ノエル・キャロル「批評について」を読む。キャロルが批判の対象にするのはテクスト論、エクリチュール論などに代表されるポストモダン批評である。(キャロルの言葉に直せば「受容理論」「読者反応批評」)
この本で批判される批評理論を「テクスト論」という言葉に統一する。テクスト論とは
作者という主体が作品を書き上げる以上、作品はあくまで作者からのメッセージを読者に伝達するものだという近代以降の「作者=作品」という考え方を批判し、書かれたもの=「テクスト」は作者主体とは一切関係がない独立したものとする。作者と作品との連関を切断するという考えである。作者と作品の連関を切断することにより、作品は作者からの一方的な伝達という役割を終え、テクストは無限の多様性を手に入れることができるのだ。これをロラン・バルトは「作者の死」といった。テクスト論の肝である。
このテクスト論の問題点は、ある作品に無限の解釈ができるとすれば「価値決定」ができなくなるということにある。つまりその作品の良し悪し、美醜はすべて観賞者の主観によって決まり、一般的基準は存在しない。基準が存在しないということは「批評」はこの世に存在せず、すべてはひとりひとりによる主観的「感想」にしかすぎなくなる。テクスト論にはこの「価値決定不能性」という難点がある。
キャロルはこの長年にわたり批評理論を支配してきたテクスト論にメスを入れる。
キャロルは言う。批評には一般的基準があり、基準がある以上、客観的批評は存在すると。
その基準で重要なのは「分類」=カテゴライズである。
批評対象となる作品がどんな様式運動や形式に属しているか。歴史的、社会的文脈をさぐれば、ほぼ確実にその作品がどの時代のどの作品群の文脈に属しているか分類できる。
そして適切なカテゴリーに分類することができれば同一作品群と「比較」することが可能になる。
「比較」できるということは良し悪しの判断「価値決定」ができるということでもある。「比較」こそ「批評」という「価値決定」の基準そのものなのだ。
そしてさらに重要なこと
「芸術家は自分の作品をそうしたカテゴリー、伝統、分類に結びついた目的を追求するものとして意図しているのだろう」(P103-104)
そうしたカテゴリーの目的を達成しようとする「作者の意図」その情報が当の作品の成功の度合いを測るために用いられる。
例えば「ミステリ小説」の場合。作者がミステリというカテゴリーに属する作品を書いた場合、作者の意図は「誰が?(フーダニット)」「どうやって?(ハウダニット)」「なぜ?(ホワイダニット)」などを読者の意表をつく形で表現できるかどうか。そうした作者の意図が達成されればそのミステリは成功といえるのだ。
テクスト論の核には「作者の意図など読者が理解することは絶対的に不可能」というものがある。
しかしキャロルは作者には読者(観賞者)に理解してもらいたいというコミュニケーションが基盤にあるという。
「作品のあらゆる要素は作家が最終産物の中にその要素の存在を容認したという意味で少なくとも意図的なものだ」(P202)
テクスト論では作者と作品は切断されているので、どのような解釈も自由だとされるが、芸術がコミュニケーションである以上「作者の意図」を無視して勝手に批評することは不当なものとなる。それが他者とのコミュニケーションであれば私たちは道徳的責任に縛られることになるのであり、作者や歴史的文脈を完全に無視した解釈は不当な行為となるのである。
ノエル・キャロル批評理論の簡単な要約
@作品を適切に分類する(特定ジャンルに位置づける)
↓
A作品のおかれた文脈を理解する
↓
B作者の意図がわかる
↓
Cその意図の成功の度合いで作品の良し悪し(価値決定)が決まる
こうしたキャロルの批評理論には無数の反論が寄せられることだろう。例えば、ヨーロッパ中世の絵画や彫刻などは教会や貴族からの注文で、その権威を増すために作られたものである。となるとミケランジェロの作品は、つまり彼の意図は教会や貴族の権威を増すことにあり、その意図がどれだけ達成されたかで、ミケランジェロの作品の価値が決定されるとでもいうのだろうか。
また「ロリータ」などで知られるナボコフの文学理論をおおざっぱにいえば「文学が社会的、政治的メッセージであることを拒否すること。作品の本質は社会の中にはなく、作品自体の中にしかない」というものだ。ではナボコフ作品の成功と批評とは、どれだけナボコフの作品が社会的、政治的文脈とは関係ないものなのかを分析することにあるとでもいうのだろうか。
テクスト論に慣れ親しんだ世代にはキャロルの批評理論はあまりにも違和感の強いものかもしれない。なぜならそれは彼らポストモダン派が完全に否定したはずの「作者の復活」をもくろむものだからである。
しかし作品をカテゴライズし比較対照することはほとんどの批評家が賛成できることであろうし(例えばアガサ・クリスティーを純文学作品と比較することはカテゴリーミスとなる)、またカテゴライズするには広範な社会的、歴史的、制度的な文脈を知る必要があり、当然それを知ること=学ぶことが批評家に求められる。それは批評家に文化批評の責任とリスクが生じるということでもある。当たり前のことだが批評家は主観的感想家ではなく、あらゆる文化的歴史的社会的教養が必要とされるのである。
ただ注意してほしいのは、批評理論を学びたいというときにいきなりこの本からはじめるのはお勧めしない。キャロルの批評理論は「作者=作品」が自明のものだった近代の批評理論をひっくり返した「テクスト論」を標的にし、再度「作者の意図」を理論づけ復活させたという歴史的経緯を知ってはじめて理解できるものだからである。この本を読む前に作品における「価値決定」の問題をより深く思考した本をいくつかあげるので参考にしてほしい。
ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」
ウンベルト・エーコ「エーコの文学講義」
加藤典洋「テクストから遠く離れて」
これらの本を読めば批評という「価値決定」の深さと困難さがより理解できるようになるだろう。