日本の映画界は近年漫画原作に頼るのが常だ。理由はオリジナル作品や原作が小説の場合、客がどれくらい入るかまったく読めないのに対し、すでに数百万部、数千万部も売れている漫画原作は、映画会社上層部にプレゼンしやすく、製作委員会方式なら金も集まりやすい。わかりやすい「数字」が見える以上成功もたやすいと考えられているわけだ。
なかでも漫画として1億部以上売れているジョジョの奇妙な冒険や1800万部以上売れている東京喰種(グール)は熱狂的なファンが多い超人気作であり、映画化に期待されていた今年一番の注目作であったことは間違いない。JOJOなら東宝とワーナーが組むという異例の体制での大作であり、東京グールは松竹史上でも最大の予算をかけたと喧伝される大作だ。
だがしかし、こうしたメジャー映画会社の鳴り物入りの企画がまさかここまで無残に失敗するとは誰が予想しえたであろうか。
JOJOの奇妙な冒険の興行収入初動(土日二日間)は動員11万7000人、興収1億6600万円、ランキング5位だった。初動1.6億円がどういうことかを簡単に説明するとほぼ確実に最終興収10億円に届かない目も当てられない大失敗ということになる。
東京グールは初動が16万6000人、興行収入約2億3200万円、ランキング5位。この数字は悪くないように思えるが、なんと公開2週目はベスト10圏外という異常事態。これも興収10億円には届かずに終わる可能性が高い。大惨敗といっていい。JOJOもグールも映画会社は興行収入30億円以上を当て込みシリーズ化をもくろんでいたはずなのに。
いったいなぜこのような興行的惨敗が起きたのか?まず映画公開前の問題点をあぶりだしてみよう。
特にJOJOに顕著なのだが、本来映画の口コミの火付け役=アーリーアダプターとなるべき原作ファンが映画製作発表時に一斉に敵に回ったことが誤算中の誤算だった。
・アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者):流行に敏感で、情報収集を自ら行い、判断する人。他の消費層への影響力が大きく、オピニオンリーダーとも呼ばれる。市場全体の13.5%。
・アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者):比較的慎重派な人。平均より早くに新しいものを取り入れる。ブリッジピープルとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
・レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者):比較的懐疑的な人。周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。フォロワーズとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
ーイノベーター理論
http://www.jmrlsi.co.jp/knowledge/yougo/my02/my0219.html
JOJOファンの動向はおもにSNSなどで収集していたが、最も目立つところでファンの不満が可視化されていたのがYOUTUBEの公式予告動画のコメント欄だろう。
映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』予告2
https://www.youtube.com/watch?v=FwMv9zt_hDA
>俳優より監督にムカつく!
>糞映画確定。はよ死ねや
>大コケ続きの三池にはもう漫画原作ものはやらせない方がいいんじゃないか
>キャスティング意味不明だわ 承太郎マッチして無さすぎるし業界の「とりあえず山崎賢人使っときゃ何とかなる」脳、細胞単位で死滅してほしい
(コメント欄より抜粋)
等々、読んでるだけで気分が悪くなる罵詈雑言の嵐。低評価が高評価をはるかに上回る散々なコメント欄。ファンがこれだけ激怒している理由はおもに監督である三池崇史への不満。監督の前作、映画「テラフォーマーズ」への不満が背景にあるようだ。
そして多くの漫画原作ファンに共通する日本映画全般に対する不信。自分たちの愛する漫画がことごとく日本の映画会社によって「糞化」したことによる怒りは相当大きいようだ。私はこれを「進撃の巨人トラウマ」と名づける。
日本に一大ブームを巻き起こし、経営難の講談社をも救ったといわれる漫画「進撃の巨人」。映画が公開された2015年当時はまだそれほど原作ファンの実写映画化に対する拒否反応は少なかったように見える。しかし映画が公開されて事態は一変する。あまりにもあまりな出来にファンが激怒、Twitter上にいる映画制作者たちにその怒りを直接ぶつけるという事態になったことは記憶に新しい。
映画「進撃の巨人」酷評に監督やスタッフがブチ切れ 大人の対応した石原さとみだけ「株急上昇」
https://www.j-cast.com/2015/08/03241857.html?p=all
私はこの「進撃の巨人」映画化以降、漫画ファンの日本映画への憎悪が目に見えて高まったと見ている。
この進撃の巨人トラウマこそが、JOJOファンが公開前の映画に対しここまでむき出しの憎悪をむける背景となっていたのは間違いない。実写映画化を憎悪するJOJOファンは当然のことながら映画公開時に動こうとしなかった。すなわちアーリーアダプターとなるべき人々が映画にそっぽを向いた以上、口コミもきかず、SNSも踊らず、映画JOJOが大惨敗を喫するのはもはや必然だったといえよう。
アーリーアダプターがどれほど映画興行に影響を与えるかを見るには、「シン・ゴジラ」が適当だろう。シンゴジも公開前はそれほど評判はよくなかった。庵野秀明の実写映画の前作は、あの「キューティハニー」(2004年)だぞという嘲笑の声。試写をまったくやらないのは映画の出来に自信がないからだ、等々。
だがゴジラには初日に必ず駆けつける長年のゴジラファンがおり、庵野作品なら是が非でも観るという特濃エヴァヲタも存在していた。彼らはみな頼もしいアーリーアダプターといっていい。そして彼らは実際に作品を見て、その見事なできばえをSNSや口コミで拡散していく。アーリーアダプターが飛びついて拡散したものを映画館まで足を運ぶことに慎重なマジョリティが後追いをするようになる。実際私もシン・ゴジラはある程度客足が落ち着いてから見に行こうと思っていたものが、ネット上でのあまりの熱狂ぶりにあわてて公開二日目に足を運んだほどだった。シンゴジラの興行はアーリーアダプターが熱狂を拡散し、マジョリティが後追いするという理想的かつある意味典型的な動きだったといえるだろう。
そしてJOJOの興行はアーリーアダプターたりえた原作ファンを動かせなかった時点ですでに「詰んでいた」
JOJOも東京グールも公開前から「進撃の巨人トラウマ」というハンデを背負っていたのだ。しかしそれも作品の質が高ければ、そんなハンデや悪評も消し飛ばせただろう。だが実際に聞こえてくる評価はJOJOもグールも「決して駄作ではないが・・・」という消極的なものばかりだ。
私自身も二つの作品を見てこれは原作ファンが悪し様に罵るような駄作ではないと感じた。むしろ制作者たちは漫画ファンの「進撃の巨人トラウマ」を見越して、かなり原作に忠実に作ろうとした意図がうかがえる。
しかしJOJOも東京グールも漫画原作に忠実であろうとしたばかりにある共通した問題点を抱えている。具体的には作品の「テンポの悪さ」であり、そのテンポの悪さは二つの理由から生じている。
ひとつは原作に忠実であろうとするあまり、原作のエッセンスを凝縮する作業、いったん原作を解体し再構築するという作業を怠っている点だ。
これは漫画と映画の根本的な表現の違いによる。長期連載漫画は数多くの登場人物をさまざまなエピソードを通して深く描きこめるという利点がある。それに対し映画は2時間程度の間ですべてを表現しなくてはならないため、セリフやシーンに特徴的な意味を持たせるための「象徴化」や「シンプル化」が行われ、結果として作品は「省略化」と「スピード化」がなされる。これが原作のエッセンスを凝縮する作業、原作を解体し再構築するという作業なのだが、映画会社はこの作業を放棄したのである。これは進撃の巨人トラウマを反省したがゆえの決断だった。
映画「進撃の巨人」は原作がまだ続いているだけでなく、原作者自身からの要請により原作から大幅にストーリーを変えることを強いられた。原作を解体-再構築する必要があったのだ。そしてその結果が映画界を震撼させることとなる罵詈雑言の非難が日本映画や映画スタッフへ向けられる「進撃の巨人トラウマ」を生み出したのだ。そしてそのことを深く反省した映画人たちは「映画はなるべく原作ファンを裏切らないため原作のストーリーをなぞること」という結論を出すにいたる。
トラウマが生んだ要請。それは映画本来の持ち味である飛躍や省略を駆使した映画文法が省みられずにほとんど愚直なまでに原作のストーリーをなぞることに徹するというルールを生み出してしまった。映画的な躍動感やスピード感を犠牲にして、映像表現が漫画のストーリーを伝えるだけの道具に成り下がってしまったのだ。
JOJOの三池演出で特にテンポの悪さが目立ったのが、東方仗助の家族のシーン全般だ。人間ドラマ部分は全部カットして、アクションシーンのつらなりだけで構成してしまう大胆さがあってもよかった。原作を尊重するという意識が、三池監督が本来持つ遊び心さえ失わせてしまったのか。結局尊重されていたのは原作のストーリーだけであり、本来JOJOが持っていた遊び心、エキセントリックな表現は鈍重な演出にスポイルされてしまった。
これは東京グールも同じで、映画は終始原作からはみ出るような過剰さを一切持たずに、淡々と原作をなぞるスクエア(=生真面目)な印象だけが残る出来となっている。
実際JOJOにもグールにも思わず「ハッ!」とするようなカットやシーン、度肝を抜くようなカメラワークも構図も見られなかった。映像表現はただ物語をなぞるために使役される道具でしかなかった。
テンポの悪さを生む二つ目の理由は、身体性とCGの相性の悪さだ。
東京グールで一番ワクワクしたシーンはなにあろう、窪田正孝と清水富美加の映画「ロッキー」ばりの特訓シーンだ。高速度でお互いの身体と身体がぶつかりあう攻防、凄まじい両者の身体能力の高さと格闘技術。二人の才能ある俳優のアクションに魅了されてしまう。
だが惚れ惚れするのはここまでで、グールがもつ「赫子(カグネ)」という触手のような武器による戦闘シーンではCGが全面的に使われるため、途端に俳優の持つ身体性の輝きは失われていく。あれだけスムーズに行われた肉体同士の攻防がCGに置き換えられるとワンテンポずれてしまうのだ。
またアクションシーンにCGを多用することは、テンポが悪くなるひとつ目の理由にも関係してくる。俳優の動きにあとからCGを付け足す作業があるため、カメラは動かすことができずフィックスのままにならざるえない。平凡なカメラワークや構図の理由もここにある気がする。
JOJOの三池崇史監督、東京グールの萩原健太郎監督ともにものすごくまじめに映画を撮っていることはあきらかだ。それも原作に誠実に向きあい、原作を尊重したきまじめさが、逆に映画的なものを奪わせているという皮肉な結果になってしまってるのだが。