2016年09月10日

運命を打ち破れ!君の名は。とシン・ゴジラ。新海誠と庵野秀明論

運命を打ち破れ!君の名は。とシン・ゴジラ。新海誠と庵野秀明論

「失われたもの」


この夏公開された二本の大ヒット作、新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は奇妙な符合を見せている。

「失われたものを取り戻す」。それが偶然にも両者に共通するテーマとなっているのだ。

シン・ゴジラと君の名は。は両作品とも3.11=東日本大震災の悲惨な出来事が背景として存在している。そして両作品とも3.11で「失われたもの」を取り戻すというファンタジーであるということも共通している。

シン・ゴジラは3.11でうまく立ち回れず、被害を大きくしてしまったかもしれない当時の政府がもしうまく立ち回れていたら、という「願望」めいた「幻想」を描いていた。

君の名は。は3.11で失われてしまった生命と土地を再びこの世に取り戻すというファンタジーだ。

「失われたものを取り戻す」という幻想は、もはや変えることのできない「運命」への絶望的な挑戦でもあるがゆえに、映画のような創作にだけに許された特権的なもののようみえる。

「運命を打ち破れ」


「運命」とはいかなるものか。運命とは過去から未来にわたって、決して変えられない世界のことをいう。「運命」とは「決定論的世界観」の別の名前です。

決定論的世界観とはこの世界は人間の手が下される前に、過去も未来もどうなるかすでに決まっていて絶対に動かせない。そういう世界観のことだ。

こうした決定論的世界観=「運命絶対主義」ともいうべきテーマをもった映画が、シン・ゴジラの監督でもある庵野秀明の前作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」だ。

エヴァQに関してはすでにここで書いている。

エヴァンゲリヲンQと自由意志問題

エヴァQでしつこいくらい描かれたのは「人は運命の前では無力」。人の意志や行動や善意や正義では決して運命は変えられない、そのことだけだった。人間の自由意志が「運命」に戦いを挑み無惨に散っていく姿を描いたのがエヴァQだった。

しかし庵野秀明はシン・ゴジラでは一転、3.11のメタファーであるゴジラというあらがえない「運命」に対し果敢に挑戦する人間たちを描き、そして彼らはゴジラに見事に勝利する。人間の意志や行動、決断が決してあらがえない「運命」の象徴であるゴジラ=「災害」に打ち勝つのだ。

そしてさらに、そこから歩を進めた「君の名は。」では、「自然災害」や「失われた生命」という絶対に覆すことのできない「運命」=「歴史」をも人の「意志」で変えてしまうというアクロバットを見せるのだ。

とくに「君の名は。」の歴史改変というアクロバットは「運命」に立ち向かうというより、絵空事でしかないという人もいるだろう。しかしそうした考えも「運命絶対主義」という考えに毒されたものでしかないとしたらどうだろう。

「運命」は決して変えられないという思考は、実はたったひとつの思考に縛られているに過ぎない。すなわち「世界はひとつしかない」という思考である。

世界がひとつしかないのであるならば、「運命」に打ち勝つことは不可能だろう。もはや絶対に変えられない「過去」によって「未来」は規定されるからだ。

「多世界論=並行世界論」


しかしここにひとつの考え方がある。「多世界論」である。人がさまざまなことを「決断」するたびに「世界」は分裂していく。「並行世界」が生まれていくという考え方だ。これはなにも突飛なSFを語っているのではない。多世界論とは「量子力学」のことだ。

多世界論ならシュレーディンガーの猫のパラドックスだけではなく、タイムマシンのパラドックスまで一気に解決できる。タイムトラベルのパラドックスで有名なのは祖父殺しのパラドックスだろう。タイムマシンに乗って過去にタイムトラベルし、子供時代の自分の祖父を殺したとしよう。・・・でははたして祖父を殺したわたしはいったい誰から生まれたのだろうか?これが祖父殺しのタイムパラドックス。

しかしこれも多世界論ならパラドックスにはならない。過去にタイムトラベルした時点で自分の元いた世界とはちがう並行世界に来た事になるからだ。自分の殺した祖父は自分の元いた世界の祖父ではなく、並行した別の世界の祖父であり、だから祖父を殺しても自分の存在にパラドックスは起きない。こうして多世界論は量子力学とタイムトラベルのパラドックスを一気に解決することができる。ーライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論

多世界論ならば、「君の名は。」の歴史改変は絵空事ではなく、実現可能なことになる。世界がひとつでない以上「運命」は変えられるのである。

そしてまた「シン・ゴジラ」もゴジラがこれまで存在しなかった「並行世界」を描いている。それまでのゴジラシリーズは初代ゴジラすなわち1954年本多猪四郎と円谷英二の作り出した「ゴジラ」という前提があったうえでその後のゴジラ世界を描いている。しかしシン・ゴジラは1954年版ゴジラが存在せずに、今この時代に始めてやって来た「巨大不明生物」としてあつかっている。

そしてその巨大不明生物は3.11と重ねあわされ、3.11をうまく処理できた日本政府と社会という並行世界となっているのだ。

君の名は。もシン・ゴジラもそうであったかもしれない多世界=並行世界を描いているのだ。

「時代が要請する公共性」


新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」はまったくの偶然ながら、同じようなテーマをあつかっていた。しかしこれは偶然というより「時代の要請」というものではないだろうか。3.11という出来事を前にした庵野と新海は同じ時代の空気を浴びたがゆえに、まったく違う種類の映画で同じようなテーマ描くことになってしまった。

新海誠は「新海誠その作品と人」(EYESCREAM 2016年10月増刊号)のインタビューで「公共的な視点」という言葉を口にしている。さらにLINELIVEの『君の名は。』特番では

「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」
といっているのだ。

奇しくも細田守も是枝裕和との対談でこう言っているー

「作家主義的なものより公共性が先に来るべきだと。それを外しちゃうんだったら、作らなくていいよってなっちゃう」 ー映画ナタリー「細田守と是枝裕和が“いい父親”東映動画とテレビマンユニオンについて語る」


この「公共性」とは噛み砕いて言えば、映画は社会と無関係ではいられない。「内向性」や「趣味性」という個人の殻の中にとどまってはいられないということ。映画は社会と向き合い、人や社会に向けて肯定的なメッセージやときには警告を発する必要があるということだ。

はっきりいってしまえば、「世界がどうなろうと君と僕さえいれば世界は完結する」だの、「世界もニンゲンもこの世からすべて消え去ってしまえばいい」などという社会への無関心や後ろ向きなルサンチマンからくる映画など作っても意味がないといっているのだ。・・・まるでかっての庵野秀明を批判しているようだが。

新海誠や細田守が3.11以降敏感に感じた「時代の空気」とは、作品と社会とは決して切り離すことができないということ。うちひしがれた人々を励まし、顔を上げさせ、重くのしかかる「運命」に立ち向かわせること。そして映画はその手助けをするべきだということだ。

そして庵野秀明もさすがに凡庸ではない。新海誠と細田守がとらえた時代の空気を敏感に察し、「運命」を打ち破り、失われたものを取り戻す「シン・ゴジラ」を作ったのだ。人は運命の前で決して無力ではない。戦え!とあの庵野が言うのである。

シン・ゴジラは庵野秀明なりの時代が要請する「公共性」への答えなのである。

新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は、時代の空気を敏感に読み取った映画作家二人の転回点であり、代表作であり、時代の要請に誠実に答えたことの結実だ。
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2016年08月31日

シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題について

シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題について

映画「シン・ゴジラ」とてもとても面白かった。正直に告白すれば「無人在来線爆弾」のあたりであまりにも面白すぎて気が狂うのではないかと思ったくらいだ。こういう人はどうやら私だけではなく、8月28日のBS-TBSのシン・ゴジラ特集では10回も見たという女性も出てきていた。

たしかにシン・ゴジラは面白かった。しかし、ただ面白かったというだけで人は何回も何回も同じ映画を観てしまうものだろうか。

いわゆる「シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題」である。

実は私もすでに4回観てしまっている。しかし好きな映画を繰り返し観ることはさほど珍しいことではない。「仁義なき戦い」とくに「代理戦争」などは10回以上は観ているし、北野武映画は最低三回は観て批評なり感想なりを書くことにしている。

しかしそれらの作品を繰り返し見ることと、シン・ゴジラを何回も観ることのあいだには何か決定的な違いがあるように思われる。

なにしろシン・ゴジラの場合、観るのが四回目でも画面のレイヤー(層)のどこを見るかで悩み苦しむことになるのだ。

映画表現におけるレイヤーについて考えるために、亀山郁夫のドストエフスキー論を借りたい。亀山によればドストエフスキー作品は「象徴層」と「自伝層」と「物語層」の三つのレイヤーに分けられるという。

これをシン・ゴジラに当てはめると、「象徴層」は2011年3月11日いわゆる「3.11」に起こった悲惨な出来事。震災、津波、原発事故のことであるといえる。この3.11が象徴層として通奏低音のように作品の背後に控えているため、ゴジラというまったくの虚構存在、ファンタジー存在が恐るべき迫真と現実性をもって観客に迫ってくる。

「自伝層」についてはゴジラ誕生の首謀者といえる牧悟郎(岡本喜八)の遺言「私は好きにした、君らも好きにしろ」に庵野秀明の自伝的「覚悟」を見ることも可能だろうが、ここでは「日本人である私」または「日本に住んでいる私」からの視点の層としたい。生命の危険をともなう甚大な災害に見舞われることは日本に住んでいる限りありえないことではない。誰でも3.11のようなことを経験しうる。「その時」私は、私たちはどうなるのか?また「その時」が来たらどうすればいいのか?このことを作品を観ているあいだじゅう突きつけられるのだ。

「物語層」は亀山郁夫によれば、象徴層や自伝層よりも低次の層として、象徴層や自伝層に支配される層とされる。しかし本当にそうだろうか?ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」は圧倒的にその物語が面白いからこそ、名作として残っているわけで、象徴層や自伝層がより高次で高尚だから名作として今も読み継がれているわけではない。

シン・ゴジラも同じで、物語層が圧倒的に面白いからこそ、象徴層や自伝層がうまく機能するのであって、その逆ではない。作品はまずメッセージありき、テーマありきではなく、作品として面白いからこそ副次的なメッセージやテーマが観客のもとにうまく届くようになっているのだ。

さて、まだシン・ゴジラをなぜ何回も観たくなるのかの答えを出していなかった。

シン・ゴジラのレイヤーは実はこの三つだけではない。より表層的なレイヤーがある。それが「日本語表現層」と「キャラクター層」である。

日本語表現層はセリフとテロップに分けられる。奔流のようなセリフ量にテロップ量。カット割が早いために

「いま、環境省自然環境局野生生物課課長補佐の尾頭さんなんつった!?」

「テロップちょっと待って!安田さんの役職、文部科学省研究振興局基礎研究・・・なに!?」

とくに驚愕したのはtwitterでの伊藤聡さんの指摘。

2016-8-30.jpg
https://twitter.com/campintheair/status/764351578274799617?lang=ja

みんな大好き泉ちゃんこと泉修一保守第一党政調副会長(松尾諭)と矢口蘭堂内閣官房副長官(長谷川博巳)の大惨事の後の会話「君も地元を大事にしろよ」のすぐあとのセリフがどうしても聞き取れないと思っていたら、こういうことを言っていたという。「キンキカライのおかげで助かったよ」のキンキカライとは「金帰火来」(国会議員が金曜に自分の選挙区へ帰り、火曜に東京へ戻ることを指す)というのだ。こんな日本語初めて知ったよ!

この興奮は日本語使用者だけにしかわからない醍醐味ではある。ちなみにこういうセリフについては「製作側からは「分かりやすく言い換えてほしい」という要求があったけれど、闘い続けました。言い換えたら、嘘になってしまう。」と樋口真嗣監督がインタビューで答えている。

樋口真嗣監督がエヴァンゲリオンの盟友・庵野秀明総監督を語る「破壊しながら前に進む。彼こそがゴジラだった…」ー産経ニュース

役職のテロップの長さも凄い。何度も観てなんとか俳優と役職名を一致させようとテロップ読みに全力を尽くすが常に惨敗。四回目はヤシオリ作戦中の科学技術館の指揮台にいるのはどんな役職の誰なのか見極めようとするが、全員マスクをかぶっているので皆目見当も付かず!

「キャラクター層」ではネット上でのシン・ゴジラの登場人物の二次創作が盛んだ。尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐(市川実日子)の最後の笑顔に萌え、矢口と泉はできている!やぐいずだ、いや、矢口は赤坂先生と相思相愛なのだから矢赤だ!などという議論もかまびすしい。画面に描かれていないことまで観客は想像して楽しんでいる。

それもこれも、象徴層、自伝層、物語層、日本語表現層、キャラ層など何重ものレイヤーがたった2時間の中に凝縮されているから、情報を処理しきれないため起こる現象といっていい。この現象を見事にあらわした動画をネット上で見つけたので見てほしい。



まさにこの動画の子犬こそ、シン・ゴジラに夢中になる私たちそのものではないだろうか。

本来映画というものは、情報の取捨選択を積極的に行う「省略」の芸術である。観客を短い時間のうちにたくみに誘導するために、省略すべきところは省略し、シンプルな描写で情動を刺激する。シン・ゴジラは物語層こそシンプルかもしれないが、それ以外のところではこれでもかとばかりに情報の洪水を引き起こしている。それこそが、観客に今日はどのレイヤーに注目して見ようかというモチベーションを起こし、何度も観る動機となるものだ。

観客にとって情報が処理しきれなくなる映画が失敗作としてではなく、傑作となって姿をあらわしてしまう稀有な例がこのシン・ゴジラだ。
posted by シンジ at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月13日

秀吉の経済政策はまっとうです「落日の豊臣政権」に書いていないこと

秀吉の経済政策はまっとうです「落日の豊臣政権」に書いていないこと

河内将芳著「落日の豊臣政権・秀吉の憂鬱 不穏な京都」の意図はタイトルにもあるように、秀吉の政策がいかにひどくて、人心の離反を招いたか、にあるわけだが、そこで指摘されている秀吉の失敗したとされる経済政策を見てみると・・・あれ?秀吉の経済政策全部まともじゃね?という感想が浮かび上がってくるのは私だけでしょうか。

ここで批判的に書かれる秀吉の経済政策は三つ。「公共事業」、「金くばり」、「ならかし」である。

「公共事業」についてはいうまでもないが、秀吉の「普請好き」は有名だ。京都に聚楽第を建設すると、当然その周りに大名や奉公人たちの屋敷や家々が建築され、彼らにともなって人と経済の大移動が始まり、京都は一大都市へと発展していく。

聚楽第建築以前の京都は人口8千人程度の小さな町にすぎなかったが、聚楽第以後はその10倍以上の大都市になっていくのである。

こうした公共事業による経済成長により、当時の人々に何が起こるか。かって北条氏政に仕えたこともある随筆家三浦浄心はこう書いている。

浄心が若い頃は金など見ることはなく、わずかな金五枚、三枚をもっているものでさえ長者、有徳者とよばれていたものだが、今は民百姓でさえ金を五両、拾両、富豪にいたっては五百両、六百両ももっている。(P21)


すさまじいまでの経済成長と貨幣経済の浸透が見られるようになるのである。

次の秀吉の「金くばり」政策とは、その名のとおり、大名や公家や奉公人に見返りなしで金銀をくばる=配布するだけの政策である。

京都聚楽にて、関白殿より金銀諸大名衆へくださる、近江中納言(豊臣秀次)御屋形の御門前より東へ二町ほどにおいて三通りにならぶ、金銀台に積む、諸大名衆三百人ばかり、赤衣装束にて御使いの役者なり、希代の見物、古今あるべからざることなり、耳目をおどろかすー蓮成院記録天正十七年五月二十七日(p24)


これはミルトン・フリードマンのいう「ヘリコプターマネー」である。

作者はこれを不均衡な経済政策というが、この金くばりを大名や公家ではなく、民衆にたいして行うと、確実にインフレーションが起きる。よって大名や公家にばらまいて、大名や公家の経済活動=消費などによって下々へと経済活動が伝播していくようにしたほうが、インフレは最小限に抑えられる。上流階級にだけばらまくのは理にかなっているのである。

そして秀吉の経済政策で最大の愚策とされる「ならかし」。ならかしとは「奈良貸し」つまり秀吉(秀長)が奈良の商人に高利で金を貸しつけ、その利息をはぎとる政策のこと。この政策により奈良の商人たちは苦しみ、利息を払えなかったものは夜逃げしたり、自宅を売ったりするほどで、耐えられずに秀吉に直訴にまでおよんだという。

なるほど、文面を読んでるだけなら、ひどい政策だと私も思ったことだろう。でもいままでこの本を読んできて、多少は経済学を齧ったことのある人ならこの「ならかし」がどんな意図を持って行われたのか気づいた人もたくさんいるのではないか。

秀吉の経済政策「公共事業」と「金くばり」により、いまだかってないほどのすさまじい経済成長と貨幣経済の浸透に到達した社会。そこではみんなが豊かになるだけではなく、

今は民百姓でさえ金を五両、拾両、富豪にいたっては五百両、六百両ももっている。ー三浦浄心


つまり民百姓と富豪とのあいだに経済格差が生じてきている。この経済格差を解消するにはどうすればよいか?商人たちが溜め込んでいる金銀を市場に吐き出させる必要があるのである。

秀吉(秀長)の愚策と思われた「ならかし」はあきらかに、商人たちの溜め込んだ金銀を吐き出させるための政策に他ならない。秀長によって高利で貸し付けられた金を返すためには、商人たちはこの借りた金を投資するなり、民に貸し付けたりして市場に放出せざるえなくなる。こうして商人たちが溜め込んだ金銀は市場に循環していくのである。

「民間、特に企業部門の構造的な貯蓄過剰が政府を赤字財政に向かわせて債務が膨らんでいる」(日本経済新聞電子版2016年1月12日付け)


いうまでもなく金銀、貨幣は使用されてはじめてその価値が生じるものだ。経済を理解してない人は金銀や貨幣自体を「財産」だと思っているが、金銀や貨幣はそれを保持しているだけ、溜め込んでいるだけでは、何の価値もないゴミクズ同然のものにすぎない。それもゴミクズだけならまだしも、使われずに溜め込まれただけの金銀貨幣は経済活動を阻害し、社会の損失ともなるのである。使われて=市場に出回り循環することではじめて経済活動が始まり、社会は豊かになっていくのである。

羽柴秀長の「ならかし」はそうした金銀貨幣の真の価値を理解した、斬新な「格差是正」政策に他ならない。

こうして秀吉の経済政策「公共事業」、「金くばり」、「ならかし」を見てきたが、どれも理にかなった経済政策でこれをもって秀吉の経済政策は失敗したとするのはどうにも違和感がある。

私が考えるすぐれた「為政者」の条件は、「民」の「安全」を守り、「民」の「財産」を守ること。究極的にはこの二つだろう。

秀吉は日本全土に「平和」(惣無事)をもたらし、日本の歴史上かってないほどの経済成長を成し遂げた。率直に言って秀吉は為政者として見事に仕事をしてのけたといえる。

ではなぜ秀吉はこうまで悪し様に罵られるようになったのか。秀吉政権下では秀次切腹事件のあと、大きな被害のあった文禄大地震(1596年)が起きている。この「落日の豊臣政権」によれば、当時は「天災」、自然災害は為政者の政=まつりごとが悪いから起きるのだという考えが一般的だったのだという。当時の民衆はこの自然災害を秀吉のまつりごとと結びつけて考えるようになる。

つまり秀吉は急激な経済成長による民衆のとまどいや自然災害は為政者のせいという迷信により、求心力を失っていったということになる。別に秀吉をかばうわけではないが、あんまりではないか。

秀吉の経済政策については歴史家ではなく、経済学者による正しい評価を待ちたい。
posted by シンジ at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする