2023年05月25日

神殺しの一撃 映画PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE

映画サイコパスのこんな批判を見た。

『劇場版 PSYCHO-PASS PROVIDENCE』、さすがに、さすがにお粗末すぎるだろ…お話が。登場人物が「法律の廃止」を連呼して作品世界でどうも大きな流れになってるみたいで、しかしそれは「刑法」の廃止の言い換えか?と思ってたらどうもマジに「法律」の廃止っぽいので脳みそ焼き切れるかと思った

法務省解体して法律廃止したらふつうにすべての省庁の根拠なくなって国家そのものがおしまいにならないの?これだけ主要人物に役人が出てくるのに作り手は官僚制のことどういうふうに捉えてるわけ?結末が決まっているのでどうそこに着地させるか苦慮した結果とは推察しますが、それにしたってですよ。ー@AmberFeb201氏のtweetから引用。


映画を見る前にこの批判を読んだので一時はなるほどと思ったが、映画を見てからはこの批判は的外れだと感じた。

「サイコパス」の世界ではシビュラシステムという全能のAIがすべてを支配し、人間を完全に数値化することに成功しており、そこから人の犯罪係数をわりだし犯罪を未然に防いだり、その人にとって一番いい職業を選択してくれたりする。人間が考え決断する手間をすべて省いてくれるシステムだ。

この作品のテーマは全能のAI(=神)と法律との対立構造だが、実はこの対立は今現在、現実の世界でも形を変えて存在している。

近年政治的に正しくないという理由で訴訟を起こす前にキャンセルを起こし、失職させるという動きが多方面であった。

どんな最悪の犯罪者でも法の下で裁きを受ける権利がある。裁判以前に確たる証拠もなく有罪を宣告される前に容疑者をリンチにかけ、職を奪い人生を奪う権利は誰にもない。

今は下火になったとはいえ数年前の「キャンセル」ムーヴメントに心のしこりを感じるのはこの一点だ。

私はこのキャンセルと法律の対立関係にサイコパスのシビュラと法律の対立関係を重ね合わせてみてしまう。

正義の大衆の私刑とかたや全能のAIによる合理的判断。

まるで別物のようにも見えるが、どちらも大衆(マルチチュード)と法律の緊張関係に関係していることをこれから論証する。

まず「大衆」に歴史上はじめて重きを置いた人物に「君主論」で有名なマキャヴェッリ(1469-1527)がいる。

君主論は君主による非情な政治手法を説いたものとして有名だが、これはあくまでロレンツォ・デ・メディチ公に捧げるために書かれたものであり、実際のマキャヴェッリの主張とは違うものだった。

本来のマキャヴェッリの思想は君主政にはなく共和政の道を説いた「ディスコルシ」にある。

マキャヴェッリはカエサルを痛烈に批判し、独裁政を酷評する。

民衆の持つ性格が、君主の性格に比べて罪が重いわけではない。なぜなら、あとさきのことを考えもせずに、あやまちを犯してしまう点では、両者は五分と五分だからだ。−第1巻58章

人民に比べると、君主の方がはるかに失敗を犯しやすい。−第1巻58章


大衆の政体である共和政が君主政と比べて劣っていることはないのだ。

こうしたマキャヴェッリの政治学における「大衆」の重要性をさらに推し進めたのがスピノザ(1632-1677)である。

常にスピノザの念頭にあった仮想敵とはアリストテレスをはじめとする「徳」を掲げ大衆を支配する政治論を主張する一派だった。

大衆は愚かでまぬけで感情に支配され、欲望にまみれている。そんな大衆を政治に関わらせてはならないといった考えが数千年もの間ヨーロッパを支配してきた。

そうしたアリストテレス以来の考えをマキャヴェッリとスピノザはひっくり返す。君主も貴族も大衆も同じ人間本性を持つ以上愚かさでは五分五分でしかないし、間違える確率も同じだろう。

ならばより集合知の力が期待できる「大衆」を政治の基盤にすえるべきなのだ。

そして重要なのは徳や道徳といったもので大衆を支配することはできない。徳による大衆支配の政治体制は必ず失敗するということをマキャヴェッリ、スピノザともに主張している。

徳による支配をわかりやすく言うと、ある一つの理想を描き、その理想を大衆に強要する政体のことをいう。いろんな政体が思い浮かぶはずだ。

スピノザはそうした「上」からの支配は必ず失敗するとしたうえで、「上」からではなく「下」からの政体しか成功しえないという。

上から(理想や徳)ではなく、下=大衆の感情や情念、欲望といったそれまで何千年も馬鹿にされ、悪しきものとされ、汚らわしいとされてきたものこそが大衆を基盤とする政体をつき動かすものとなるのだ。

こうして「大衆」はマキャヴェッリとスピノザによって「神」にとって代わるものとして誕生する。

その「神」は法律に対しこう宣言する。

「法は理性と人間の共通の感情とによって支持される場合のみ破られない。そうではなく、もし理性の助けによってのみ支えられるなら、それはきっと無力で、容易に破られる」−スピノザ国家論第10章第9節


大衆の感情こそが法の根拠であり、大衆の感情によって支持されない法律は意味をなさない。

こうしたマキャヴェッリとスピノザ流の考え方はまさに近年キャンセルの嵐となって吹き荒れたのを私たちは見ている。法律を超えて判断を下す神なる存在としての「大衆」

万能の神としての大衆と万能の神としてのシビュラシステムは必然的に法律と対立し齟齬をきたすのである。(映画の中で法律を廃止すべきと言っているのは人間だが、それを指示したのはシビュラだろう)

そして映画サイコパスの常守朱(つねもりあかね)は極限まで達した万能の神と法律との齟齬の中でひとつの決断を下す。

それはグロティウス(法学者1583-1645)的決断である。

グロティウスはこう言う。
「たとえ神が存在しなくとも法(自然法)はその効力を失わない」−「戦争および平和の法」


もはや万能の大衆も万能の神をも必要としない神殺しの一撃である。

映画「サイコパス プロヴィデンス」は常守朱のグロティウス的一撃により神は必要ないことを証明した傑作である。


posted by シンジ at 03:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月22日

だめだこりゃ アバター:ウェイ・オブ・ウォーター

アバターwowを見たのでつらつらと。巷では世界中で日本だけアバターが興収1位を取れなかったことを揶揄する方も多いそうですが、作品の質を見てもwowはスラムダンクに負けてるのでそうおかしなことではない(興収スラムダンク1位アバター3位)

アバターwowは1作目と比べてもクライマックスのアクションがかなりスケールダウンしている。なにしろ敵は「捕鯨船」でしかないのだ。戦闘のプロではなく漁業を営む人たちをナヴィ族が大虐殺していくのである。

キャメロンの日本の捕鯨船に対する憎悪はシーシェパード並なんだな(笑)というのはわかるが、敵役としてはあまりにも弱すぎる。こんな貧弱な敵ではバトルが盛り上がらない。前作よりスケールダウンと表現した所以である。

アバターwowはアバター3の人間との全面戦争につながる中途の作品だとわかるのも不満だ。見せ場は全部アバター3に取っておいてあるだろうと予測できてしまうくらい地味なストーリーなのだ。

シナリオ面でも不備はあり、弟ばかり描写して兄のことをほとんど描写しないので、クライマックスの衝撃と感動がほとんどない。そしてしつこいくらい繰りかえされる「俺たちはファミリーだ」ワイルドスピードじゃないんだよ!古臭いな。

映画を見た人のほとんどが称賛する映像美についてだが、たしかに今まで映画館では見たことのないレベルのクリアな映像だった・・・でもこのクリアで陰影の全くない映像どこかで見たことがある・・・電器店の店頭にある大型TVのデモ映像とそっくりじゃないか!

wowの異常なくらいくっきりとした、映画的な陰影のない映像は完全に電器店の大型テレビのデモ映像と質感がそっくりなのだ。近所の電器店に行って大型TVに移る映像を見に行ってください、それがアバターwowの映像です。

とはいうものの、CG技術は天元突破しているのでマーベル映画の雑なCG(いわずもがな日本映画のCGも)などとは比べものにならないのは事実。でも面白いことにすべてのシーンに金がかかり、すべてのシーンが凄いと皮肉なことにすべてのシーンが「普通」に思えてくるのだ。慣れって怖いですね。

すべてのシーンが凄すぎてすべてのシーンが普通になるとどうなるか。一点豪華主義みたいな、ここに多額の予算をかけてますというような「ここが見せ場ですよ!」というフリがないので作品自体が平板な印象になるのだ。

posted by シンジ at 09:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月26日

イプセン「野鴨」が裏テーマのリコリスリコイル

アニメ「リコリスリコイル」が大人気の内に最終回を終えたが、私も最初は楽しく見ていたものの、徐々に否定的になっていった、その変遷を抜き書きしてみる。

「先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い」(はてな匿名ダイアリー)


というリコリコに対する代表的な批判に対して、まだまだ寛容だった時↓

「リコリスリコイルに関するこの手の批判は
@1話目でこの世界がディストピアだと明示されている。
Aまだ6話なので結論を出すのは早い。
に尽きるが、ディストピア世界を自明のものとして進行していく作品には他にサイコパスなどもある。まだ6話目なので結論を出すには早いが、」

「私にとってリコリコはディストピアを自明のものとして進行していく「萌え」フォーマットの作品の一種だと思える。そうした作品を、この作品には深いテーマ性や社会的なメッセージがないと言って批判するのは単に「カテゴリーミス」としか思えない。」

「批評における「カテゴリーミス」とは例えばアガサ・クリスティーの作品にドストエフスキー的な深みのあるテーマがないとか、ミケランジェロと現代美術を比較して批判するようなことを指す。そもそもカテゴリーが違うのだ。これを批評におけるカテゴリーミスという。」

「とはいうもののリコリコのスタッフがこの先物語をどう転ばせていくかは誰にもわからないので、まずは終わりを見届けてから批評を始めても遅くはないだろう。」

とここまでは寛容というか鷹揚にかまえている。これが8話目になると・・・

「リコリスリコイル8話。めちゃくちゃよくできている。だがしかし、だからこそ「萌え」に頼らずアクションとプロットで勝負してくれ。萌えに頼るか、プロットによるかでアニメ史に残るか否かが決まる。」

作画も、演出も、美術も高水準なのにだんだん不安を感じていることがわかる。そして10話になると評価が一変する。

「リコリスリコイル10話。もともとガバ脚本なのには目をつむってきたが、ここにいたって段々きつくなってきた。設定がガバガバなのは受け入れる(そもそも少女暗殺者集団だしな・・)がストーリーの細部までガバになると・・・」

「創作物のセオリーとして大きな嘘をつくときは、小さな事実を積み重ねろというのがある。設定のリアリティラインは低くてもよいが(大きな嘘)、ドラマやアクションの細部はリアリティラインを高くする。リコリコはそれができているか?」

「あんな厳重な警戒態勢を敷いていながらあっさりタワーへの侵入を許すDA。そんなスーパーテロリスト真島のテロの方法が拳銃千丁を街にばらまくだけ(現代日本でも千丁ばらまいたって重大なことは起こらないでしょう)細部がガバだとすべてが台無しになる。」

ガバガバな脚本の荒に目が行き、評価が辛くなってくる。そしてついに11話では作品内モラルとの決定的な齟齬が生まれる。

「リコリスリコイル11話。本当にアクションは素晴らしいだけに、設定面が気になってしょうがない。この物語どう考えてもテロリスト真島が正義の味方であり、千束たちの所属するDAこそが悪の組織そのものなんだよね。そこらへんにムズムズして素直に楽しめない。」

「犯罪者を、法律も無視し、逮捕も起訴もせずにただ殺害するだけの組織と、殺害を実行する少女たちは、どう考えても悪の組織であり、革命を起こされる側の腐った体制側である。その体制を覆そうとしている真島は革命側であり、正義なんだよね。」

「このどんだけ腐った体制でも、平和と日常さえ維持できてさえいれば、それは尊いものであり、守るべきものであるという考えのアニメがリコリスリコイル以外にもある。「サイコパス」である。」

「アニメ「サイコパス」は大好きだし、傑作なんだけど、腐った体制を維持し続ける点にモヤモヤしたものを感じた。どうやらリコリコにもそうしたモヤモヤを感じることになりそうだ。」

リコリスリコイル12話ともなるともう評価は覆らないあきらめの境地に。

「リコリスリコイルはスーパーテロリストが銃を千丁、街にばらまくだけのスーパーテロ(笑)を起こしたあたりと、リコリコの存在が世間にばれて全員抹殺指令が出てるのに、実はリコリコはテーマパークの新しいアトラクションでした、で全国民納得する時点で、傑作からありきたりな萌え作品になった感」

リコリコ13話では制作者側の思想自体に問題があると考えるように。

「リコリコ13話。制作者のグロテスクな思想が垣間見えてきつかったな。千束の「世界を好みの形に変えてる間にお爺さんになっちゃうぞ」「世界がどうとか知らんわ」というのは作品で描かれるこの世界の人権無視、法治主義否定のファシズム体制の現状肯定という意味だからね。」

「千束の現状肯定はニヒリズムと表裏一体で、「この世界はこのままで完璧なんだから、一切変える必要はない」は、「この現実の世界にはなんの意味も価値もないのだから変える必要はない」と同義である。これが現状肯定のニヒリズム。」

「制作者は意図しなかったことだろうが、今、人権も法律も無視してロシアが侵略してる最中に、「どんな腐った体制でも、変える必要はないし、この体制を維持していきます」という主人公なのはバッドタイミングとはいえグロテスクすぎる。」

「リコリスリコイルに感じる、このロシアや北朝鮮をはるかに凌駕する極悪国家、ファシズム体制を命を懸けて守る意味ってなにかね?」

これ書き終えてしばらくしてイプセン「野鴨」が裏テーマなんだと気づいた。

イプセン「野鴨」とは。〜正義にとりつかれたグレーゲルスが虚偽の土台の上に築かれた家族を壊し、真実の愛という「理想の追求」を友人のヤルマールとその家族に強いた時、それまでのヤルマール家の幸福は崩壊し、悲劇が訪れる。

「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことになるんだからね」−「野鴨」より

これまったくリコリスリコイルやPSYCHO-PASSサイコパスのメッセージなのだ。

吐き気を催すディストピアであったとしても、そこで暮らす人々は幸福に暮らしている。だがしかし「正義」や「真実」に価値を置くならば、この虚妄に満ちた世界を破壊しなければならない。たとえ真実と正義のために人々の日常や生活や幸福が完膚なきまでに破壊されようと。・・・だがしかしそれは本当に正しいのか?

PSYCHO-PASSではこの社会のシステムが破壊されれば、大混乱が起こり、人々の平穏は一瞬で終わるがゆえに、シビュラシステムを温存せざるえない=このディストピアを続けていくほかないという答えにある程度の説得力があった。

しかしリコリスリコイルではそれほどの説得力はない。むしろ少女暗殺集団を国家が運営してること自体、なくしてしまったほうがいいのではないか?つまりこの虚妄の世界を維持し続けなければならないという理由がとぼしいのだ。

イプセン「野鴨」のテーマを突き詰めて考えているがゆえに、PSYCHO-PASSは傑作であり、おそらく制作陣が野鴨など読んだこともないであろうリコリコが浅い萌え作品のなったのは当然であった。

posted by シンジ at 14:23| Comment(1) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする