社会性のないものであるとか、浅薄な功利主義(最大多数の最大幸福)批判であるとか、公共的なものへの反発からくる徹底した利己主義、リバタリアニズム(自由至上主義=個人の自由と権利を絶対視する思想)であるとかいう批判が一部にある。
一方で帆高の選択に対する賞賛として非常にラディカルでアナーキーなものであると賞賛する人たち(おもに革新幻想にとらわれた中年男性)がいる。むしろ批判よりもこっちのほうが多いかもしれない。
だがこの批判するもの、賞賛するもの両者ともに映画に描かれているものと向き合わず、新海誠の意図するものを無視し、頭の中にある「公式」に映画を当てはめているにすぎない。
この批判と賞賛の両者が見逃しているものとは新海誠その人であるといってもいい。
はたして新海誠は徹底した利己主義、自由至上主義の観点から帆高の決断を描いたのであろうか。もしくはこの世界など滅びてもかまわない、愛さえあればそれでいいというようなアナーキズムからこの決断を描いたのだろうか。
どちらも共に間違っている。
私のようなすれっからしからしてみれば信じられないことなのだが、新海誠は本心から「世界が良くなってほしい」と願い「世界が少しでも良くなるよう」に思いをこめて映画を作るお人なのだ。
「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」ーLINELIVEの『君の名は。』特番での新海誠。
私は新海誠のこの発言が嘘偽りない彼の本心、映画作りの根底にある考えだと確信している。ここ何年かの新海誠のインタビューや対談のネット記事、雑誌記事のほとんどに目を通してきた結論がこれだ。(これでもし彼の発言が全部嘘で演技しているだけというなら脱帽する)
新海誠は我々が思っている以上に「ガチ」の人なのだ。心の底からこの世界が良くなればいいと願いながら映画作りをする新海が、リバタリアニズムにもとづいて、もしくはアナーキズムにもとづいてこうした選択を描いているのだと見えたのなら、その目は節穴である。
新海誠は議論の余地なく完全に帆高の選択こそが「世界を良くする」ものだと確信して描いているのである。
新海は徹頭徹尾、登場人物に寄り添い、どうすればこの子達が幸せとなるのか、どうすればこの世界がより良いものとなるのかを真摯に考え抜いた結果、この選択、この決断を描いたのだ。
帆高がくだした決断は、まず「目の前にいる苦しんでいる子を助けよ」という衝動に従うことだった。
目の前にいる苦しみ助けを求める人に手を差し伸べることこそが全世界を救うことと同義であるということ。
ここで毒々ルサンチマンもちの邪悪な私が囁く。「いや、もちろん目の前に困っている人がいたら助けるけども・・・それと世界を救うことには深い断絶があるよね?私たちは家族や友人、目の前にいる人は助けようと思っても、少しでも離れた地域や別の国にいる人たちの不幸に関してはほとんど無関心じゃないか」
人間の同情心や想像力というのは自分の身近なものにしか働かないように見える。そうした狭い範囲でしか通用しない衝動に身をまかせることは根本的にあやまちではないのか。
しかしこの目の前にいる苦しんでいる人を助けるという衝動こそ孟子のいう
「人皆人に忍びざる心有り」
に他ならない。これを「道徳を基礎づける」のフランソワ・ジュリアンはこう訳す。
「誰にとっても他人が不幸に沈んでいる時に無関心でいられず、反応を引き起こすものがある」
これを「仁」という。
なるほどこの「仁」はいまだ不完全であるかもしれない。目の前の人を助けても、地球の裏側で苦しんでいる人々を助けることもできないちっぽけな感傷かもしれない。
だがしかし目の前にいる苦しんでいる人を助けたいと思うこの小さな衝動こそが人のモラルの源泉であり根底にあるものなのだ。この未熟で小さな思いこそが地球上のすべての人々が倫理的にふるまう最初の一歩なのだ。
新海誠は苦しんでいる人が目の前にいたなら、それに無条件で手を差しのべる衝動こそが世界をより良くする第一歩だと本気で信じているからこそ「天気の子」を作った。
帆高の決断は愛を選ぶか、世界を選ぶかというような陳腐なトロッコ問題ではない。男女間の愛の問題ですらない。
焦点は「仁」なのである。