2012年05月16日

阿部ちゃんの裸最高!テルマエ・ロマエ

映画「テルマエ・ロマエ」を見る。もちろんここには「映画的」なものや「映画的なショット」は微塵もない・・・・・という書き出しを考えたところで、はて「映画的」とか「映画的ショット」ってなんじゃらほい?と考える。

「映画的」とか「映画的ショット」を400字詰め原稿用紙で論理的かつ明瞭に書いてみろといわれた場合、はたして書けるものだろうか・・・しばらく考えてみるが・・・・・か、書けない。

たとえば「映画的ショット」なるものを説明する時に「ジョン・フォードのカメラポジションの的確さ」とか、「イーストウッドのフレーミングの見事さ」とかいったりするわけだが、それでは何も説明していないに等しい。もっと大勢の人と分かち合える論理的な説明はできないものだろうか・・・・・これができないのである。

もちろん映画の撮影現場に従事している人たちは、このショットは、このフレーミングは、このポジションは最高だねとかいうことはわかりあえるのかもしれない。

しかし映画批評の場合、「映画的」とか「映画的ショット」とかいう物言いははっきりいって、「キチガイの言語」にしかすぎない。すなわちウィトゲンシュタインのいう「私的言語」にしかすぎないのだ。

私的言語というのはウィトゲンシュタインの造語ですが、簡単にいうとこういうことです。

・・・ここに一人の精神病患者(パラノイア)がいます。彼は普段からこう主張しています。「私の頭の中にはCIAが住んでいて、いつもCIAから指令を受けて活動しています!」彼にとっては日常的にCIAから監視され、指令を受けるのがまったくの現実なのです。しかし、彼の周囲の人たちにとって彼の発言はまったく意味のない妄想にしかすぎません。彼一人にとってはまごう事無き現実であっても、共通理解が得られなければ、それは「キチガイの言語」=私的言語にすぎないのです。

「映画的」とか「映画的ショット」という言語も同じことです。俺様シネフィル一人がわかっているだけで、共通理解がなければ、私的言語=精神病患者の言語と同じなのだ。

(決して蓮實重彦をdisっているわけではない)

そこでだ。もういいかげんに「映画」を「映画的」やら「映画的ショット」というくびきから解放しても良いのではないか。

「テルマエ・ロマエ」に戻ろう。ここには「映画的」なものや「映画的ショット」は微塵もない。だが、そんなわけのわからない私的言語よりもっとわかりやすい、共通理解を得られる素晴らしいものがあるではないか。

それが、それこそが阿部ちゃんの「裸」である。
テルマエ・ロマエ02.jpg
は・だ・か
テルマエ・ロマエ01.jpg
HA・DA・KAである。

これほど古今東西、老若男女が胸躍らされる共通理解があるだろうか!

映画を褒めるのに映画的とか、映画的ショットとかいうシネフィルは死んでしまえ。これからは映画を褒めるのに、キチガイの言語=私的言語は必要ない。

「テルマエ・ロマエ見た?阿部ちゃんの裸よくね?」

「いや〜阿部ちゃんの裸最高だったね」

「あの裸だけでご飯何杯でもいけるわ」

これが正しい映画ファンの会話だ!

(多少お酒が入ってます)
posted by シンジ at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月13日

レオ・シュトラウス「哲学者マキアヴェッリについて」

現代のマキアヴェッリ評価はマキアヴェッリは単なる政治史家であって、哲学者でも政治哲学者でもないというのが支配的だそうな。しかしシュトラウスはマキアヴェッリは近代哲学の創始者であると高く評価する。

マキアヴェッリの主要著書「君主論」と「ディスコルシ」の違いとは自然的か必然的かの違いだという。「君主論」で書かれる君主政というのは人間の自然的欲望=名誉や栄誉を求める欲望から導出される。名誉欲は人間が本性的に持つ承認欲求であり、自然的欲望である。それに対し「ディスコルシ」で書かれる共和政は民衆の必然的欲望=生命と財産を奪われる恐怖から導出される。

生命と財産を奪われる恐怖=起源的テロルが人間を動かし、社会を作らせ、それを維持させる。起源的テロルという非道徳性が、共同体の道徳性を作り出すのだ。しかし民衆はいったん安全が確保されると起源的テロルを忘れ、他者への優越を欲望しはじめる。同胞たちに優越し、それを抑圧しようとするのだ。ここに「僭主」の生まれる隙が出てくる。(「僭主」というのは共和政(民主政)にもかかわらず実質君主(独裁者)が支配すること。ローマ共和国を終わらせたカエサルであるとか、15世紀フィレンツェ共和国を牛耳ったメディチ家であるとか、21世紀オーサカを牛耳っているトオル・ハシモトらのこと)この腐敗状況を変えるには、民衆に再び起源的テロルを喚起する必要性が出てくる。

体制の新創設者は古い体制を一掃し、新秩序の健全な体制を打ち立てる。マキアヴェッリにとって新秩序という目的のためなら非人道的な手段をとることも容認される。その非人道的な手段が民衆に起源的テロルを喚起させるがゆえに。

起源的テロルを喚起させる方法には、他に戦争という手段もある。実際に戦争を起こすかどうかはともかく、仮想敵国というものを作り出し、民衆の恐怖と不安をあおり国家体制を維持する国は現代にもよくある。起源的テロルを国民に終始ちらつかせないと体制が維持できないというのはそれだけ国家体制が腐敗している証拠でもある。

マキアヴェッリが近代哲学の創始者だという理由は二点。

マキアヴェッリは人間や社会を「理想の高み」へと引き上げようとするのは、非人道的で悲惨な結果を招くだけだとする(宗教改革の悲惨を予見している。その後の歴史も)。むしろ人間を「低いところ」から見て、現実的に獲得できることからはじめなければならない。「いかに人が今生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとの間には非常な隔たりがある」(君主論15章)のであるから。

人間を「低い」ところから見るとは、君主政は自然的欲望から創出され、共和政は必然的欲望から創出されたということを見ることである。国家の政体は崇高な目標からではなく、あくまで人間の低い欲望から導出されることを見なければならない。

「理想の国家」を目指すという目的論的国家観から、「低いが堅固」なコナトゥス(自己保存)から導出される作用因的国家観への転換を成し遂げたのが一点目。

二点目はマキアヴェッリの苛烈なまでのキリスト教会に対する批判である。

教会やその坊主のおかげで、我々イタリア人は宗教もろくに持たずに、よこしまな生活にふけっている。さらにそればかりではなく、はるかに大きな不幸を教会や坊主のために受けている。それは我々に破滅をもたらす原因となるものである。すなわち教会は、イタリアを昔から今まで一貫して分裂させてきたのである。−「ディスコルシ第1巻12章」

痛烈なキリスト教会批判は、キリスト教的な彼岸の理想主義的世界観からの脱却を意味する。それは目的論的世界観から作用因的世界観への転換を意味する。マキアヴェッリはホッブズやスピノザに先行する近代哲学の創始者といえるのである。

最近はレオ・シュトラウスにハマリ中。でも翻訳されてる著作が少ないからすぐに読み終わりそう。シュトラウス「自然権と歴史」はおそらく今年読んだ中のベスト1。
posted by シンジ at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月07日

新約聖書のたとえ話と隠喩

田川健三が「イエスという男」にこんなことを書いている。

福音書に出てくる比喩物語を、たとえ話(parabel)と隠喩(allgorie)に峻別し、前者のみイエスの言葉で、後者はすべて教団の創作とみなす方法は、今日学界の常識となっている。−「イエスという男」


こういう見方だといろいろ腑に落ちる点が多々ある。たとえばマタイによる福音書20章のぶどう園の賃金の話。これはっきりいって最初読んだ時はまったく意味がわからなかった。一応どういう話か書きますと・・・

ぶどう園の主人が、ぶどう園で働く労働者に1日1デナリオンの賃金を払うという。まず朝の9時ごろ広場にいた人たちを雇う。次に12時に広場にいた人を雇い、15時にいた人も雇う。夕方の17時にいた人も雇う。1日が終わり、17時から働いた人に1デナリオン支払う主人。朝から働いていた人はもっとたくさんもらえるだろうと期待していたら、彼らも1デナリオンしかもらえなかった。それに対して不満を漏らすと、主人は「私はあなたに不当なことは一切していない。1日1デナリオンの約束をしたのだから」

・・・これどう理解していいかわかんないですよね。でもこれをパウロ神学を通してみると意味が浮かび上がってくる。

つまりこれは「功績主義」に対する批判なのだ。パウロはいわゆる「信仰義認」説をとなえた人で、信仰義認というのは「信仰によってのみ、神に義と認められる」という考えのこと。つまり人間ごときの努力や行為によって神の国に入ろうなんてことは不遜以外の何ものでもない。この世のことはすべて神が決める。だから今日朝から一日中働いていたから、神はたくさんご褒美を下さるだろう、なんていう「功績主義」的な考え方はパウロ神学を通すとけしからんということになる。

しかしだ。これはあきらかに田川健三いうところの「隠喩」である。この話自体は当時イエスが実際に話したことかもしれないが、この話の「隠喩」はイエス亡き後、原始教団が宣教のために作り上げた創作に過ぎない。イエス本人は「信仰義認」による「功績主義」否定なんて教えは説いていないのだ。

当時イエスは教育を受けていない貧しい人たちや庶民相手に説教していたわけで、こんな小難しい隠喩を話に込めていたはずがない。となると、このたとえ話をイエスはどんな意味で話したのか。

田川はこれを社会的平等のたとえ話だとする。たくさん働いたから人よりたくさんもらえるという考えは格差を生む。今日一日仕事にあぶれた人も、仕事を持っている人も、等しく生きる権利がある。というたとえ話だというのだ。

これは結構ラディカルなたとえ話ではないでしょうか。当時資本主義的な傾向を持ちつつあった社会に対しての明確な否定。つまり労働の量や質で、貧富の差が出ることに対しての批判である。

イエスの考えを単純に現世否定、来世肯定ととらえてはいけない。この現実の世界にはなんの意味も価値もない。ただ彼岸の神の国だけに価値がある。という考えは、真逆の考えー現状肯定という考えを生み出してしまうからだ。神の国がすべてなら、今いる世界に対しては別に積極的にかかわりあう必要はないという考えになってしまう。

イエスは現世否定ー来世肯定=現状肯定の人では絶対にない。この現実の社会に対して、「アンチ」の考えを持った人であって、この自分たちが生きる世界に対して憤りを感じている人であり、これを変えなくてはならないと思った人だ。
posted by シンジ at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月20日

Hunter x Hunter論 メルエムはイエスである

冨樫義博「Hunter x Hunter」30巻を読んであまりにも深く、激しく動揺してしまう。それはそこに感情移入していた登場人物の死が描かれているからというわけではない。ここには「悲しい死」ではなく、もっと別のことが描かれている。そこに描かれているのは・・・

「メルエムはイエスである」 ー このことである。

おかしなことを言い出す奴だなと思われるかも知れません。いったいメルエムのどこがイエスだというのか。私はイエスを「イエス」たらしめているのは三つの愛だと考えます。メルエムはそこに重なるのです。

「イエスの三つの愛」
その一。「贖罪の愛」いけにえ性としての愛
イエスはほとんどいいがかりのような罪をきせられ、無残にも十字架上で処刑された。一時はイエスをメシアと持ち上げた民衆からは足蹴にされ、イエスを慕った弟子たちもみなイエスを裏切った(裏切ったのはイスカリオテのユダだけではない)。十字架にかけられたとき、イエスはなんと言ったか。

「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23・34)

イエスは自分を死刑にしろと扇動した民衆を赦し、裏切った弟子たちをも赦した。キリスト教とはイエスの弟子たちが、このイエスの無残な死を「なぜ?」と問い続けることによってできた宗教だといってよい。弟子たちは考え続けた、なぜイエスは死ななければならなかったのかと。そしてその答えこそ、愚かな私たち人間の罪をあがなうために死んだのだという考えだ。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のためのあがないの代価として、自分の命を与えるためなのです」(マルコ10・45)

愚かな人間たちの積み上げた罪過という名の借金を、イエス自らいけにえとなり、命を捧げることによってその借金を帳消しにしたと考えるのだ。

メルエムもまた愚かで残酷な人間の作り出した悪魔兵器によってその命を奪われつつあるにもかかわらず、それを赦し、そして人間であるコムギを愛する。人類の罪業を赦し、愛し、そして無惨に死ぬのだ。まるで人間の罪をあがなうためのいけにえのように。

その二。「愛敵」範囲性を無化する愛。
スピノザはキリスト教において重要なことは二つしかないという。それは神への愛と隣人愛である。そして神への愛を証明するのは隣人愛しかないという(神学政治論)。では隣人愛とはなんだろうか。隣近所の人を、知人や友人、家族を愛せということだろうか。辻学「隣人愛のはじまり」はそういう考えを根底からひっくり返す。 ー イエスは隣人愛に批判的だったというのだ。

それを如実に示すのがルカによる福音書の有名な良きサマリア人の話だ。

ある日ユダヤ教の律法学者がイエスを試そうと論争を挑む。「永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいでしょうか」。イエスは冷ややかに「律法には何とかかれていますか」と質問をかえす。律法学者は「神を愛し、隣人を愛すことです」と答える。もともと隣人愛の教えはユダヤ教から来ている。

あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいーレビ記19・18

イエスはいかにもめんどくさそうに「ああ、あなたの言ったことはあってるよ」と律法学者を追い払おうとするが、律法学者は食い下がり「では、私の隣人とは誰ですか?」と聞くとついにイエスはブチ切れるのだ!

道ばたに強盗に襲われ半死半生の人が倒れている。そこをユダヤ教の祭司が通りかかったが、無視して行ってしまった。もう一人ユダヤ人がそばを通りかかったが彼も無視して通り過ぎた。だが、通りすがりのサマリア人だけは倒れた人を介抱してやり、宿屋に泊めその代金まで支払った。この三人の中でいったい誰が倒れた人の隣人か?と問うイエス。律法学者はしぶしぶ「その人を助けた人です」と答える。

なぜイエスはサマリア人という具体的な民族をあげたのか。当時サマリア人はユダヤ人に蔑視され差別の対象となっていた人たちだからだ。

ユダヤ人と「隣人関係」にあるとは思えないサマリア人が、民族の垣根を越え、ユダヤ教の掟が命じる隣人愛を実践するという皮肉。「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスの反問の前で、「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の問いが持つ無意味さが露呈する。どのような人間が「隣人」として愛する対象になるのかという律法学者の問いに対してイエスは「隣人」の範囲を限定するという前提そのものを拒むー辻学「隣人愛のはじまり」

ユダヤ教徒は隣人愛を説きながら現実にはサマリア人を、収税人を、娼婦を徹底的に差別していた。イエスにとってユダヤ教の隣人愛とは、愛の範囲を限定する許し難い考えでしかなかったのだ。そこでイエスは隣人愛を批判し、隣人愛の範囲性を打ち砕く究極の思想を説く。それが「汝の敵を愛せ」という思想ー「愛敵」である。

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。ーマタイ5・43ー44

愛敵はまさに隣人愛の範囲性を木っ端微塵に打ち砕く。イエスにとって愛する対象を限定することは馬鹿げたことでしかない。自分の友人や家族を愛することは悪人でもできることではないか。愛の範囲性を無化する愛敵という破壊的な思想。しかし愛敵とは果たして可能なのだろうか。マーティン・ルーサー・キングは愛敵を「おそらくイエスの訓戒の中で「汝の敵を愛せよ」という命令に従うこと以上にむずかしいことはないであろう」という。

だが、この難しく、不可能な決断をした者がいる。自身にとって家畜にも劣る存在であり、同じ種族同士で殺し合うような唾棄すべき敵ー人間を愛したのは誰であったか。種族の違いを超え、敵であることも越えて愛した者は誰か。いうまでもなくメルエムである。

その三。「永遠の愛」時間を無化する愛。
永遠とは何か。永遠とは時間が無限に続くことではない。永遠とは時間を超越していること。無時間性のことである。キリスト教最大の「教父」アウグスティヌスは時間的なものと永遠なものとの違いをこう言っている。

時間的なものは、得られない間は愛されるが、得られるとはなはだしく価値を減じる。永遠なものは、得られたときには欲望の対象であったときよりもいっそう熱烈に愛される。ー省察と箴言

例えるなら、子供がおもちゃを見て「あれが欲しい!」とダダをこねる。泣き叫んでそれを熱烈に欲しがるが、そのおもちゃを手に入れた途端、すぐに興味を失い、放り投げて見向きもしなくなる。時間性の愛とはそれを手に入れた途端、価値がなくなり消え失せるもの。生成し、消滅するものでしかない。

時間とは、生成し、消滅することの繰り返しをいう。もっとくわしく言えば、生成し消滅するのは生命のサイクルで、そのサイクルを「知覚」すると「現在」となり、「期待」すると「未来」になり、「記憶」すると「過去」になる(アウグスティヌス「告白」)。アウグスティヌスは時間は心そのものの延長だといい、コジェーヴは「時間は人間の外には現存在しない。したがって人間が時間であり、時間は人間である」という(ヘーゲル読解入門)。

いうなれば、人間は生成と消滅のサイクルの中にいるかぎり、時間の外に逃れることはできないのだ。だがしかし、そうだからこそ、こういう考えもできる。 ー 人間が時間的存在であり、時間は人間の外には存在せず、時間が心の延長であるなら、心が変われば時間の外に出られるということにはならないだろうか。

そしてそれは実際に可能である。ハンターXハンター30巻中感動必至の名場面がそれである。

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メルエム(・・・そうか、余は)

コムギ「ワダすは、きっと この日のために生まれて来ますた・・・!」

メルエム(この瞬間のために生まれて来たのだ・・・!!)

この感動的なシーンはおそらくドストエフスキーのこの場面に影響を受けている。

「ああ、この一瞬のためなら全生涯を投げだしてもいい!」とはっきり意識的に言うことができれば、もちろんこの一瞬それ自体は全生涯に値するものなのである。ードストエフスキー「白痴」


愛が極限まで一点に集中し、この瞬間のために自分は生きてきたと自覚するとき、メルエムとコムギの愛は時間を超越する。たとえ二人が百年生きようと、千年生きようと、その生涯の価値すべてをあわせても、二人が愛するこのほんのわずかな一瞬を上回ることはない。この一瞬こそが、千年を、万年をも超え、時間の外へ飛び出る至高の瞬間なのだ。これが時間を無化する愛。永遠の愛の本当の意味である。

では最後にメルエムがイエスであるという決定的な証拠をお見せします。

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ジョヴァンニ・ベリーニ「ピエタ」

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ミケランジェロ「サン・ピエトロのピエタ」

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メルエムの亡骸を抱くコムギのピエタ

「ピエタ」とは聖母マリアが死んだイエスを十字架からおろして抱く姿である。つまり母親が無惨にも殺された息子をかき抱いているのである。これほど悲しくつらい場面があるだろうか。しかし不思議なことにピエタ像に悲しみや絶望は見られない。なぜならこの愛は生成や消滅といった時間性を超越している愛。永遠の愛だからである。
posted by シンジ at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月03日

ジョン・ハート「ラスト・チャイルド」「アイアン・ハウス」の倫理観について

まず最初にジョン・ハートの「アイアン・ハウス」を読んでとまどったのは、その倫理観である。殺し屋が組織から抜けたために追われるというベタなストーリー展開に、殺し屋の弟の周りで起こる謎の連続殺人事件というミステリが重なる。問題は二人の殺人犯が不幸な身の上だったとはいえ、大量に人を殺しておきながらその罪を咎められることなく、幸せをつかむという、「え?その倫理観あり!?」というハッピーエンディングになっているところです。

実はこの倫理観は「アイアン・ハウス」の前作である「ラスト・チャイルド」を読んでおけばわかることでした(先にアイアン・ハウスを読んだ)。ラスト・チャイルドはかなり露骨にキリスト教的価値観を押し出している作品で、特にある黒人の存在は完全に「デウス・エクス・マキナ」といっていいでしょう。デウス・エクス・マキナとは神の突然の参入という意味です(キリスト教神学用語ではなく古代ギリシア演劇用語のラテン語訳ですが)。過酷な現実に唐突に現れる神の手。簡単にいってしまえば「ご都合主義」のことです。しかしこれがキリスト教圏では「ご都合主義」とは呼ばれずに、世界の理(ことわり)となる。なぜなら神のいない世界では「救い」が存在しない。救いが存在しない世界、すなわち神のいない世界観はキリスト教にとってはありえないのです。

ジョン・ハートはかなり露骨にキリスト教的価値観を押し出してくる。そのことがわかれば、「アイアン・ハウス」の倫理観も理解できるようになる。殺人者二人がなぜ罰を受けずに幸せを手に入れることが出来たのか?それは「神は罪人の回心を特に喜ぶ」というキリスト教的価値観が背景にあるからです。
一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要の無い99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。−ルカによる福音書15・7

私は以前ブログでキリスト教的殺人者であるジル・ド・レのことを書きましたが(園子温のキリスト教理解は見せかけか第一部ジル・ド・レ篇)、彼は100人以上の少年を虐殺しながら、その罪を認め涙ながらに謝罪したことで裁判を見守る大勢の聴衆を感動させています。なぜ聴衆や裁判官は虐殺者ジル・ド・レに感動したのか?それはこのような極悪非道の罪人が「回心」できたのは神の恩恵によるものにほかならないという考えがあるからです。だから人々は罪人の回心=神の恩恵ととらえ、それをたたえるのです。その最高の例として、最初はキリスト教徒を弾圧する役人だったのに「回心」して使徒となったパウロがいます。
posted by シンジ at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする