北野武監督の「アウトレイジ最終章」後の新作映画が決まったようだ。文藝春秋2019年1月号でのビートたけしと伊集院静との対談で明かしている。
たけし−いま、ずっと映画にしたいと構想している。本能寺の変を題材にした「首」って歴史物を、小説とシナリオで同時に進めてるんです。片っ端から史料を読んでノートを取るでしょ。そうすると、こんなに積み上がっちゃって。どうしていいか書きあぐねている感じですよ。
伊集院−ちょっとしたきっかけがあればそこから飛躍するのはあっという間ですよ。私も取材をするけれども、実際の小説は資料や聞いた話とは別に育っていくから。
たけし−今年は小説を六本書いちゃったんで、来年はしっかり「首」に集中しようかと思ってるんです。
伊集院−映画「首」は、いつ頃撮るご予定ですか?
たけし−「いだてん」(NHK大河ドラマ)が終わってからでしょうね。大河で俺は古今亭志ん生さんを演るんですけど、セリフは少ないんです。だいたい月二回の撮影で来年の九月までかかるのかな。(文藝春秋2019年1月号)
2019年9月以降撮影開始と予想される「首」とはずばり「織豊時代のアウトレイジ」である。この企画はもう十年以上前から北野武の口にのぼっては消える幻の企画だった。
北野武はつねにいくつかの映画企画を準備している人なのだが、「首」も企画はされるもののオフィス北野の森昌行元社長に却下される映画のひとつだった。
却下された映画企画の中には、たとえば障害者にピナ・バウシュ風のダンスを躍らせる時代劇だったり、のちに小説「アナログ」として結実した恋愛ものもあった。映画「首」も森昌行に却下されて日の目を見ないはずの映画だったのだ。
しかし事態は急転した。北野映画の企画をさまざまな理由で却下しつづけて、本人が撮りたくもないヤクザ映画の続編を二本も無理やり撮らせた元凶はもう存在しない。
北野武が本当に撮りたかった企画「首」がついに始動したのだ。ただ森昌行が「首」を却下した理由もわかる。映画「首」の内容を北野武監督自身の証言から追ってみよう。
豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。
でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。
その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。
それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。
それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。−北野武「やり残したこと」
まさに本人が話す内容から見ても「織豊時代のアウトレイジ」と呼ぶにふさわしい内容だ。だが織豊時代を描く、さらには高松城の水攻めや中国大返しを描くとなると莫大な予算がかかってしまう。森昌行が映画化に二の足を踏んだのも理解できる。
しかしどうやらこの「首」にGOサインが出たということはお金を出してくれるところが見つかったようだ。シナリオと同時に小説も書くということはその小説の出版社がお金を出してくれるのではないか。
そしてその出版社とは北野武の小説「ゴンちゃん、またね。」や「フランス座」を出版した文藝春秋社ではないだろうか。
同じ出版社である新潮社が映画「関ヶ原」に出資してそれなりの手ごたえを得た(興行収入24億円)ことも文藝春秋社には念頭にあったのではないか。そしてここで満を持して日本を代表する出版社が世界的巨匠の映画に出資するのだ。楽しみでならない。
北野武新作映画「首」見るまでは生きていようという気にもなるものだ。