2015年05月18日

マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

何か書いてないと脳みそが腐ってくるので、「〜を読んでみた」シリーズをはじめてみる。最初は
マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

戦争における道徳についてウォルツァーは二つにわけられるという。
ひとつは「戦うにあたって国家が有する理由としての道徳」=「戦争への正義」
もうひとつは「国家が用いる手段に関しての道徳」=「戦争における正義」である。

このふたつの戦争道徳は重大な対立を引き起こす。「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」である。

国家が戦う理由の正義はおもに侵略の理論がある。侵略は明白な戦争犯罪であり、それに対抗することは「正しい戦争」である。すなわち「戦争を正当化しうるのは侵略のみである」

だがウォルツァーはそれ以外の正しい戦争=正戦もあるという。そのひとつが「人道的介入」である。人道的介入は大量虐殺に手を染める政府や軍隊に対抗するためになら容認される。

さらに「復仇」という概念もある。「復仇」とはもし我々の村が攻撃されれば、そちらの村も攻撃されるだろうという警告としての戦争のことである。ウォルツァーはこの復仇理論によりイスラエルのパレスチナ攻撃を正当化するのである。

「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」で最も使われるのが「スライディング・スケール」論法である。それは「ある大義が有する正義の度合いが高ければ高いほど戦闘における権利が増加する」という考え方。

つまり正義の戦争であるという大義があれば、戦場においてどんな非道なこともしても許されるという考え方のことだ。この「スライディング・スケール」論法がアメリカで最も使用されるのは第二次大戦での日本への大量の民間人を殺傷する目的の空爆と、いうまでもなく広島長崎への原爆投下の正当化のためである。

スライディング・スケール論法によれば、早く戦争を終わらすことができれば、それだけアメリカ側も日本側も犠牲者の数が少なくてすむ。よって、戦争の早期解決のためになら大量の民間人殺傷を目的とする空爆や原爆投下も容認されうるというのだ。

しかしウォルツァーはスライディング・スケール論法をこう批判する。「もしある戦争によって(民間人を殺してはならないという)制約が破られれば、それは次の戦争において守られはしないだろう。短期的な利益が得られても、それは長期的な均衡の中では意味を持たない」

またウォルツァーは日本に対しては無条件降伏を求めるべきではなかったとし、1945年時点に日本との交渉の席につくべきであったという。そのときアメリカは勝利を手中におさめていたのであり、原爆投下すべき緊急性はみじんもなかったからだ。

戦争の目的を「無条件降伏」に設定すべきではないといったのは、軍事戦略家のリデル・ハートも同じだ。「無条件降伏」を目的に設定することは、より被害者を増大させることのみならず、戦場における残虐性をも呼び起こすのである。

ウォルツァーはこのように日本に対しては軍事的緊急性が低く、「例外的状況」にはなかったので、空爆や原爆投下による民間人殺傷は容認できないとするが、これがナチスになるとちがってくる。

なぜならナチスにおいては自由民主主義共同体の自由と独立が敗北に瀕していた「例外的状況」=「最高度緊急事態」だったからである。ナチスは単なる敗北を超えた災厄をもたらすものであり、このような例外的状況に対したときのみスライディング・スケールという功利計算を用いることができる。そのときウォルツァーが出す事例はチャーチルによるドイツ本土への空爆のことである。民間人殺傷が容認されうるのは「最高度緊急事態」のみであって、ナチスはその例外的状況にあたる。

民間人を殺傷してはならないという「戦争における正義」は自由と独立を破壊する災厄をもたらす敗北に直面したときだけ「戦争への正義」に道を譲るのである。

マイケル・ウォルツァーは自由と民主主義が敗北に陥る「最高度緊急事態」にだけ「功利計算」であるスライディングスケール論法を容認するが、これはリベラル・デモクラシーそのものがカール・シュミットの「友敵理論」を最大限補強することを意味している。

友敵理論とは、本来、政治的対立にすぎなかったものが、道徳的対立にすりかえられること。「友」は味方であり同胞である。それ以外は「敵」とみなされる。それも「敵」は政治的対抗者というよりも道徳的に劣った存在として規定される。それが道徳的対立である以上、敵は「在来的な敵」=対抗者ではなく、「絶対的な敵」=非人間的で怪物的な存在となるのである。

リベラル・デモクラシーと対立するものは「絶対的な敵」=非人間的な怪物として、この世界から抹殺、根絶せしめなければならない。だとするならばリベラル・デモクラシーこそ、戦争に破壊性、残虐性をもたらす最大の要因ではないのか。

「人類の名をかかげ人間性を引き合いに出し、この語を私物化すること。この高尚な名目はなんらかの帰結をともなわずにはかかげえない。敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法、非人間と宣告」(柴田寿子「リベラル・デモクラシーと神権政治」)するリベラル・デモクラシーは友敵理論を拡大化する。リベラル・デモクラシーは異質なものはどのような手段を持ってしても排除しなければ存立できない政体なのだとしたら、近代に入って民主主義や人権が啓蒙されるようになってからのほうが古代や中世より戦争の残虐性が高まった理由も理解できるのである。
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2015年05月08日

北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」か

北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」か

「龍三と七人の子分たち」が大ヒットしているので北野武監督の次回作もワーナーが配給するのは確実。そこで北野監督の龍三公開前のインタビューから、北野映画の次回作を予想してみる。

北野武監督が次回作として構想中とあげている作品は大体3本。時代劇二本に、恋愛映画一本です。そのなかでも最も実現性の高そうな作品が時代劇版「フリークス」です。

「江戸時代に障害者が生まれるとそこに捨てられるっていう部落があって。で、主人公は殿様の子で、双子なんだけど、当時は双子って
「畜生腹だ」っつって嫌がられた。っていうのがあって。殿様の子供が双子で、その一人が捨てられて、捨てられたとこがその障害者の部落で。そこの親分が「ここで生きるためにはしょうがないんだ」つって、その子の片腕を取っちゃう。そいつが実は運動神経がすごくて、丹下左膳みたいに強くて、片手で熊殺したりする奴に成長して。で自分たちを差別する町の代官みたいなひどいのがいて、それで城を攻めちゃうと。そうするとそこに自分とそっくりな奴がいて、それが殿様で、双子の片方で・・・・っていう話。ーCUT5月号北野武インタビュー


時代劇版「フリークス」と書いたのは、トッド・ブラウニング「フリークス」(1932)のことを念頭においています。映画「フリークス」とは見世物小屋の障害者たちの復讐劇を描いた映画で、実際の小人や下半身のない障害者を起用しているので当時物議をかもした問題作です。しかしそれだけでは終わらないのが北野作品です。

「ただ、その映画で見せたいのは、立ち回りもそうだけど、実は・・・死んじゃったけど、振付家のピナ・バウシュっているじゃない?障害者が踊るっていう。ひとりが踊っているのを観ると変な動きなんだけど、全員揃うと異常にかっこいいの。生で観たことあんだけど、もうブレイクダンスみたいになってるわけ。だから松葉杖とかダンスに使えないかって考えたり・・・村祭りのシーンを要所要所に入れて、片足で杖ついてて、杖の音とタップシューズの音でカタカタカタカタって激しくやり合うとか。そうすると映画的にはすごいなと思って」


殿!これやりましょう!これ絶対傑作になりますよ!めちゃくちゃ面白そう!!・・・ただ問題は障害者を描くことが配給のワーナー的にはどうなんだろう?という問題がありますが・・・。でもこんな野心的で面白そうな企画はめったにないんでぜひ実現してほしい。

もうひとつの時代劇企画はズバリ、安土桃山版「アウトレイジ」

豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。/それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。−北野武「やり残したこと」


「汚ねえ!」連中の謀略戦を描かせれば北野武の右に出るものはいません。安土桃山版「アウトレイジ」間違いなく傑作になると思いますが、問題になるのは「予算」でしょう。なにしろ信長が本能寺で暗殺されるシーンや、高松城水攻め、中国大返しまで描くとなると、莫大な製作費がかかること必定です。正直そこまで北野作品に大予算をかけるガッツが今のワーナー日本支社にあるとは思えないのです。

そこでもう一つの企画、北野武念願の企画だという「純愛映画」が浮かび上がってきます。

「それとか純愛ものを撮りたい。純愛ものなんだけど、実は主人公を取り囲む人間関係がすごい笑っちゃうとか、お笑いがいっぱい入ってくるんだけど」−CUT5月号


・・・私も長年北野ファンを続けてきましたが、これに関しては「嫌な予感しかしない」といわせていただきます。殿の恋愛観って「いつまでもお弁当作ってあなたをお待ちしてます・・・」的なあれでしょ。この恋愛観って完全に明治大正時代の恋愛観なんですよ!(苦笑)。

これは本人も認めるところですが、北野武にとって女性は二種類しかいません。「おかーちゃんとおねーちゃん」の二種類です。これは「性の二重基準」といわれるもので、女性を性的な主体とは認めないミソジニー男性がよくやることです。女性を性的主体と認めないにもかかわらず、そんな女性の母から生まれてきた自分という矛盾を解消するために、男性は女性をおかーちゃん=聖女と、おねーちゃん=娼婦に二分するのです。だから北野武が「純愛」映画を撮るというときは女性をありえないくらい美化し理想化=聖女化してしまうのが目に見えてしまう。率直に言わせてもらえば、女性を美化し理想化するような人は「恋愛映画」は撮らないほうがいいです。

というわけで、北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作の有力候補は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」で決まりではないでしょうか。超楽しみ!!みんな、北野武新作が見られるまで生きていような!
posted by シンジ at 18:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月04日

北野武の危険な本質「龍三と七人の子分たち」または北野武論

北野武の危険な本質「龍三と七人の子分たち」または北野武論

笑った笑った。犯罪ポイントで親分を決める映画史上最も民主的なヤクザ映画(笑)であり、女装の藤竜也や殴りこみ場面での中尾彬のことを思い出すと今でもニヤニヤ笑いが止まりません。劇場の雰囲気も最高で、いい年したおっさんおばさんたちが遠慮なしに大口開けながら笑いあう光景はすかしたシネコンがここだけ昭和の劇場になったかのように錯覚するほど。トラック野郎の公開時も劇場はこんな感じだったのでは?なんかここだけ東映の小便臭い小屋のように感じられて・・・

ニヤニヤしたり、思わず噴出したり、大口開けてガハハと笑って爽快に映画は終幕するのですが、キレのいいラストカットが終わり、鈴木慶一の音楽が流れ始めると、どこかもの悲しいようなさびしいような寂寥感に包まれるのは私だけではないはず。この寂寥感の背後にあるものの正体は「死」でしょう。

龍三の最後のセリフ「刑務所から出る頃にはもう死んでるよ!」を見るまでもなく、モキチ(中尾彬)の仇をとるためにジジィたち一龍会の面々は、ある者はお世話になった人に連絡し、ある者はメソメソ泣いたりしながらそれぞれ今生の別れをすまし「死を覚悟」するのである。

「死を覚悟する」=「死を意識する」ことが人に何をもたらすのか。それは普通、覚醒とか目覚めとか、気づきといったことを人にもたらすはずです。スティーヴ・ジョブズはこういっている。

自分がそう遠くないうちに死ぬと意識しておくことは、私がこれまで重大な選択をする際の最も重要なツールでした。ほとんどのものごと、外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういったもののすべては死に臨んでは消えてなくなり、真に重要なことだけが残るからです。−スティーブ・ジョブズ、スタンフォード大学での卒業式スピーチ


つまり死を間近に意識すると、人はわが身を振り返り、より生の貴重さを実感し、正しく道を選択することができる、というわけです。

だがしかし龍三たちは死を間近に意識した後何をするかというと、狂うのです。ただ狂い暴れるのです。京浜連合の半グレどもは龍三たちと幾度か遭遇すると「狂ってる・・・」と吐き捨て逃げていきます。龍三たちにとって死は人生の意味や意義をみずからに問いかけるような機会とはならず、ただ「狂う」きっかけにすぎないのです。

いったいこの違いはどこからくるのか・・・これはいうまでもなく北野武の本質からくる違いです。北野武は映画「HANA-BI」(1998)公開時のインタビューでふと背筋が寒くなるようなことを漏らします。それは「もらす」というにふさわしい北野武の本質があらわになった瞬間でした。

「変な言い方をすれば、死を意識してやるんだったら、何をやってもいいと思ってるわけ。悪は法律的には悪に違いないけれど、自決の覚悟が出来ている悪は許してもいい」−BRUTUS 1997年10月号


私はこれほどギリギリで危険な発言をした北野武を以後知りません。なぜならこの後2001年9月11日以降イスラム過激派によるテロが全世界的に拡大していったために、北野武のこの発言はテロを擁護するものと受け取られかねず、これ以後北野武はこの考え自体を封印してしまったからです。

9.11以降秘匿され、隠蔽された北野武の発言。二度と口にされることなく封印された言葉・・・それこそが北野武の本質とはいえないでしょうか。

北野武の「公式見解」ー「振り子理論」なるものは彼の本質でも哲学でもなんでもない。たんなる処世術にすぎません。アウトレイジのようなバイオレンスものが続いたから次はコメディを撮る。成功作が続いたから次はめちゃくちゃな失敗作をわざと撮る。北野武とビートたけしの間を行ったりきたりする・・・これはたんなる自己防衛作、処世術でしかない。

北野武が9.11以降決して口にすることのなくなった

「死を意識してやるんだったら、何をやってもいい」

これこそが北野武の本音であり、本質であり、彼の根幹を支える哲学に他ならない。

死を覚悟した人間はただ狂い狂うことが許される。人の命を奪うことさえ許される。いったいこの野放図な考え方は何なのでしょうか。ここにもうひとつの北野武の思想=本質があらわになります。

かって石原良純は北野武と番組で共演したときに宇宙の話になり、こういう北野武の話を聴かされたそうです。

「この宇宙は人間が生み出したものなんだよ。人間が死ねばこの宇宙も世界も消えてなくなるんだ」


これは「独我論」というものです。「私」が存在するがゆえにこの「宇宙」は存在する。「私」が死ねばこの「宇宙」は消滅する。客観的に存在するものなど何もないという考えです。まるでおとぎ話か世迷いごとのように聞こえるかもしれません。しかしこういう考えもあるのです。

われわれの惑星で生命が誕生するのはどれくらいの偶然が重なったかというと、大竜巻がくず鉄置き場を襲った結果、ボーイング747ができあがったのと同じくらい偶然だという。−ミチオ・カク「パラレルワールド」


この宇宙、この世界はあまりにも人間に都合のよいように出来すぎているというのです。人間が存在するからこの宇宙が存在する、これを宇宙論における「人間原理」といいます。しかしこうした独我論の行き着く先はこれもまた危険なものにならざるをえません。この世界は自分が存在するから存在するのだとしたら、自分が存在しなければ何の意味も価値もないということになる。究極的には

「この世界にはなんの意味も価値もない」


という「相対主義」におちいるのです。

そしてディープな北野武ファンや北野ウォッチャーなら薄々気づいていると思いますが、北野武は「相対主義者」です。

「振り子理論」のような「公式見解」の北野武ではなく、本人が秘匿し、隠蔽してきたイデオロギー

「この世には何の意味も価値もない」
のであるならば
「死を意識してやるんだったら、何をやってもいい」

という北野武が秘匿してきた本質があらわになるのです。

「龍三と七人の子分たち」のような大衆娯楽作品にさえ自分自身のどす黒い刻印が色濃くこびりついてしまうというのは、北野武はつくづく「呪われた人」だなぁというほかありません。それも「映画」が北野武を「呪う」のではなく、「北野武」が映画を「呪う」のです。フェリーニも溝口健二もブレッソンも「映画」に「呪い」をかけられた映画作家たちです。しかし北野武だけが「映画」に「呪い」をかけることができるのです。
posted by シンジ at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする