2025年07月01日

ジークアクスーニャアンは人を殺してるんだから幸福になってはいけないというお話について

ニャアンは人を殺してるんだから幸福になってはいけないというお話について


さてまだまだジークアクスについてお話していきましょうか。


ニャアンはストーリー上たくさん人を殺しているので幸福になってはいけない論というものがあるそうな。


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気持ちはわかりますよ。映画とかドラマとか小説とかアニメで極悪非道のやつが逃げおおせたり、なんの罰も受けない描写があるとモヤッとすることは誰にでもある。


それは人の持つ宗教観や倫理観のあらわれで、勧善懲悪や因果応報という概念を創作物に適応してもらいたいという自然な心の動きだ。


ただ私は物語上の倫理観と外部規範(道徳だったり昨今だとポリコレだったり)は明確に区別したほうがよいと考えます。


ポリティカルコレクトネスとは「歓迎されない信念や考えを言説や表現から排除しようとする試み」という外部規範であり、それに対し作品内の倫理度=エシックラインは登場人物の好感度操作の手法である。


たとえば私の大好きな映画「仁義なき戦い代理戦争」の主人公広能(菅原文太)は山守組長に対抗するために神戸から大組織である明石組(実際のモデルは山口組)を広島内に引き入れる。単なる地方都市の争いに関係のない大組織を招き大混乱を引き起こすのだ。


これを外部規範的に見れば広能は極悪非道のヤクザだろう。全く関係のない組織をおのれの利益のために地元の呉に手引きして引き入れるからだ。ヤクザとして人としても最悪の行動といってもいいだろう。


しかし広能は主人公である以上、悪としては描かれず他のヤクザたちよりもエシックライン(倫理度)が高く設定されるという奇妙なことが起こっている。エシックラインが高くないと主人公として成立しないのだ。作品内倫理が主人公の好感度操作に利用されている例だ。


このように映画の正しさ(作品内倫理)とは外部規範とは関係なく、物語の都合上設定されるものなのだ。


最悪な登場人物がストーリー上罰を受けるとスカッとするのも事実ではある。邪悪な人間が物語上まんまと逃げおおせるとモヤッとすることもある。ただ現実の外部規範を創作物に強要すると途端に創作の面白さや自由がなくなってしまう。勧善懲悪、因果応報概念は紋切り型表現の典型ともなってしまうのだ。


ニャアンについていえば、マチュという猪突猛進型主人公と対比的に作られたであろうキャラなのは明白だと思う。シャアやシャリア・ブルが理念型ならニャアンは動物的な自己保存本能のみ。倫理観もあいまいで善にも悪にもどっちに転んでもおかしくない「あわい」(間)の存在。能動的なマチュと動物的なあいまいさのニャアンという対比ありきのキャラクターだ。もちろん2クールあればもっと二人の対比描写が増えわかりやすくはなったと思うが、物語上に隙間があればあるほどオタクは考察をはかどらせるものなので、私もこんな文章を書いているというわけ。


(あと単純にシャアもシャリア・ブルもエグザベくんもみんな職業軍人でたくさん人を殺してるのにそっちはいいの?と思う。アメリカの小説では主人公が人を殺すけどハッピーエンドで終わるものが結構あるのも戦争や軍人が日常にあるからなのかも。)
posted by シンジ at 12:57| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月28日

シャリア・ブルという男。マチュの希望。ジークアクスのニュータイプ論

シャリア・ブルという男。マチュの希望。ジークアクスのニュータイプ論

機動戦士Gundamジークアクスはシャリア・ブルを追っているだけで面白かったし、驚きに満ちているだけではなく、ガンダムシリーズがずっと描いてきた「ニュータイプ」とは何かを端的に表しているので目が離せなかった。

シャリアは最初はシャア・アズナブルという男に身も心も灼かれた男として描かれたように視聴者には見えていた。木星から帰ってきて空っぽになった虚無の男が野心に満ちた才能とカリスマだけでできているかのような男に魅了され、ただ戦争に利用されるだけのニュータイプの未来を変えてくれるかもしれない存在に見えたのは確かだろう。

そしてシャリア・ブルの目的である「ニュータイプが戦争の道具としてではなくニュータイプがニュータイプとして生きられる世界」をシャアになら託すことができるかもしれないと「その時」は思ったのかもしれない。

シャリアがどこで心変わりしていたのかはわからない。もしかしてビギニング部分(第2話)のどさくさにまぎれてシャアがグラナダにソロモンを落とそうとしたことをアルテイシアから聞かされたのかも。

しかし我々視聴者はずっとシャリアはキシリア、ギレンを暗殺してシャアをジオン公国の新しい総帥として擁立するとばかり思っていたのを最終回12話で実はアルテイシアを新しく擁立し邪魔なシャアを排そうとしていたと知り驚愕するのだ。

誰かがtwitterで書いていたがまるでミステリの叙述トリックを読んで騙されたかのような展開はジークアクスのストーリー上でも白眉といえる驚きの展開だった。

このシャリアの心変わりは視聴者に隠されているように見えて、実はシャリアのニュータイプ観が物語上で変わっていってることをジークアクスはちゃんと描いている。

シャリアが影響を受けたシャアのニュータイプ観を「大きい思想」と名付けよう。つまりニュータイプや人類すべてを統率するような大きい思想。理念。理想。人々を「高次元」に導く大きい思想。そしてその大きい思想のためなら他者を抑圧したり、強制できたりもする。それがシャアのニュータイプ観だ。

シャリアも最初はシャアの大きい思想=ニュータイプ観に魅せられていたのだろう。そうした大きい思想でしかニュータイプがニュータイプとして生きられる世界はやってこないと。だが必然的に大きい思想は他者を抑圧し強制をともなうとシャリアは理解していく。

シャアのふるまいは大きい思想が他者を抑圧し強制するものでしかないと理解されるに十分なものだった。グラナダでの人命を一顧だにしないふるまい、イオマグヌッソ開発。この男の掲げる大きい思想=ニュータイプ観は邪悪であると。

12話でシャアはシャリア・ブルに向かってこう言う。
「(シャロンの薔薇の彼女を排除する)人類をより良き時代に導くのはそれからのことだ」と。

シャアを愛しシャアのために運命を変えようとするララァを排除してからより良き時代に導く。まさにこれこそ大きい思想のためになら他者を抑圧し強制してもよいとするシャアのニュータイプ観に他ならない。

「他の人々を「より高い」レベルの自由にまで高めるために、ある人々によって加えられる強制を正当化する」(アイザイア・バーリン「自由論」)・・・それがシャアのそしてかってはシャリアのニュータイプ観だった。

それに対してシャリア・ブルはゾッとするほどの冷ややかさで応じる「・・・でしょうね」

シャリアは「独裁の下では人の革新など起こるはずもない」とシャアの大きい思想を全否定するに至るのだ。(ここでシャアとシャリアのBL的妄想に浸ってきた人は冷水を浴びせられたような気分になるのでは?)

シャリアとシャアが戦っているときのソドンのラシット艦長の言葉がシャアのニュータイプ観の限界を表していて面白い。
「ふん・・・結局争う事をやめられない。多少人よりモノが見えたところで撃たれりゃ死んじまうのに」

大きい思想のためにニュータイプを人殺しの道具として使うシャア。より「高い次元」に行くためなら人々を抑圧したり強制しても構わないというニュータイプ観。

そうしたニュータイプ観を打ち砕くのがマチュなのだ。

シュウジはララァを守るために彼女を殺さなきゃいけないという。マチュは言う。

「誰かに守られなきゃ生き残れないなんてそんなの本物のニュータイプじゃない」

ー温情的干渉主義(パターナリズム)は想像しうる限り最大の専制である(カント)なぜならそれは人間を自由なものとしてではなく自分にとっての材料であるかのごとく取り扱う。温情に満ちた改革者は自分自身の自由意志で採用した目的に従って、その人々を型にはめようとするのである。ーバーリン「自由論」・・・まさにシュウジの陥った心理だろう。

ララァは誰かに守ってもらおうなどとは微塵も思っていない。彼女は自分の願いのために自分の自由を、わがままをとおしているだけだ。

マチュもまた「私たちは毎日進化している。明日の私はもっと強くなる!」
強くなってやる。なんのために?誰かの大きい思想に導かれたり、誰かに守ってもらうためではなく自分の意志で道を切り開くために!

「自由のために傷つくものこそが本物のニュータイプなのだから」シャリア・ブル

大きい思想では運命を変えることはできない。運命を変えるには必然の網の目をぶち破ることができる唯一のもの「自由」こそが必要なのだ。

マチュの自由を求める強い心が大きい思想と運命を打ち破ることのできる新しいニュータイプ観なのだということを示したのが機動戦士Gundam GQuuuuuuX ジークアクスだ。

マチュがゼロキルカウントなのはみなさんご承知の通り。ガンダムシリーズはニュータイプ同士理解しあうことができるのに殺しあわなきゃいけないというジレンマを描いてきたが、ジークアクスでは理解しあえば殺しあう必要はないというところまで進んだのだ。理解しあっても殺しあわなきゃいけないのは「大きい思想」に従わされているからにすぎない。

マチュによって表現されるニュータイプ観は他者を抑圧し強制しようとする大きい思想を拒否し、運命=決定論を打ち破るものだ。そしてそれこそが真に自由と呼ばれるものなのである。

シャリア・ブルはマチュと共鳴しシャアのニュータイプ観から完全に脱することができたのだ。


あとがき。ジークアクスを2025年1月の公開から最終回6月の半年間楽しめたのは本当に幸せでした。なんか2016年7月にシンゴジラを見た時以来の熱狂の日々でした。もうこんなことはしばらくないだろうなと思えるほどの楽しさ。鶴巻和哉監督、脚本の榎戸洋司さん。スタジオカラー、サンライズのスタッフのみなさん(某弊社社長も)本当にありがとうございました。
posted by シンジ at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月17日

米アカデミー賞のアジア人透明化現象を擁護する人たちの考察

米アカデミー賞でのアジア人透明化現象について、なぜアメリカ在住の日本人たちはこれは差別ではないと白人俳優を擁護するのか?この現象をジョージ・オーウェルから読み解きたい。

オスカーでの人種差別を米メディアが書かない訳
「失礼だったが、人種差別とは限らない」
https://toyokeizai.net/articles/-/740839

冷泉彰彦
「こうした事件を取り上げて、ハリウッドやアメリカで社会的なアジア系差別があるとか、自分も被害者だとして憤ったり、アメリカへの不快感、距離感を表明したりするのは、やや過剰な反応と思います」
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2024/03/post-1346.php

ビルマで警官をしていた作家のジョージ・オーウェルは白人よりも白人に仕える現地の人々のほうが同胞であるビルマ人に対し苛烈なあつかいをすることを見てきた。彼らは支配階級(白人)の文化を受容し自分たちを白人に擬すれば擬するほど自分の出自に引け目を感じることになる。

そしてその引け目があるからこそますます支配的価値への同化と忠誠を強めていく(ジョージ・オーウェル評論集1解説)私はこれでいわゆる欧米出羽守のほとんどすべての説明はできると思っている。

これらの人々をロドニー・スタークは「人がふたつの集団に属しているとき、そのことで矛盾を抱えたり、どちらの集団においても低い地位に押しやられる圧力を受けたりすることを周縁化という。人々は周縁化された位置からの逃避あるいは解消を試みるだろう」

周縁化された位置からの逃避あるいは解消の試みこそが「支配的価値観」への同化と忠誠に。そしてそうした価値観に染まらない「劣った」ものに対する苛烈な扱いにつながるのだろう。

人種差別的扱いを受けたとき、どうすればよいのかもジョージ・オーウェルは教えてくれる。

「人種差別が実際に起こったら、いつでもできるだけ仰々しく騒ぎ立てることが極めて重要である。なぜならこれは騒ぎ立てることが何かを成し遂げうるような事柄のひとつだからだ。」−ジョージ・オーウェル「有色人種立ち入り禁止」
posted by シンジ at 12:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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