2019年07月31日

新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく

新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく

主人公の帆高の選択に対する批判としてこれを社会性のないものであるとか、浅薄な功利主義(最大多数の最大幸福)批判であるとか、公共的なものへの反発からくる徹底した利己主義、リバタリアニズム(自由至上主義=個人の自由と権利を絶対視する思想)であるとかいう批判が一部にある。

一方で帆高の選択に対する賞賛として非常にラディカルでアナーキーなものであると賞賛する人たち(おもに革新幻想にとらわれた中年男性)がいる。むしろ批判よりもこっちのほうが多いかもしれない。

だがこの批判するもの、賞賛するもの両者ともに映画に描かれているものと向き合わず、新海誠の意図するものを無視し、頭の中にある「公式」に映画を当てはめているにすぎない。

この批判と賞賛の両者が見逃しているものとは新海誠その人であるといってもいい。

はたして新海誠は徹底した利己主義、自由至上主義の観点から帆高の決断を描いたのであろうか。もしくはこの世界など滅びてもかまわない、愛さえあればそれでいいというようなアナーキズムからこの決断を描いたのだろうか。

どちらも共に間違っている。

私のようなすれっからしからしてみれば信じられないことなのだが、新海誠は本心から「世界が良くなってほしい」と願い「世界が少しでも良くなるよう」に思いをこめて映画を作るお人なのだ。

「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」ーLINELIVEの『君の名は。』特番での新海誠。


私は新海誠のこの発言が嘘偽りない彼の本心、映画作りの根底にある考えだと確信している。ここ何年かの新海誠のインタビューや対談のネット記事、雑誌記事のほとんどに目を通してきた結論がこれだ。(これでもし彼の発言が全部嘘で演技しているだけというなら脱帽する)

新海誠は我々が思っている以上に「ガチ」の人なのだ。心の底からこの世界が良くなればいいと願いながら映画作りをする新海が、リバタリアニズムにもとづいて、もしくはアナーキズムにもとづいてこうした選択を描いているのだと見えたのなら、その目は節穴である。

新海誠は議論の余地なく完全に帆高の選択こそが「世界を良くする」ものだと確信して描いているのである。

新海は徹頭徹尾、登場人物に寄り添い、どうすればこの子達が幸せとなるのか、どうすればこの世界がより良いものとなるのかを真摯に考え抜いた結果、この選択、この決断を描いたのだ。

帆高がくだした決断は、まず「目の前にいる苦しんでいる子を助けよ」という衝動に従うことだった。

目の前にいる苦しみ助けを求める人に手を差し伸べることこそが全世界を救うことと同義であるということ。

ここで毒々ルサンチマンもちの邪悪な私が囁く。「いや、もちろん目の前に困っている人がいたら助けるけども・・・それと世界を救うことには深い断絶があるよね?私たちは家族や友人、目の前にいる人は助けようと思っても、少しでも離れた地域や別の国にいる人たちの不幸に関してはほとんど無関心じゃないか」

人間の同情心や想像力というのは自分の身近なものにしか働かないように見える。そうした狭い範囲でしか通用しない衝動に身をまかせることは根本的にあやまちではないのか。

しかしこの目の前にいる苦しんでいる人を助けるという衝動こそ孟子のいう

「人皆人に忍びざる心有り」


に他ならない。これを「道徳を基礎づける」のフランソワ・ジュリアンはこう訳す。

「誰にとっても他人が不幸に沈んでいる時に無関心でいられず、反応を引き起こすものがある」


これを「仁」という。

なるほどこの「仁」はいまだ不完全であるかもしれない。目の前の人を助けても、地球の裏側で苦しんでいる人々を助けることもできないちっぽけな感傷かもしれない。

だがしかし目の前にいる苦しんでいる人を助けたいと思うこの小さな衝動こそが人のモラルの源泉であり根底にあるものなのだ。この未熟で小さな思いこそが地球上のすべての人々が倫理的にふるまう最初の一歩なのだ。

新海誠は苦しんでいる人が目の前にいたなら、それに無条件で手を差しのべる衝動こそが世界をより良くする第一歩だと本気で信じているからこそ「天気の子」を作った。

帆高の決断は愛を選ぶか、世界を選ぶかというような陳腐なトロッコ問題ではない。男女間の愛の問題ですらない。

焦点は「仁」なのである。
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2019年06月14日

映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ

映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ

映画「海獣の子供」すさまじいアニメ表現と色っぽい人物、特に少年青年老人の男勢がみんな色っぽい。アニメのキャラクターでここまで色っぽく描写できるのは驚異としかいいようがない。色っぽいというのは性的も含むけど、実在感、肉体感、身体性がすぐれているということ。アニメ演出、作画両面ですさまじく高水準な仕事をされていることがわかる。

多くの人が意味がわからないという思想的な面も「ひとつは全にして全はひとつなり」「自と他の区別なく、生と死の境もない」というような仏教思想を多少齧ったことがあるならなんとなく理解はできるだろう。

主人公ルカの家の前を虫が羽虫の死体を引きずっていく場面や、エンドクレジット後の場面ー母親が赤ちゃんのへその緒をルカに切ってくれと頼むとルカはへその緒を切りながら「命を断つ音がした」という場面はまさに「生と死はつながっているし境もない」ということをあらわした場面だ。

しかしこの映画の背景にあるのは実は仏教ではない。この映画の海や鯨に対するこだわりからみてこれはあきらかに「ニューエイジ」だろう。

「ニューエイジ」とは、1970年代にムーブメントを起こしたースピリチュアリズム、オカルティズム、神秘主義、LSDカルチャー、チャネリング、手かざしなどの代替医療、環境保護などが混合された思想、擬似宗教。

その根本思想とは「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインドが融合」(スピリチュアルコネクトより引用)したものだ。

「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインド」まさにこれこそが映画「海獣の子供」のすべてでありニューエイジそのものだ。おそらく原作者はニューエイジにどっぷりつかった人なのは間違いない。

多くの人がわからないという「海獣の子供」のクライマックスの観念的な映像を映画「2001年宇宙の旅」のラストの映像とくらべるむきも多いと思う。その考えは間違っていない。

こんなことを聞いたことがあるー「2001年宇宙の旅」は「しらふ」で見る映画ではないのだと。「2001年宇宙の旅」はドラッグをやりながら見るとあの最後の映像でトリップできる。トリップすることによって映画の真の価値があらわになるというのだ。

ようするにLSDカルチャー、ニューエイジカルチャーとしての「覚醒」=トリップ感覚を味わうために「2001年宇宙の旅」や「海獣の子供」のあのトリップ映像があるのだ。そしてそうしたトリップ感覚はお手軽な「悟り」として世界中に輸出され、オウム真理教のようなカルトを世界中に生んだ。

映画「海獣の子供」は極限にまで達したアニメ表現の素晴らしさと「え?今頃ニューエイジ!?」という不可解さの混合だ。

posted by シンジ at 15:57| Comment(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月26日

北野武の新作映画「首」は織豊時代のアウトレイジである

北野武の新作映画「首」は織豊時代のアウトレイジである

北野武監督の「アウトレイジ最終章」後の新作映画が決まったようだ。文藝春秋2019年1月号でのビートたけしと伊集院静との対談で明かしている。

たけし−いま、ずっと映画にしたいと構想している。本能寺の変を題材にした「首」って歴史物を、小説とシナリオで同時に進めてるんです。片っ端から史料を読んでノートを取るでしょ。そうすると、こんなに積み上がっちゃって。どうしていいか書きあぐねている感じですよ。

伊集院−ちょっとしたきっかけがあればそこから飛躍するのはあっという間ですよ。私も取材をするけれども、実際の小説は資料や聞いた話とは別に育っていくから。

たけし−今年は小説を六本書いちゃったんで、来年はしっかり「首」に集中しようかと思ってるんです。

伊集院−映画「首」は、いつ頃撮るご予定ですか?

たけし−「いだてん」(NHK大河ドラマ)が終わってからでしょうね。大河で俺は古今亭志ん生さんを演るんですけど、セリフは少ないんです。だいたい月二回の撮影で来年の九月までかかるのかな。(文藝春秋2019年1月号)


2019年9月以降撮影開始と予想される「首」とはずばり「織豊時代のアウトレイジ」である。この企画はもう十年以上前から北野武の口にのぼっては消える幻の企画だった。

北野武はつねにいくつかの映画企画を準備している人なのだが、「首」も企画はされるもののオフィス北野の森昌行元社長に却下される映画のひとつだった。

却下された映画企画の中には、たとえば障害者にピナ・バウシュ風のダンスを躍らせる時代劇だったり、のちに小説「アナログ」として結実した恋愛ものもあった。映画「首」も森昌行に却下されて日の目を見ないはずの映画だったのだ。

しかし事態は急転した。北野映画の企画をさまざまな理由で却下しつづけて、本人が撮りたくもないヤクザ映画の続編を二本も無理やり撮らせた元凶はもう存在しない。

北野武が本当に撮りたかった企画「首」がついに始動したのだ。ただ森昌行が「首」を却下した理由もわかる。映画「首」の内容を北野武監督自身の証言から追ってみよう。

豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。

でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。

その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。

それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。

それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。−北野武「やり残したこと」

まさに本人が話す内容から見ても「織豊時代のアウトレイジ」と呼ぶにふさわしい内容だ。だが織豊時代を描く、さらには高松城の水攻めや中国大返しを描くとなると莫大な予算がかかってしまう。森昌行が映画化に二の足を踏んだのも理解できる。

しかしどうやらこの「首」にGOサインが出たということはお金を出してくれるところが見つかったようだ。シナリオと同時に小説も書くということはその小説の出版社がお金を出してくれるのではないか。

そしてその出版社とは北野武の小説「ゴンちゃん、またね。」や「フランス座」を出版した文藝春秋社ではないだろうか。

同じ出版社である新潮社が映画「関ヶ原」に出資してそれなりの手ごたえを得た(興行収入24億円)ことも文藝春秋社には念頭にあったのではないか。そしてここで満を持して日本を代表する出版社が世界的巨匠の映画に出資するのだ。楽しみでならない。

北野武新作映画「首」見るまでは生きていようという気にもなるものだ。
posted by シンジ at 19:34| Comment(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする