2018年09月05日

リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」を読む

リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」を読む

現在世界中で跳梁跋扈するイデオロギー、リベラリズムとグローバリズム。この二つの巨大な潮流を80年以上前に徹底的に批判したのがカール・シュミット(1888-1985)である。

シュミットのもっとも有名な政治理論「友敵論」が書かれた著作「政治的なものの概念」の中で標的にされるのがリベラリズムとグローバリズムなのだ。

シュミットにおいての「友敵論」の友と敵とは、すべての政治的関係の基盤にあるものだ。味方と敵=友と敵という現実可能性を無視する政治理論はシュミットにとって意味のないものだ。

友と敵は「主権」をもった政治的団体間の関係のことである。シュミットにとっての「主権」とは、「戦争」という現実の闘争の「危急事態」に際し「決断」できるものだけを「主権者」と呼ぶ。戦争などの危急事態=例外事態に決断を下すことができるものだけが「主権者」であり「主権団体」なのだ。

こうした主権をもつものだけが「政治的単位」と呼ばれる。したがって多元主義的な政治理論における中間団体=宗教団体、労働組合、家族、スポーツクラブなどは政治的単位とは認められない。

政治的単位とはあくまで例外状況における決断のできる主権を持った団体だけが政治的単位であり、友敵区別はこの政治的単位にのみ限られる。たとえこの友敵区別に反対し、非政治的であろうとしたり、中立であろうとしても、非政治的であることや中立であることに正当性や優位性を見出しているのであり、その時点でみずから友敵区別を実行しているのである。

こうした友敵区別からは必然的に「国家多元論」が生じてくる。友敵という基本的な政治関係にとって諸国家群の存在は必須であるからだ。そしてこの考えに基づけば「世界国家」などあってはならないものなのだ。

友敵の「敵」とは

「政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとは限らず、敵と取引するのが有利だと思われることさえおそらくはありうる」(政治的なものの概念P15)


シュミットにおいて「敵」とは「悪」ではなく、交渉も取引もできる相手である。しかしリベラリズムとグローバリズムは基本的政治的単位である友敵を無化し、友敵の基盤である「国家多元論」を認めず「世界統一国家」=グローバリズムを推進する。

リベラリズムとグローバリズムというイデオロギーは敵を敵とはみなさなくなり、敵を「非合法」「非人間的」な怪物としてしかあつかわない。

敵ならざるものが非人間的、非合法的な怪物である以上もはやそれは法律(デュープロセス)や人権を剥奪された「透明な怪物」として処理されるだけの存在となる。

これこそがリベラリズムとグローバリズムの落とし子=「ポリティカル・コレクトネス」の誕生である。「ポリティカル・コレクトネス」に反するものは法律によって裁かれる前に社会的に抹殺される。抹殺するのに確かな証拠や裁判や警察すらも必要でなくなるのである。

リベラリズムとグローバリズムは国家や政治的なもの=友敵を解体し、すべてを法律以前の「道徳」と「経済」に従属させる。リベラリズムとグローバリズムによる「世界の非政治化」(=「非友敵化」)はこの世界を「道徳」と「経済」による完全支配へと結実する。

この「道徳」と「経済」によって完全支配された世界、リベラリズムとグローバリズムが完遂された世界においてもはや「敵」は存在しない。リベラリズムとグローバリズムに反するものは非合法化、非人間化され抹殺されるだけの透明な存在に過ぎなくなる。

1932年に書かれたとは思えない恐るべき予言の書といっていいだろう。とくにリベラリズムとグローバリズムが法律を超える「道徳」と「経済」にすべてを従属させようとすると喝破したのは背筋があわ立つ思いがする。

この恐るべき予言の書がナチスの法学者であったカール・シュミットの手によって書かれたのは皮肉としかいいようがない。
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2018年05月26日

批評における作者の復権。ノエル・キャロル「批評について」

批評における作者の復権。ノエル・キャロル「批評について」

ノエル・キャロル「批評について」を読む。キャロルが批判の対象にするのはテクスト論、エクリチュール論などに代表されるポストモダン批評である。(キャロルの言葉に直せば「受容理論」「読者反応批評」)

この本で批判される批評理論を「テクスト論」という言葉に統一する。テクスト論とは

作者という主体が作品を書き上げる以上、作品はあくまで作者からのメッセージを読者に伝達するものだという近代以降の「作者=作品」という考え方を批判し、書かれたもの=「テクスト」は作者主体とは一切関係がない独立したものとする。作者と作品との連関を切断するという考えである。作者と作品の連関を切断することにより、作品は作者からの一方的な伝達という役割を終え、テクストは無限の多様性を手に入れることができるのだ。これをロラン・バルトは「作者の死」といった。テクスト論の肝である。

このテクスト論の問題点は、ある作品に無限の解釈ができるとすれば「価値決定」ができなくなるということにある。つまりその作品の良し悪し、美醜はすべて観賞者の主観によって決まり、一般的基準は存在しない。基準が存在しないということは「批評」はこの世に存在せず、すべてはひとりひとりによる主観的「感想」にしかすぎなくなる。テクスト論にはこの「価値決定不能性」という難点がある。

キャロルはこの長年にわたり批評理論を支配してきたテクスト論にメスを入れる。

キャロルは言う。批評には一般的基準があり、基準がある以上、客観的批評は存在すると。

その基準で重要なのは「分類」=カテゴライズである。

批評対象となる作品がどんな様式運動や形式に属しているか。歴史的、社会的文脈をさぐれば、ほぼ確実にその作品がどの時代のどの作品群の文脈に属しているか分類できる。

そして適切なカテゴリーに分類することができれば同一作品群と「比較」することが可能になる。

「比較」できるということは良し悪しの判断「価値決定」ができるということでもある。「比較」こそ「批評」という「価値決定」の基準そのものなのだ。

そしてさらに重要なこと

「芸術家は自分の作品をそうしたカテゴリー、伝統、分類に結びついた目的を追求するものとして意図しているのだろう」(P103-104)


そうしたカテゴリーの目的を達成しようとする「作者の意図」その情報が当の作品の成功の度合いを測るために用いられる。

例えば「ミステリ小説」の場合。作者がミステリというカテゴリーに属する作品を書いた場合、作者の意図は「誰が?(フーダニット)」「どうやって?(ハウダニット)」「なぜ?(ホワイダニット)」などを読者の意表をつく形で表現できるかどうか。そうした作者の意図が達成されればそのミステリは成功といえるのだ。

テクスト論の核には「作者の意図など読者が理解することは絶対的に不可能」というものがある。

しかしキャロルは作者には読者(観賞者)に理解してもらいたいというコミュニケーションが基盤にあるという。

「作品のあらゆる要素は作家が最終産物の中にその要素の存在を容認したという意味で少なくとも意図的なものだ」(P202)


テクスト論では作者と作品は切断されているので、どのような解釈も自由だとされるが、芸術がコミュニケーションである以上「作者の意図」を無視して勝手に批評することは不当なものとなる。それが他者とのコミュニケーションであれば私たちは道徳的責任に縛られることになるのであり、作者や歴史的文脈を完全に無視した解釈は不当な行為となるのである。

ノエル・キャロル批評理論の簡単な要約

@作品を適切に分類する(特定ジャンルに位置づける)

A作品のおかれた文脈を理解する

B作者の意図がわかる

Cその意図の成功の度合いで作品の良し悪し(価値決定)が決まる

こうしたキャロルの批評理論には無数の反論が寄せられることだろう。例えば、ヨーロッパ中世の絵画や彫刻などは教会や貴族からの注文で、その権威を増すために作られたものである。となるとミケランジェロの作品は、つまり彼の意図は教会や貴族の権威を増すことにあり、その意図がどれだけ達成されたかで、ミケランジェロの作品の価値が決定されるとでもいうのだろうか。

また「ロリータ」などで知られるナボコフの文学理論をおおざっぱにいえば「文学が社会的、政治的メッセージであることを拒否すること。作品の本質は社会の中にはなく、作品自体の中にしかない」というものだ。ではナボコフ作品の成功と批評とは、どれだけナボコフの作品が社会的、政治的文脈とは関係ないものなのかを分析することにあるとでもいうのだろうか。

テクスト論に慣れ親しんだ世代にはキャロルの批評理論はあまりにも違和感の強いものかもしれない。なぜならそれは彼らポストモダン派が完全に否定したはずの「作者の復活」をもくろむものだからである。

しかし作品をカテゴライズし比較対照することはほとんどの批評家が賛成できることであろうし(例えばアガサ・クリスティーを純文学作品と比較することはカテゴリーミスとなる)、またカテゴライズするには広範な社会的、歴史的、制度的な文脈を知る必要があり、当然それを知ること=学ぶことが批評家に求められる。それは批評家に文化批評の責任とリスクが生じるということでもある。当たり前のことだが批評家は主観的感想家ではなく、あらゆる文化的歴史的社会的教養が必要とされるのである。

ただ注意してほしいのは、批評理論を学びたいというときにいきなりこの本からはじめるのはお勧めしない。キャロルの批評理論は「作者=作品」が自明のものだった近代の批評理論をひっくり返した「テクスト論」を標的にし、再度「作者の意図」を理論づけ復活させたという歴史的経緯を知ってはじめて理解できるものだからである。この本を読む前に作品における「価値決定」の問題をより深く思考した本をいくつかあげるので参考にしてほしい。

ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」
ウンベルト・エーコ「エーコの文学講義」
加藤典洋「テクストから遠く離れて」

これらの本を読めば批評という「価値決定」の深さと困難さがより理解できるようになるだろう。
posted by シンジ at 17:32| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

アウトレイジ最終章のすべての疑問に答える。

アウトレイジ最終章のすべての疑問に答える。

太刀魚

太刀魚は港や堤防で釣る場合は夜間、灯りのある場所でしか釣れない。その太刀魚がまっ昼間海面に浮かび上がるのは「場違い」でしかない。花菱会の内部抗争に場違いにも首を突っ込んでいく大友(ビートたけし)の姿そのものとはいえないだろうか。


アウトレイジシリーズのオープニングを必ず飾る黒塗りの車。これはわざわざ指摘するまでもなく「棺桶」である。車の連なりはヤクザどもの葬列に他ならない。黒のボディは闇の中、「死」からこちらを招いている。しかしこうしたヤクザどもの葬列に連ならない車は死を拒絶するかのようにかならず白いボディに輝いている。最終章ではチャン会長(金田時男)の車がそれである。

三千万円

花菱の中田(塩見三省)と花田(ピエール瀧)がチャン会長に謝罪に行くと逆に三千万円もたされて「増えてもうたがな・・・」というギャグのような場面がある。これはアウトレイジ一作目にもあったぼったくりバーの店員に百万円持ってかえらせるのと同じ意味。すなわち「因縁」をつけているのである。相手に因縁を付け、相手に非があることにさせ、相手に「負い目」を背負わせること。ヤクザ流のマウンティングといってもいい。そうしたヤクザ独特の因縁の付け方をお金を持たせて帰らせるというユーモラスな方法で描いたのだ。(北野武監督によれば三千万円に三千万円つけて帰らせるのは本当は六千万円持って来いという意味だったそう。ー産経新聞インタビューより

大友の動機と目的

さて大方の人が思い悩むのは今作品での大友の位置づけだろう。いったい大友の動機は?目的は何なのか。なぜあれほどまでに大勢の人を殺戮するのか。
最終章で描かれるのはおもに花菱の内部抗争、すなわちヤクザどもの醜いエゴと欲得づくの争いだが、大友だけはまったく別のルールで動いている。ひとつは済州島でチャン会長の部下が花田に殺されたことの敵討ち。もうひとつは前作アウトレイジビヨンドで殺された兄弟分の木村(中野英雄)の敵討ち、これだけである。

映画の後半部、映画的にはまったく蛇足でしかないにもかかわらず、前作で殺された木村の仇をとるために、もはや堅気となり、うらびれた工場で働く男を殺害する大友。他の殺害シーンとは違い、静かなロングショットで映画的にも物語的にもほとんど何の意味もないシーンのようであるが、あの静謐なシーンこそ弟分の木村の葬送と哀悼のシーンだったのだ。大友としてはこれだけがやりたかったのであり、あの場面こそ己の感情のままに動いてきた大友自身のクライマックスだったのである。

ひとつの物語の中で他の組織とはまったく別のルールで行動している大友の存在が「浮いている」のは当然で、大友だけが欲得抜きの「私情」のみで動いている。しかも大友は欲得抜きで行動するがゆえに他の組織からは利用されやすい存在でもある。山王会の五味(光石研)は木村組の跡を継いだ吉岡(池内博之)を大友に殺させ、花菱の西野(西田敏行)もまた大友を利用できる駒として扱う。まるで昼間の水面にのこのこと浮かび上がり、釣り人の格好の餌食となる場違いな太刀魚のように。

病み衰えた西野=西田敏行と中田=塩見三省

前作でど迫力の暴力装置として機能していた西野と中田だが、演じる西田敏行と塩見三省は映画撮影前に重い病に倒れてしまう(頸椎亜脱臼と脳出血)。二人とも死に瀕するほどの重篤な症状であり後遺症も残っている。この二人の病によって北野監督は映画の方向性に変更を迫られることになっただろう。

塩見三省は病み衰えた姿を北野武に見せる日のことを日記に書いている。

衣裳合わせの日を迎えた昨年の6月23日、北野監督にこの身体をただただ見てもらう気持で、杖をついて部屋に入る。四年ぶりに監督に会えた。そして目を合わせるところまできた。

「こんな身体になりました……」
しかし北野監督はなにも聞こえなかった様に、平然と、
「じゃー塩見さん、よろしくね。」と。
「……」

鳥肌がたった。これが始まりである。その時、僕は目の前の北野武監督、その人に、その人と自分の心の中で約束した。

この仕事は、演技が上手いとか、良い芝居をするなんてことはズコッと外して、ただ、毎日の撮影に、ある覚悟をして望みます、と。
http://shiomisansei.jp/note.html


北野武はこのとき病み衰えた塩見の姿を見てシナリオを変更することを考えたのではないだろうか。西野と中田を前作のように凄みのある暴力装置としてはもう使えない。ではどう変えるのか?それは俳優の身体性と物語とを重ね合わせるように変えるのだ。

アウトレイジと身体性

アウトレイジシリーズが北野武のフィルモグラフィーのなかでも異色なのは、アウトレイジ以前と以後とでは演出が違うということがあげられる。アウトレイジ以前の北野映画では俳優に演技らしい演技は求められず、何もせずに突っ立っているだけでいい。棒読みでボソボソしゃべるだけでいい、といったように北野武にとって俳優とは単なるオブジェにすぎなかった。

たけしさんには「役者の演技を褒められても映画の価値に繋がらない」という頑なな姿勢が、初期に見られました。でもそれは逆に言うと、役者に任せられなかったということ。撮りたいものを実現するために役者に芝居されちゃかなわないという一種の、作家性たるゆえんみたいなところでのこだわりがあったと思うんですね。ー森昌行プロデューサー「北野武監督の崖っぷちと『アウトレイジ』3部作の真実 - オフィス北野社長・森昌行P、同志の告白」


しかしアウトレイジでは演技は俳優の自由裁量にまかせられ、アドリブも許されるようになった。例えばアウトレイジ1作目で有名な山王会の関内(北村総一郎)が加藤(三浦友和)の頭をひっぱたくシーンは北村のアドリブだったことは知られている。また西田敏行は本番一発撮りという北野組の異様なルール(よほどのミスがない限りリテイクはしない)の中でもアドリブを連発して他の共演者を異常な緊張状態へと追い込んだという。こうしたことはアウトレイジ以前の北野映画ではありえなかった。

こうした俳優の自主性にまかせる演出とリテイクの許されない本番一発撮りは必然的に作品の質を俳優の身体性が負うようになる。アウトレイジ一作目は椎名桔平の匂い立つような色気が支配していたように、アウトレイジビヨンドでは老いて疲れ果てた北野武の身体性が大友の存在を亡霊のように見せていた。

そして最終章では現実に重い病に倒れた西田と塩見の衰えた姿が作品に重くのしかかる。前作で恫喝装置として機能していた中田は西野や花菱会長の野村(大杉漣)、チャン会長の右腕、李(白竜)に翻弄されるがままの弱々しい姿をさらけだす。

西野はほとんどのシーンで椅子に座った状態でしか描かれず、大友と駐車場の屋上で対峙する場面では車の中から顔をのぞかせる西野の顔は青ざめ、まるで幽鬼のような、死者そのもののような相貌をおびている。

俳優の現実の身体性にその作品の質を負わせるアウトレイジシリーズ。西田敏行と塩見三省の病み衰えた姿を北野武が見たときから、当初からの映画の方向性が変わるのは避けられなかったに違いない。

なぜ大友は西野を殺さないのか?

この作品で大方の人が納得せず、不満に思うのが、なぜ大友は花菱会の西野を殺さないのかということではないだろうか。アウトレイジシリーズでヤクザ世界を引っ掻き回す存在「ゲームマスター」こそがこのシリーズの諸悪の根源である。ヤクザ世界を一段高みから見下ろし、混沌に陥れる存在。一番悪い奴といってもいい「ゲームマスター」。(アウトレイジにおけるゲームマスターに関しての詳しい解説は「アウトレイジビヨンド完全読解」に書いてあります。http://runsinjirun.seesaa.net/article/297523933.html

前作アウトレイジビヨンドではそうしたゲーム全体をあやつるゲームマスターを演じたのが片岡(小日向文世)である。片岡はヤクザではなく警察という立場からこのヤクザゲームをあやつるがゆえにゲームの盤面上には存在しない無敵の存在であった。だからこそ死者として復活した大友だけが片岡を殺すことが出来たのである。

アウトレイジ最終章でこのゲームマスターたりうる資格をもっているのは西野だ。なぜなら西野は物語中死んだ(と見せかけた)からである。擬似的に死んだことによりゲームの盤面から消え失せた西野はゲーム全体を動かすゲームマスターとしての資格を得た。そしてアウトレイジシリーズの常である一番悪い奴=ゲームマスターは殺されなければならないという資格も得たわけだ。
(実はチャン会長もヤクザではないがゆえにゲームマスターの資格を持っているのだが、やはりヤクザではないので積極的には抗争に関わろうとしない超越的な存在である。)

しかしあろうことかここでは大友はアウトレイジビヨンドのようにゲームマスター西野を殺せなくなっている。なぜなら大友はチャン会長と死んだ木村の私情の鎖に繋がれてゲームの盤面上にとどまっているからだ。ゲームの盤面上につながれている限り、ゲームをコントロールするゲームマスターを殺害することは出来ない。大友は西野を殺せばチャン会長に迷惑がかかるという義理立てゆえに西野を殺すことができないのである。

パーティ会場での大虐殺

そのかわりに大友がなしたことは「河野くんを励ます会」にて花菱会の若手から中堅の構成員を皆殺しにすることだった。私情によってゲームにつなぎとめられた大友はゲームマスター西野を殺すことは出来ない。だが、西野から野村会長を殺せという口実を得た大友はどさくさにまぎれ花菱の構成員をごっそり削ることにより、このヤクザゲームの連綿と続く円環構造に楔を打ったのである。花菱に残るのは病み衰えた西野や中田、その他高齢のヤクザどもだけだ。花菱の天下も長続きはせず先細りしていくだけだろう。

ウロボロスという言葉がある。「尾を飲み込む蛇」という意味のギリシア語だ。ヤクザ世界は尾を飲み込む蛇のような円環構造にある。ヤクザが別のヤクザを食いものにしてさらに別のヤクザがまた別のヤクザを食いものにするウロボロス構造。

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もし大友が西野を殺すことができたとしても西野の次の跡目はすぐに決まり、醜悪なウロボロス構造が続いていくだけだったろう。そこで大友はヤクザ世界に供給されつづける「尾」自体を無くすことにしたのだ。それがパーティでの大虐殺の意味である。西野と中田が食らう尾自体を無くせば、蛇の頭は餓死するしかない。西野と中田=病み衰えた西田敏行と塩見三省の身体性を、餓死する蛇の頭に擬することによって、そう遠くない花菱会の崩壊を暗示する。これが俳優の身体性が作品の質を負うという意味だ。

北野武が撮影前に西田敏行と塩見三省の姿を見たときからすでに彼らの生身の身体性を、飲み込む尾をなくし餓死するしかない蛇の頭に擬する方向転換が行われていたのかもしれない。

大友の死

大友の中ではチャン会長に迷惑をかけたので自ら責任を取って死ぬという意味合いがあるだけだろうが、シリーズ全体を見てきたものだけがわかる象徴的意味というものがある。
アウトレイジ一作目では、仲間の復讐に立ち上がることもなく、なすすべもなく警察に逮捕されて「逃げる」大友の姿を描いた。「逃げる」ことでしかこの馬鹿げたヤクザの「尾を飲み込む蛇」的円環構造から抜け出すことができなかったからだ。

最終章では逮捕されることも、誰かに殺されることもウロボロス的ヤクザ世界の構造に殉じるだけでしかない。このウロボロス構造から完全に抜け出すには自決しかない。

死にゆく大友が一瞬の走馬灯としてみた光景は昼間に釣り上げられた太刀魚。暗い泥の底から海面に浮かび上がる場違いの太刀魚の姿だ。それはシリーズ一作目から最終章にいたるまでヤクザゲームのルールに踏みにじられ、なじめずにいた場違いな大友そのものではないだろうか。
posted by シンジ at 17:00| Comment(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする