2016年08月31日

シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題について

シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題について

映画「シン・ゴジラ」とてもとても面白かった。正直に告白すれば「無人在来線爆弾」のあたりであまりにも面白すぎて気が狂うのではないかと思ったくらいだ。こういう人はどうやら私だけではなく、8月28日のBS-TBSのシン・ゴジラ特集では10回も見たという女性も出てきていた。

たしかにシン・ゴジラは面白かった。しかし、ただ面白かったというだけで人は何回も何回も同じ映画を観てしまうものだろうか。

いわゆる「シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題」である。

実は私もすでに4回観てしまっている。しかし好きな映画を繰り返し観ることはさほど珍しいことではない。「仁義なき戦い」とくに「代理戦争」などは10回以上は観ているし、北野武映画は最低三回は観て批評なり感想なりを書くことにしている。

しかしそれらの作品を繰り返し見ることと、シン・ゴジラを何回も観ることのあいだには何か決定的な違いがあるように思われる。

なにしろシン・ゴジラの場合、観るのが四回目でも画面のレイヤー(層)のどこを見るかで悩み苦しむことになるのだ。

映画表現におけるレイヤーについて考えるために、亀山郁夫のドストエフスキー論を借りたい。亀山によればドストエフスキー作品は「象徴層」と「自伝層」と「物語層」の三つのレイヤーに分けられるという。

これをシン・ゴジラに当てはめると、「象徴層」は2011年3月11日いわゆる「3.11」に起こった悲惨な出来事。震災、津波、原発事故のことであるといえる。この3.11が象徴層として通奏低音のように作品の背後に控えているため、ゴジラというまったくの虚構存在、ファンタジー存在が恐るべき迫真と現実性をもって観客に迫ってくる。

「自伝層」についてはゴジラ誕生の首謀者といえる牧悟郎(岡本喜八)の遺言「私は好きにした、君らも好きにしろ」に庵野秀明の自伝的「覚悟」を見ることも可能だろうが、ここでは「日本人である私」または「日本に住んでいる私」からの視点の層としたい。生命の危険をともなう甚大な災害に見舞われることは日本に住んでいる限りありえないことではない。誰でも3.11のようなことを経験しうる。「その時」私は、私たちはどうなるのか?また「その時」が来たらどうすればいいのか?このことを作品を観ているあいだじゅう突きつけられるのだ。

「物語層」は亀山郁夫によれば、象徴層や自伝層よりも低次の層として、象徴層や自伝層に支配される層とされる。しかし本当にそうだろうか?ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」は圧倒的にその物語が面白いからこそ、名作として残っているわけで、象徴層や自伝層がより高次で高尚だから名作として今も読み継がれているわけではない。

シン・ゴジラも同じで、物語層が圧倒的に面白いからこそ、象徴層や自伝層がうまく機能するのであって、その逆ではない。作品はまずメッセージありき、テーマありきではなく、作品として面白いからこそ副次的なメッセージやテーマが観客のもとにうまく届くようになっているのだ。

さて、まだシン・ゴジラをなぜ何回も観たくなるのかの答えを出していなかった。

シン・ゴジラのレイヤーは実はこの三つだけではない。より表層的なレイヤーがある。それが「日本語表現層」と「キャラクター層」である。

日本語表現層はセリフとテロップに分けられる。奔流のようなセリフ量にテロップ量。カット割が早いために

「いま、環境省自然環境局野生生物課課長補佐の尾頭さんなんつった!?」

「テロップちょっと待って!安田さんの役職、文部科学省研究振興局基礎研究・・・なに!?」

とくに驚愕したのはtwitterでの伊藤聡さんの指摘。

2016-8-30.jpg
https://twitter.com/campintheair/status/764351578274799617?lang=ja

みんな大好き泉ちゃんこと泉修一保守第一党政調副会長(松尾諭)と矢口蘭堂内閣官房副長官(長谷川博巳)の大惨事の後の会話「君も地元を大事にしろよ」のすぐあとのセリフがどうしても聞き取れないと思っていたら、こういうことを言っていたという。「キンキカライのおかげで助かったよ」のキンキカライとは「金帰火来」(国会議員が金曜に自分の選挙区へ帰り、火曜に東京へ戻ることを指す)というのだ。こんな日本語初めて知ったよ!

この興奮は日本語使用者だけにしかわからない醍醐味ではある。ちなみにこういうセリフについては「製作側からは「分かりやすく言い換えてほしい」という要求があったけれど、闘い続けました。言い換えたら、嘘になってしまう。」と樋口真嗣監督がインタビューで答えている。

樋口真嗣監督がエヴァンゲリオンの盟友・庵野秀明総監督を語る「破壊しながら前に進む。彼こそがゴジラだった…」ー産経ニュース

役職のテロップの長さも凄い。何度も観てなんとか俳優と役職名を一致させようとテロップ読みに全力を尽くすが常に惨敗。四回目はヤシオリ作戦中の科学技術館の指揮台にいるのはどんな役職の誰なのか見極めようとするが、全員マスクをかぶっているので皆目見当も付かず!

「キャラクター層」ではネット上でのシン・ゴジラの登場人物の二次創作が盛んだ。尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐(市川実日子)の最後の笑顔に萌え、矢口と泉はできている!やぐいずだ、いや、矢口は赤坂先生と相思相愛なのだから矢赤だ!などという議論もかまびすしい。画面に描かれていないことまで観客は想像して楽しんでいる。

それもこれも、象徴層、自伝層、物語層、日本語表現層、キャラ層など何重ものレイヤーがたった2時間の中に凝縮されているから、情報を処理しきれないため起こる現象といっていい。この現象を見事にあらわした動画をネット上で見つけたので見てほしい。



まさにこの動画の子犬こそ、シン・ゴジラに夢中になる私たちそのものではないだろうか。

本来映画というものは、情報の取捨選択を積極的に行う「省略」の芸術である。観客を短い時間のうちにたくみに誘導するために、省略すべきところは省略し、シンプルな描写で情動を刺激する。シン・ゴジラは物語層こそシンプルかもしれないが、それ以外のところではこれでもかとばかりに情報の洪水を引き起こしている。それこそが、観客に今日はどのレイヤーに注目して見ようかというモチベーションを起こし、何度も観る動機となるものだ。

観客にとって情報が処理しきれなくなる映画が失敗作としてではなく、傑作となって姿をあらわしてしまう稀有な例がこのシン・ゴジラだ。
ラベル:シン・ゴジラ
posted by シンジ at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする