「映画的」とか「映画的ショット」を400字詰め原稿用紙で論理的かつ明瞭に書いてみろといわれた場合、はたして書けるものだろうか・・・しばらく考えてみるが・・・・・か、書けない。
たとえば「映画的ショット」なるものを説明する時に「ジョン・フォードのカメラポジションの的確さ」とか、「イーストウッドのフレーミングの見事さ」とかいったりするわけだが、それでは何も説明していないに等しい。もっと大勢の人と分かち合える論理的な説明はできないものだろうか・・・・・これができないのである。
もちろん映画の撮影現場に従事している人たちは、このショットは、このフレーミングは、このポジションは最高だねとかいうことはわかりあえるのかもしれない。
しかし映画批評の場合、「映画的」とか「映画的ショット」とかいう物言いははっきりいって、「キチガイの言語」にしかすぎない。すなわちウィトゲンシュタインのいう「私的言語」にしかすぎないのだ。
私的言語というのはウィトゲンシュタインの造語ですが、簡単にいうとこういうことです。
・・・ここに一人の精神病患者(パラノイア)がいます。彼は普段からこう主張しています。「私の頭の中にはCIAが住んでいて、いつもCIAから指令を受けて活動しています!」彼にとっては日常的にCIAから監視され、指令を受けるのがまったくの現実なのです。しかし、彼の周囲の人たちにとって彼の発言はまったく意味のない妄想にしかすぎません。彼一人にとってはまごう事無き現実であっても、共通理解が得られなければ、それは「キチガイの言語」=私的言語にすぎないのです。
「映画的」とか「映画的ショット」という言語も同じことです。俺様シネフィル一人がわかっているだけで、共通理解がなければ、私的言語=精神病患者の言語と同じなのだ。
そこでだ。もういいかげんに「映画」を「映画的」やら「映画的ショット」というくびきから解放しても良いのではないか。
「テルマエ・ロマエ」に戻ろう。ここには「映画的」なものや「映画的ショット」は微塵もない。だが、そんなわけのわからない私的言語よりもっとわかりやすい、共通理解を得られる素晴らしいものがあるではないか。
それが、それこそが阿部ちゃんの「裸」である。

は・だ・か

HA・DA・KAである。
これほど古今東西、老若男女が胸躍らされる共通理解があるだろうか!
映画を褒めるのに映画的とか、映画的ショットとかいうシネフィルは死んでしまえ。これからは映画を褒めるのに、キチガイの言語=私的言語は必要ない。
「テルマエ・ロマエ見た?阿部ちゃんの裸よくね?」
「いや〜阿部ちゃんの裸最高だったね」
「あの裸だけでご飯何杯でもいけるわ」
これが正しい映画ファンの会話だ!
(多少お酒が入ってます)






