2015年10月25日

なぜ一郎彦を主人公にしなかったのか・映画「バケモノの子」

なぜ一郎彦を主人公にしなかったのか・映画「バケモノの子」

「闇」それは憎しみとか殺意のことを言うのだろうか。闇が出現する「穴」はどうしてできるのか。蓮(バケモノ界では九太)は母が事故で亡くなり、父親は母と離婚してから会いに来ることはなく見捨てられた状態で、親戚一同はイヤ〜な空気を発している。蓮はそこから逃げ出す。もはや蓮はこの社会に身の置き所のない天涯孤独の身となる。これを「無縁化」という。

この世界には自分の居場所は存在しない。そうした思いが胸に「穴」を開けるのである。その穴から飛び出たものが自分の分裂したもう一人の自分である(スプリッティング)。

自身を分裂させること自体は別に病ではない。マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」で印象的なのはトムが退屈でつらい現実から自分を守るために幻想の自己を作り出す場面が頻繁にあることだ。退屈な現実を忘れるために海賊である自分を想像したり、自分が死んでみんなが嘆き悲しむ場面を想像しては自分自身を慰めたりする。現実から自分の心を守るために想像自己を作り出すこと。それがトム・ソーヤーだけじゃない、私たちみんながやっている心の防衛メカニズムなのだ。

蓮(九太)は人間社会から逃げ出し「無縁」という苦しみをあじわう。その苦しみから身を守るために自分の身を分裂させてしまうのだ。それによってできたのが「穴」である。

ではこの映画で九太と対になる一郎彦を見てみよう。

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一郎彦は人間でありながらバケモノの子として育てられた。子供の頃はまだ自分をバケモノの子だと信じて疑わなかったが、いくら年齢を重ねて成長してもいっこうに父の息子である証拠ともいえる「牙」が生えてこないのである。自分は父の息子であるどころかバケモノですらないのではないかという疑心暗鬼が一郎彦を蝕んでいく。

一郎彦はバケモノの世界にいながら、バケモノではない存在。「周縁化」した存在である。

「周縁化」とは・・・人がふたつの集団に属しているとき、そのことで矛盾を抱えたり、どちらの集団においても低い地位に押しやられる圧力を受けたりすることを周縁化という。人々は周縁化された位置からの逃避あるいは解消を試みるだろう。−ロドニー・スターク


一郎彦は自分が尊敬してやまない父の実の息子ではないこと、そしてバケモノですらないことに気づくと、心の防衛メカニズムが働き自己分裂することになる。偉大なる父の息子であり、父の跡を継ぐ偉大なるバケモノの子であるはずの想像自己と、現実の惨めな自己とに。

分裂して胸にポッカリと空いた穴に埋まるのは「憎悪」。父、猪王山(いおうぜん)があろうことか熊徹に敗れたとき、その闇が一気に膨れ上がるのは象徴的である。普通ならいままでバケモノの子とだまされて育てられたことに対し怒りを向ける相手は猪王山であるはずだし、後ろめたさの原因であるバケモノの世界であってもいいはずだ。しかし一郎彦の憎悪の対象はあくまでニンゲンである。それはなぜか。

まだ作家になる前のジョージ・オーウェルが英国の植民地だったビルマに赴任したとき感じたことは、英国人に仕えるビルマ人は英国人以上に同胞であるはずのビルマ人に苛烈に当たるということだった。

支配階級の文化を受容し、自分を紳士に擬すれば擬するほど、労働者階級である自分の出自はますます引け目の多いものになっていく。そしてその引け目があるからこそ、ますます支配的価値への同化と忠誠を強めていくのである。−オーウェル評論集1


これをそのまま「バケモノの子」の一郎彦の立場に当てはめてみよう。

バケモノの文化を受容し、自分をバケモノに擬すれば擬するほど、人間である自分の出自はますます引け目の多いものになっていく。そしてその引け目があるからこそ、ますます支配的価値への同化と忠誠を強めていくのである。


バケモノの世界に所属していながら、人間であるという出自により周縁へと追いやられた一郎彦はますますバケモノの子であることにこだわり、自分本来の出自であるニンゲンを憎悪するようになるのである。現実自己と折り合うことの出来ない一郎彦は想像自己こそが自分の本当の姿であると思い込み、すべての現実を否定する。まず真っ先に否定すべきなのは、偉大なるバケモノの父とその息子である自分の存在を危うくする「ニンゲン」であり、ニンゲンでありながらバケモノと父と子の契りを交わす九太である。

九太と一郎彦とまったく同じ存在なのにも関わらず、一人は憎悪のモンスターと化し、一人は世界と和解しあう。

九太は熊徹とバケモノの仲間たちとの交流を通じて、自分を無縁へと追いやったニンゲン世界を許し、自分を見捨てた父を許す。そして熊徹もバケモノ世界での自分の父親として認める。九太は人間世界もバケモノ世界もともに肯定し、そこに存在する等身大の自分を認める。

一方、一郎彦は等身大の自分も世界をも認めることが出来ず、想像自己の暴走を許すことになる。想像自己を否定するものをことごとく破壊し尽くさないではいられない存在=鯨へと姿を変えるのだ。

この鯨はいうまでもなくメルヴィル「白鯨」のモービーディックからきている。ではなぜ白鯨なのか。メルヴィルの白鯨は何を表しているのか。

メルヴィルにおける白鯨とは、「自然」のことである。といってもその自然は「緑豊かな木々や草花」のことではない。自然についてニーチェはこう書いている。

自然という物の本性を考えてみたまえ。節度もなく浪費し、限度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒で、不毛でかつ同時に不確かなものだ。−善悪の彼岸


自然とは無秩序で人間の理解の及ばない得体の知れないもの。それに対し人間社会は秩序であり、隅々までゆきわたる論理であり、計量可能なものである。

いわば自然は人間社会を脅かすものと「白鯨」執筆当時は考えられていた。秩序を維持するために、人間が心安んじて生きていくためには無秩序かつ不毛で、不確かな領域である自然を克服しなければならない。

だが「白鯨」のユニークさはそれだけではない。白鯨を追うエイハブ船長その人こそ「節度もなく浪費し、限度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒で、不毛でかつ同時に不確かなもの」を抱える怪物なのだ。怪物が怪物を追う話なのだ「白鯨」は。

つまり人間もまたその心の奥底に「自然」を宿しているのである。エイハブは白鯨を殺すと同時に、自分の内なる自然をも殺すことになるのだ。

一郎彦も同じことだ。彼は人間社会を破壊しつくすと同時に自分の内なるものをも喰いつくそうとしているのだ。

合わせ鏡の二人、九太と一郎彦では、やはり周縁化によるアイデンティティクライシスの一郎彦のほうが病が重い。九太を無縁に追いやったのは社会のほうであって九太自身に責任はない。敵は社会であって自分の中にはいない。一方、一郎彦の敵は自分の中に存在する。そのため、より重大な危機に瀕しているのは一郎彦であり、本来なら映画の中で九太以上に深く描かなければならない存在であったという批判はあってしかるべきだ。

ではなぜ一郎彦が主人公ではなく、九太が主人公となるのか。

それは九太が細田守の息子だからである。細田守は徹頭徹尾、映画を自分の半径5メートルの問題にすり寄せてしか考えられない映画作家なのだ。「サマーウォーズ」は細田が結婚して妻の親戚一同と会った経験を映画にしたものだし、「おおかみこどもの雨と雪」は細田の妻が妊娠したのを受けて考えられた物語だ。そして「バケモノの子」は細田に子供が生まれて、さあどうしよう、どう育てるべきなのかを考えた物語なのだ。息子にどう接していいかわからない自分。不安におののく父親からの視点で映画「バケモノの子」は作られている。

一郎彦という存在は映像化にふさわしい大テーマであり、政治的、社会的なものを含んだ深遠なメッセージを映画にもたらしたはずだ。一郎彦という「周縁化」された存在。ふたつの共同体の狭間でアイデンティティクライシスに苦しむ少年。それはより世界的・普遍的なテーマを私たちに思い起こさせるだろう。それはユダヤ人問題であり、日本における「在日」問題のことだ。

一郎彦を主役として描くだけで、それら普遍的な大テーマが描けたはずなのだ。しかし細田はそれを避けてしまう。なぜならそれは自分の問題ではないと思っているからだ。自分の問題、自分の扱える問題は半径5メートルのことだと思っているからだ。だから細田は自分の息子を投影した九太を主人公にした。自分の「実感」がともなったこと以外は描けない細田守的ファンタジーがどこか狭苦しく感じられるのはそこに原因があるとはいえないだろうか。
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2015年10月19日

黒沢清論を離れて「岸辺の旅」シュレーディンガーの猫的解釈

黒沢清論を離れて「岸辺の旅」シュレーディンガーの猫的解釈

黒沢清「岸辺の旅」ですが、清が溝口の雨月物語にオマージュを捧げているシーンもあって、いつもの黒沢清論〜生と死の境界が曖昧になって・・・・うんぬんをやりたいところですが、もうそれは散々人に語られていると思うので、別の観点から見てみたい。

ストーリー中、浅野忠信が村人相手に量子論を教える場面がある。黒沢清がわざわざこんな場面に量子論を持ってくる以上、そこにはなんらかの意味があると考えざる得ない。そういう仮定を根拠にして岸辺の旅を考える。

量子論で有名なのは「観測者問題」だろう。

観測をおこなう前、物体はありとあらゆる状態で同時に存在する。物体の状態を確定するには観測をする必要があり、それにより波動関数は「収縮」し、物体が明確な状態になる。観測という行為が波動関数を解体し、物体にはっきりとした実体をもたせるのである。−ニールス・ボーアの量子のコペンハーゲン解釈


つまり量子は観察することによってはじめて実体化することができる。この量子のおかしな特性を揶揄するかのような思考実験が有名なシュレーディンガーの猫だ。

一匹の猫が箱に閉じ込められているとする。箱の中には毒ガスの入ったビンがあり、ビンにはハンマーが取り付けられ、さらにそれがウランのかけらの近くに設置したガイガーカウンターにつながっている。ウラン原子の放射性崩壊が起こる確率は50%だとしよう。もし崩壊すればガイガーカウンターが反応し、それでハンマーが作動して毒ガスのビンを割り、猫は死ぬ。しかし箱を開けるまで猫の生死はわからない。ーミチオ・カク「パラレルワールド」


箱を開けて「観察」するまで猫は死んでいるとも生きているともつかない状態なのである。

しかしシュレーディンガーの猫のパラドックスを解決する方法がある。それが並行世界論、多世界論である。つまり猫が死んでいる世界と、生きている世界とに分岐してそれぞれに存在するという考えだ。

岸辺の旅の浅野忠信は生者でもなければ、死者でもないどっちつかずの状態にある。いわばシュレーディンガーの猫だ。そうした観測前の未決定状態にいる夫が、妻と旅立つ先々でまったく「別の人生」を歩むことになるのは、「観測をおこなう前、物体はありとあらゆる状態で同時に存在する」からでもある。

シュレーディンガーの猫状態になる以前の浅野は歯科医という人生を送っていたが、生者でも死者でもない未決定状態の浅野はこうであったかもしれないいくつもの可能的だった世界を生き直す。

新聞配達人だったかもしれない人生。大衆食堂で餃子を作っていたかもしれない人生。教師だったかもしれない人生=並行世界を生き直す浅野。

そしてこの映画の肝は、そのいくつもの可能的な並行世界でつねに浅野のそばにいるのが深津絵里だ、ということである。つまり何度生き直そうと、どんな選択をして、どんな並行世界に飛ぼうとも浅野のそばにはつねに深津絵里が寄り添っているのだ。

そしてシュレーディンガーの猫として可能的な並行世界をさまよって来た二人が体を重ね合わせ愛し合ったとき、未決定状態だった夫の存在は決定状態へと収れんしてしまう。浅野は可能世界という並行世界にいられなくなるのである。世界は浅野が死んだ世界という浅野が不在である世界ひとつに収束してしまうのだ。

いつもの黒沢清論「生と死の境界が曖昧に・・・」などをするより、こうした量子論的解釈も黒沢清の可能世界を広げるのではないでしょうか。

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死んだ人がよみがえるという話だと塩田明彦「黄泉がえり」という映画があって、ちょっと岸辺の旅にもそういう雰囲気があった。でもそうした感動モノと決定的に分かつのは、深津絵里が亡き父親(首藤康之)と再会する場面である。普通ならここは感動的な場面になるはずである。しかしこのシーンの印象はひたすら「気持ち悪い」のだ。深津が父に「向こう(あの世)でおかあさんとうまくやってる?」と聞くと、死んだ父は「ああ・・・」と答えるのだが、これが明らかに嘘をついているとわかるのだ。娘に聞かれたことに対し、嘘をつかなければならない死んだ父親。いったい死後の世界とは娘にも嘘をつかざるえないなにかなのか。ゾッとせざるえない恐ろしい場面でした。
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2015年10月18日

至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か 映画「バクマン。」

至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か「バクマン。」

目標も夢も何もないごくフツーの高校生が、一転、漫画という夢と希望を発見したときの世界が一気に開ける感覚!その衝撃と感動は何物にも変えがたい光芒として私の網膜に焼きつけられる。本当にここは感動するよなぁ。たいていの人は一生を捧げるに値するものなんて何も見つけられずに亡羊と生きていくほかないってのに、この子たちは高校生のみそらでそれを見つけてしまうんだ。有頂天になるのもわかる。

夢に向かって、ただ夢だけを見て駆け上がっていくことの出来る人生というのはそれだけで貴重すぎるほどの宝物だ。

だがプロデューサーの川村元気氏がこの映画を「キッズリターン」(北野武作品)にしてくれと大根仁監督に注文した以上、夢だけを見て駆け上がっていく映画ではなくなるのは当然のことだった。

晴れてジャンプ作家となった二人(佐藤健、神木隆之介)を待ち構えていたのは、恐るべきジャンプシステムーアンケート至上主義、週間連載というあまりにも過酷な「業務」の連続であった。

週間連載、1週間ごとに締め切りがやってくるというのは想像するだに過酷な状況である。それも新人作家である以上絶対に「落とす」わけにはいかないプレッシャーがあり、読者のアンケートで人気順位が二桁代になれば容赦なく打ち切られるのである。もし私がこんな過酷な状況に陥ったらと思うと「オエッ」とえづくような緊張感がある。

あれほど夢と希望にあふれていた高校生二人は夢も希望もない「日常業務」の中に埋もれて疲弊していくのだ。これは見ていてつらかったな。

まるで少年ジャンプが高校生二人の貴重な夢と希望と才能と時間を食い尽くそうとする「搾取モンスター」のように見えてしまうのだ。

この映画バクマン。を少年ジャンプにとって最高の宣伝という人もいるだろうが、私には逆効果としか思えなかった。私はこう考えてしまうのだ。

はたして少年ジャンプに命を賭してまで戦う価値はあるや?と。

日本には漫画家を目指す人たちが何万人、何十万人はいるだろう。だがそのほとんどの人たちは漫画家にはなれない。またその狭き関門をくぐりぬけた人たちでも連載を持つまでには至らないし、連載を持ったとしてもほんのひと握りの「天才」以外は連載を続けられずに打ち切られ人知れず消えていくのだ。そして連載を持ったひと握りの天才ですら原稿料は安く、アシスタントを雇えば足が出る始末だ。

こんな想像を絶する競争を勝ち抜いても大した栄誉も金銭もえられずに身も心もズタボロにしてまで戦う価値が漫画にはあるのだろうか?

少年ジャンプは漫画を至上の価値とする大勢の人の幻想に支えられた砂上の楼閣ではないのか。その構造は宗教に近いのではないか。

古代ローマ時代キリスト教徒は迫害され弾圧され、処刑される人も少なくなかった。しかし彼らはそうした苦しみを受け迫害されることに意味を見つける。「私たちは神に選ばれたからこそこのような苦しみにあっているのだ」と。そして棄教すれば命を助けるといわれても、彼らはそれを拒否して喜んで殉教者となった。そして信者たちは殉教者を見てますます「選ばれてあること」の確信を強めて、信者数を増やしていき最終的にはローマ帝国を支配することとなる。

プロの漫画家の方たちはどこか嬉々として漫画家苦労話をされるが、彼らにとっても漫画家の「苦しみ」は「選ばれしもの」の意味合いがあるのだろう。漫画家になった以上苦しむことが当然なのだと。彼らは「漫画」を信仰しているのだ。

漫画が信仰対象なら、彼らが常軌を逸した作業量にくらべて微々たるギャラで我慢しているのも理解できる。

しかしだ。私は漫画を愛好してはいるものの、決して「信仰」しているわけではないので、バクマン。の命を賭してまで漫画に打ち込むことの意味が理解できない。つまり少年ジャンプがブラック企業に見えてしまうのはいかんともしがたい。

それではこのバクマン。は駄作なのかというと違う。

私にとって少年ジャンプは漫画挫折者という屍を大量生産するブラック企業でしかない、このようなものに命を賭してまで身を捧げることはできない。・・・しかしだ。小松菜奈になら命を削り取られるようなことになったとしても、それを甘受する用意がある。

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小松菜奈ちゃんのようなお人が漫画家として成功するのを待っているねというのなら、死ぬ気で頑張る気があるということだ。

つまりこの映画バクマン。を小松菜奈の「アイドル映画」としてみるならば、キッズリターン的な鬱々とした青春映画から一転、希望に溢れた「愛の映画」となるのである。

漫画が読者という不特定多数の支持を受けられなければ、大好きな漫画を描くことさえ強制的にやめさせられるという無理ゲーなのに対し、アイドル映画としてのバクマンは小松菜奈たった一人の支持さえ受けられれば、満願成就するのである。ここにいたって答えは明らかだろう。おのれの人生を賭けるに値するのは少年ジャンプではなく、小松菜奈なのだ。

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映画バクマン。は小松菜奈をひたすらペロペロする映画である。
posted by シンジ at 08:20| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする