2012年01月17日

ことばが受肉する・園子温「ヒミズ」

最初はこの映画「ヒミズ」にのれなかった。いや、最初どころか最後の直前までのれなかった。ここに描かれている苦悩が絵空事にしか思えなくて。もちろん親に虐待されている子供たちは世界中にごまんといるのだから、それ自体は絵空事ではないにしろ、少なくともこの映画に描かれていることは嘘だとしか感じられなかった。

そうした嘘くささは、人生は灰色一色に染められているという思い込みからくる傲慢からきていると思う。実際の人生は明るい色もあれば暗い色もあるようにまだらのように様々な色がグラデーションとなっている。人生は灰色一色に塗り込められていると考える人は、自分とその周りにしか世界がないと思いこんでいるモノローグ的生を送っている人だ。(モノローグ的生については「スピノザ・園子温論」を参照

モノローグ的生を生きる人にとって関心があるのは自分だけでしかない。だから震災や津波、原発被害も自分のモノローグ的苦悩を際立たせる道具でしかない。津波被害をきっかけにモノローグ的苦悩から脱却しようというのではなく、ますます自分という牢獄に引きこもるだけ。津波も原発も外の世界にある苦悩でしかない。

園子温はそのフィルモグラフィで散々モノローグ的生を描いてきた。おそらく園子温にとって独立した「個人」であること、「個的」であることがなによりも重要で大切なことなのだろう。自由で独立した個人にとっての敵は社会であり、共同体であり、家族なのだ。

自由で独立した個人を抑圧するのは家族であり=「紀子の食卓」。社会であり=「恋の罪」。カルト的な共同体である=「愛のむきだし」

園子温映画では社会も共同体も家族も、公認され慣習化したカルトでしかない。

自由で独立した個人は「私」を抑圧し共同体に組み込もうとする他者たちを一切拒絶する。神々しいまでの「個」、はなばなしくも枯れ果てるしかない「個」。

世界や他者のすべては、このはなばなしく枯れ果てるしかない個人の苦悩を引き立てる道具としてしか存在を許されない・・・それってむなしくないか。

・・・そう思っていたその時だった。私の心が映画から離れかけていた終盤、それが起こった。

二階堂ふみ演じる茶沢が、映画の前半、教師が授業で話した空々しく薄っぺらな言葉とまったく同じ言葉を繰り返す。「世界に一つだけの花」「がんばれ」おそらくほとんどの人がその薄っぺらさに寒気がするであろう形骸化した言葉が、信じられないことに生きたことばとなるのだ。

言葉が、あの言葉でしかない言葉が「受肉」する瞬間を私たちは目撃する。

完全に死んだと思われていたことばが生き生きとした生命をまとって姿を現す衝撃。ことばが「受肉」したというのは誇張でも比喩でもない。

ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。ーヨハネによる福音書1・14


今ならこのことばの意味がはっきりとわかる。ロゴス(ことば、知恵)が受肉して人の姿となってあらわれたのがかのイエス・キリストである。イエスは常に貧しく虐げられた人々の側に立ち、彼らと対話をかわすものだ。ことばが受肉するとは形骸化した言葉=モノローグが、生けることば=ダイアローグとなって人に届くことをいうのだ。

(そういう意味でもラスト直前の住田と茶沢が自分たちの幸福な将来を想像する感動的なシーンの後二人は愛し合わなければならなかったと思う。つまり住田はタイムマシンでもなんでもいいからあの場面に戻って茶沢を、二階堂ふみを抱け!と。あそこで抱かなきゃ自分の苦悩をえさにマスターベーション(=モノローグ)してるだけじゃねぇか。SEXこそダイアローグ的生の始まりだ。今すぐ抱け、リテイクしてでも抱け!)

この作品では空疎なモノローグ的生が受肉されダイアローグ的生へと転換するその端緒を見せてもらった。いわば園子温の過渡期的作品ととらえている。次回作に期待してやまない。

あとは・・・二階堂ふみを愛す、心から二階堂ふみを愛す。あんな娘がいれば男の子は自殺せずにすむんだよ。
fumi nikaidou.jpg
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2012年01月11日

2011年読んで面白かった本ベスト10

2011年読んで面白かった本ベスト10

10位「日本映画の時代」廣澤榮
日本映画黄金時代東宝の助監督だった廣澤榮氏が黒澤明や成瀬巳喜男の現場を活写する。「七人の侍のしごと」が面白いのは当然として、「成瀬巳喜男のしごと」が無類に面白い。成瀬の助監督だった石田勝心氏が「成瀬さんのメセンの芸だけは怖くて真似できない」というメセンの芸とは?「キャメラは常にフィックス、移動やパンはめったにない。画面内の人物が立ったり坐ったりするのをキャメラは追わない。その動作を見ている人物のメセンで表現する」。それを成瀬は中抜きで撮るのである。つまり「驟雨」では原節子が夫の佐野周二の動きを目線で追うカットだけをいっぺんに撮るのである。ああ恐ろしい・・・

9位「何も隠されてはいない」ノーマン・マルカム
ウィトゲンシュタインの直弟子マルカムが「論考」と「哲学探究」を比較していくところは退屈だけど、クリプキやコリン・マッギンのウィトゲンシュタイン解釈を批判するところは面白すぎる。マッギンなんてまったくウィトゲンシュタインを理解していないとバッサリ斬られている。俎上に載るマッギンの「ウィトゲンシュタインの言語論」は実に奇妙なウィトゲンシュタイン解釈で、ウィトゲンシュタインの「私的言語」や「規則に従う」は外在主義的に解釈するのが普通だと思うんだけど、マッギンはあくまで内在主義的に解釈する奇妙な本。あとは「心の哲学」がウィトゲンシュタイン的手法で一刀両断されていてすがすがしい。この本を読んで「心の哲学」に対する興味をなくした。

8位「映画を夢見て」小林信彦
小林信彦の60〜70年代エッセイをまとめたもの。60年代信彦の過激さ攻撃性は凄い!白坂依志夫や寺山修司への批判は批判を通り越してもはや罵倒である。有名な「仁義なき戦いスクラップブック」も収録。

7位「髪結い伊三次シリーズ」宇江佐真理
特にシリーズ1作目の「幻の声」は時代小説としても短編小説としても完璧。シリーズが下っていくにしたがって主役の世代交代があるんだけど、それには失敗していると思う。だってお文姐さんが出てこないと色っぽさ艶っぽさがなくなるもんなぁ・・・。でもシリーズが完結するまで付き合うつもり。

6位「消えた少年」東直己
東直己のススキノ探偵シリーズの最高傑作は映画化もされた「バーにかかってきた電話」だと思うけど、それ以外ならこれが一番。探偵と高田のコンビとしての魅力が一番良く描かれている。それに犯人の凄さは・・・これ映像化出来るもんなら映像化してみろと。

5位「ウィトゲンシュタイン」レイ・モンク
ウィトゲンシュタイン伝記の決定版。苦しみ悩みさまよい続けた一人の哲学者の人生と思考のすべてをあますことなく描き出す。たいていの哲学者はだいたい平凡極まりない人生を送ってるけど、彼だけは別。オーストリア一の大富豪の名家に生まれ、ヒトラーと同じ学校に通い、大金持ちなんだから兵役なんていくらでも忌避できたにもかかわらず最前線を志願し、英雄的な活躍で勲章をもらい、捕虜になった時収容所で「論考」を書き、バートランド・ラッセルに哲学の道に進むべきだと言われるも、「論考」で哲学の問題はすべて片付いたと確信したので、莫大な資産をすべて放棄し、小学校の教師になる。ところが生徒を殴って気絶させてしまい教師を首になり、絶望したので修道士になろうとしたが断られたので、そこの修道院の庭師になる・・・。ラッセルやムーアによりケンブリッジ大学に呼び戻される時、経済学者のケインズはこう書いている「ケンブリッジに神が来る」

4位「バウドリーノ」ウンベルト・エーコ
ファンタジーでもあり、ミステリ仕掛けやロード・オブ・ザ・リング的な壮大さもあるめくるめく冒険譚。そして一人のちっぽけな人間の絶望からの脱却を描いてもいる。幻想小説なんだけど、12世紀の中世がこれほど身近に、魅力的に感じられる小説はない。バウドリーノに関しては「バウドリーノ、エレクション、言語ゲーム」というものを書いた。

3位「マルドゥック・スクランブル」冲方丁
「マルドゥック・ヴェロシティ」もスクランブルに勝るとも劣らない傑作。「マルドゥック・フラグメンツ」は短編でも魅せる。つまり全部最高。冲方丁を読んだのはこれが初めてなんだけど、“どハマリ”しました。なんて言えばいいのか、ロジカルな山田風太郎といえばいいのか。重厚肉厚で緻密極まりないプロットに奇想天外な超人たちのアクション。読んでて震えるほど面白い。最終章の「マルドゥック・アノニマス」が楽しみすぎてつらい。つーかいつ頃刊行されるんだろう?

2位「わが母」ジョルジュ・バタイユ
バタイユの最高傑作じゃなかろうか。「眼球譚」も最高だけど、この息子に対する母親像は斬新。僕の母はエロティシズムを超えた死の化身、タナトスそのもののような母親だった。母親は息子に向かって言う「お前の誤りは退廃よりも快楽にひかれることです」まさにジュリエット(悪徳の栄え)のような母親とそんな母親を憎み恐れ愛する息子。

1位「神学・政治論」スピノザ
スピノザの最高傑作は「エチカ」かもしれないけど、読みやすさ、面白さ、衝撃度でいえばこれがベスト。読むたびに「おいおいこんなこと書いていいのかよ」「マジで!?」「嘘だろ・・・」と、あまりにも過激なのでびっくりする。どんなことが書いてあるかというと、徹底的に聖書を分析してそこに書かれてあることの虚妄を暴き出す。聖書で起こるさまざまな奇跡についてどう解釈するかについては、当時の民衆はおつむが弱かったので、奇跡という論法を使って大衆を驚かせ敬神を促し服従を強制したにすぎないとか。ユダヤ民族が神に選ばれた民族なんて嘘っぱち、それどころか民族性なるもの自体も幻想に過ぎないとか。聖書は馬鹿な民衆を服従させるためだけに書かれたのでおかしなところがいっぱいあること、改竄されまくりなことを実証的、論証的に暴き出している。それじゃあスピノザは聖書なんて捨ててしまえと言っているのかというと違う。たしかに聖書は迷信と嘘と改竄だらけだ。しかしそれでも二千年以上の長きに渡って改竄されなかったものがある。それが神への愛と隣人愛だ。隣人愛というのは近所の人を愛せとか友人や家族を愛せなんていうなまやさしいシロモノではない。自分とはまったく関係のない赤の他人、言葉のまったく通じない外国人、自分に害をなすかもしれない敵対者を隣人といい、彼らを愛せというのだ。スピノザがモーセよりイエスを高く評価するのはここにある。モーセは律法という外的基準に服従することが正しい信仰だとする。イエスはこれを否定し隣人愛という内的基準に従うことこそ真の信仰であるとしたのだ。スピノザがイエスを高く評価するのは民衆をモーセの律法の隷属から解放したことにある。このことはスピノザの国家観に即座につながる。つまり律法=国法に従うことを強制するのはただの隷属でしかない。国家を支えるためには強制ではなく、内側から来る信仰によって支えなければならない、それがスピノザの理想国家である。つまり国家は外的法(国法)と内的法(信仰)によって支えられてはじめて国家として成立する。そしてここからがスピノザの特異な点なのだが、ではその国家は何のために存在するのか?

俺様の自由のために存在するんだよおおおおぉぉぉ!!(江頭2:50風に)

国家の目的は最終的には自由にある。−神学・政治論第20章

自由といってもなんでもやっていい自由ではない(そこを誤解したのがスピノチストでもあったマルキ・ド・サドである)。スピノザのいう自由とは思想の自由、言論の自由のことである。聖書を徹底的に批判し、同胞であるユダヤ人を批判し、モーセを腐し、イエスを評価したのは隷属よりも信仰、信仰よりも国家を優先するがゆえである。そしてそんな国家の究極の目的は「俺が言いたいこと言える自由を守ること!」これが結論。凄いとしかいいようがない。

そのほかにも聖書のテキストの独特の読み方がある。たとえば

言葉は慣例によってのみ一定の意義がある。ー神学政治論第12章

これなんかはウィトゲンシュタインの言語ゲーム的な考え方だ。聖書が神聖なものとされてきたのは慣例であり、長い間の人間の習慣によってでしかないとスピノザはいう。そして聖書にとって重要なのはそこに書かれていることが真実かどうかではない。人に服従を促せられるかどうかだけが重要なのだ。これはようするに聖書のテキストの真理条件を問わない、つまり検証可能かどうかなんてどうでもいい。民衆が驚き、感動し、敬神を促されるようなメッセージさえあればそれでよいのだ。それこそが聖書の役目だというのだ。この考え方は必然的に聖書や信仰は国家を支える道具としての位置づけでしかないことを示す。                                                    

17世紀にこの本が与えたショックはすさまじく、スピノザは全方位的に大バッシングを受けた。この本を出したせいでスピノザはエチカの刊行をあきらめざるえなかった。ライプニッツもびびりまくってスピノザに影響を受けたことを隠し、当時危険思想家といわれたホッブズでさえも神学政治論を読んで「私にはこのような激しいことはとうてい書けない」と言ったという。その衝撃は21世紀の今もはっきりと伝わる。しかしこんな面白い本が、いっこうに復刊されないのはどういうことなのか?私は旧漢字仮名遣い1944年刊行のボロボロの本を読んだんだけど、岩波書店さん復刊してくれないか。

2012年の抱負・・・とにかくスピノザ「神学・政治論」の復刊。もしくは新訳でスピノザ全集の刊行。そしてウィトゲンシュタイン「哲学探究」の文庫化に期待。「論考」があれほど版を重ねているのを見るに、論考の1億倍面白い「哲学探究」が文庫化されれば大ヒット間違い無しではないでしょうか。「マルドゥック・アノニマス」は今年中は無理かな。あと映画ブログやめたい。
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2011年12月23日

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」

第3部「永遠の相のもとに」の続き

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」

私たち凡人は「永遠の相のもとに」認識することもできず、苦しみ続けるしかない。結局スピノザの思想は孤独なエリート主義でしかないのか。この第4部ではスピノザ思想の中核にはある根本的な危険がひそんでいることを示す。そしてスピノザ思想をつきつめた果てにはマルキ・ド・サドが、そして園子温がいることも。

スピノザ哲学の最重要概念はコナトゥス=自己保存本能、自己存続の努力である。何びとたりと各人の持つコナトゥスをおびやかすことは許されず、おびやかすものを排除することができる。これがスピノザの言う自然権である。

自然状態においてはすべての人の同意に基づいて善あるいは悪であるようないかなることも存在しないことを我々は容易に知りうる。なぜなら自然状態における各人はもっぱら自己の利益のみを計り、自己の意のままにかつ自分の利益のみを考慮して何が善であり何が悪であるかを決定し、またいかなる法律によっても自己以外の他人に服従するように義務づけられないからである。したがって自然状態においては罪過というものは考えられない。ーエチカ第4部定理37備考2


ここまでくるとコナトゥス=絶対利己主義となる。この考えからマルキ・ド・サドまではほんのわずかだ。

神の摂理は善におけると同様、悪においても価値をあらわすものであるということ。神がわたしたちのために創ってくれた状態は平等なのだからそれを乱そうとする者がそれを回復しようと努める者より罪があるとも言えたものじゃないわ。両者とも当たり前な衝動によって事を行っているのではあるし、両者ともこの衝動にしたがい目をつぶって享楽しなければならない運命を負っているのですからねーマルキ・ド・サド「ジュスチイヌあるいは淑徳の不幸」


しかしスピノザの言う利己主義を推し進めていくと、当然のことながら自他の利害が生じ、争いになるはず。しかしスピノザの最も奇妙なところは利己主義をつらぬくと利他主義になるという点だ。

むしろ彼は理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める限りにおいて共同の生活および共同の利益を考慮し、したがってまた国家の共同の決定に従って生活をすることを欲するのである。ーエチカ第4部定理73証明


つまり自分の利益を確保するために他人に便宜を図ること。自由と安全な生活を得るために他者たちー共同体の利益に配慮するという考え方。これを「堕天使の倫理」の佐藤拓司は「道具主義的解釈」と喝破する。他者を自分の利益のための道具=モノと考えるスピノザ的利己主義。そしてこの道具主義は必然的にこういう考え方をもたらす。

他人の幸福を自己の幸福のための道具として考えているかぎり、社会もまた自己のための道具としてのみ存在を許されるものとなる。それならば自分の利益と社会の利益が対立するような場合には、無条件で社会の利益を無視してよいではないか。これがマルキ・ド・サドの背徳主義を生み出す土壌となった。ー「堕天使の倫理」佐藤拓司


映画「恋の罪」の女たちにとって自分を抑圧するもの、自分の自由を奪うものはすべて自分以外の「他者」である。ならば自分の体を道具=モノと化しその「モノ」を使って「他者」を組み伏せれば「他者」は「モノ」となるではないか。「モノ」になりさえすればそれはもはや私と同じ人間ではない。ただの「モノ」が私を抑圧したり、私の自由を奪ったりすることができるはずもない。かくして女たちは自分以外はすべて「モノ」となった世界に住まう。

スピノザのコナトゥス=利己主義のなれの果ては18世紀マルキ・ド・サドに行き着き、さらに21世紀園子温にまで達したのである。

自分を抑圧し、自由を奪い取ろうとする他者=外部は消えてなくなり、自分一人だけが他の「モノ」どもを踏みにじって君臨することのできる世界の誕生。

あらゆるものすべてが彼の自我の内部に取り込まれ、外部が消え失せる。彼はその中の唯一の主体となる。この仮想空間でつかの間に味わう全能感。まさに堕天使のごとく自らが神となる。ー「堕天使の倫理」


サドと園子温映画の登場人物にはもはや他者が、外部がなくなり、すべては自分が利用することのできる「モノ」でしかなくなる。自我という「閉じた円環」の中での全能感。まさにサドや「冷たい熱帯魚」のでんでんにとって自分とは神であり、「恋の罪」の女たちも自分以外はすべて「モノ」と考えることによって神になろうとしたのである。そして当然のようにそのもくろみは無残な結果を招くことになる。サドはその生涯のうちほとんどを牢獄ですごし、精神病院に幽閉されたまま息を引き取る。園子温映画の登場人物はいわずもがなだ。

彼らスピノザの子供たち孫たちがなぜこのような無残なことにならざるをえなかったのか。マルティン・ブーバーはこうスピノザを批判している。

スピノザはかの浸透せるものから自由になるように、民衆の中の知識人の精神を手助けしたのである。独語的生に向かう西欧精神の傾向が彼によって決定的に促進されたのである。そしてこのことによって、精神一般の危機が促進されたのである。なぜなら精神は独語的生の空気のなかでははなばなしく枯れ果てねばならないからである。ーマルティン・ブーバー「ハシディズム」


ここでブーバーがいう「浸透せるもの」とは神の存在、神との対話性のことである。神との対話性とはすなわち「モノ」ではありえない絶対的他者との対話性のことだ。他者との対話性を失い、他者がモノとしか感じられなくなった時、それは閉じた円環としての自己、いつわりの全能感をもったまま、はなばなしく枯れ果てるしかない独語的=モノローグ的生となるしかないのだ。

「破門の哲学」の清水礼子も書いているとおり、初期スピノザの「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」や「知性改善論」には神や他者との「合一」という言葉が頻出する。彼がユダヤ社会から追放されて間もない頃(スピノザ24歳)書かれた著作には共同体から投げ出された不安と絶望から、神や他者との「合一」を狂おしいほど切実に希求したことがうかがえるのだ。だが、晩年の著作「エチカ」や「国家論」になると他者との「合一」という概念は消えうせる。自身の庇護者であったオランダの大政治家ヤン・デ・ウィットが民衆に虐殺され、スピノザ自身もユダヤ社会、キリスト教神学者、デカルト派(当時のリベラル派)から総攻撃を受けるなか、彼にとってもはや他者とは愚かで厄介なだけのシロモノでしかなくなってしまったのだ・・・。スピノザ哲学の厳格なまでの幾何学的秩序は一種の鎧である。誰一人自分を理解してくれる人もなく、周りはすべて敵だらけのなか、彼ら他者に一切付け入る隙を与えまいとするスピノザのかたくなな態度があのような厳密な哲学体系を構築させたのだ。

これがはなばなしくも枯れ果てるしかないスピノザのモノローグ的生の悲しい帰結です。それでも私がスピノザ、サド、園子温にのめり込むのは、私自身モノローグ的生に生きているからなのかもしれません。

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」Q・E・D・

これでスピノザ園子温論は終わりです。やっと終わった!
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2011年12月19日

スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」

第2部「コナトゥス善悪の彼方」からの続き

スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」

第2部の「コナトゥス善悪の彼方」では超越的普遍的価値などなく、盲目的なコナトゥス(自己存続の努力)は結局絶望でしかないのではないかと問うた。しかし本来スピノザは人間が最高の幸福にたどりつくまでの三つの認識の過程をエチカで示した。三つの認識とは、

第1種認識である表象知(表象=想像)。誤謬と錯覚にあふれた私たち凡俗が住まう苦しみに満ちた世界である。

第2種認識である理性知。身体性を基盤にした「共通概念」によって正しい認識をすることができる。

第3種認識である直観知。もはや推論も経験も必要としない。神の観念を直接つかむことができるようになる。

スピノザにとってこの直観知こそが最高の幸福なのだ。直観知とはまた「永遠の相のもとに」世界を観るということでもある。スピノザ「エチカ」の最重要概念「永遠の相のもとに」を読み解いてみよう。

永遠の相のもとに世界を知覚するとは、第3種認識、すなわち神の観念を直接つかむということだが、ここで注意しなくてはならないのは、スピノザのいう「神」は私たちがイメージする神とはまったく違うものであるということだ。スピノザの神はキリスト教の神とは違う、というかそれを神と呼んでいいのかさえわからないものを「神」と定義するのだ。スピノザにとって神とはキリスト教の神でも、超越的な存在でも、意志や知性を持つものでも、人格を持った絶対君主のような存在でもない。

スピノザの神とは、「因果関係の連鎖の網の目が無限に広がる必然性の世界」のことをいうのだ。それはまさに「神即自然」を意味する。自然と言っても草木のことではない。この私たちがよって立つ世界、全宇宙そのものを自然というのだ。

「永遠の相のもとに観る」とは、「私」はこの無限にはりめぐらされた因果の連鎖の中の一局所であるということを認識することに他ならない。ではそのことを認識した場合どうなるのか。「エチカ」で最も謎めいた難解な定理に行き着くことになる。

人間精神は身体と共に完全に破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。ーエチカ第5部定理23


このエチカ最大の難問を解いてみよう。スピノザのいう「永遠」とは時間のことではない。

永遠性とは持続や時間によっては説明されえないーエチカ第1部定義8説明


永遠は持続ではなく、したがって時間とは関係ないものである。つまり永遠性は時間を超越する。人が永遠の相のもとに世界を観るということは、時間を超越して世界を観るということになる。簡単に言えば、

今、私がここに存在していることが必然なら、1万年前同じ場所で誰かが産声を上げたのも必然であること。千年後今度は違う場所で誰かが生まれ、育ち、そして死ぬこともまた必然であること。地球上のことだけではない、遙か遠く宇宙のどこかで生命が誕生し、また死するのもすべてが必然なのだ。もはやそこに時間という概念はない。一切が同時に生起しはじめる。千年後も1億年前のことも、この全宇宙のすべてが同時進行しているのだ。そのことを理解することこそ「永遠の相のもとに観る」ことに他ならない。

この認識に達した人間はすでに時間と空間を超越している。永遠の相のもとに認識することとは、一瞬で永遠を理解すること。つまり私は一瞬で永遠を生きるのだ。

間違えてはならないのは、スピノザはエチカ第5部定理34備考で「自己の精神の永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じるのは誤りである」と言っている。つまり「私」が死後も存続することが精神の永遠性を意味しているのではない。永遠を認識することこそが時間と空間を超越し、永遠を生きることに他ならないのだ。

・・・しかしだ。私たち凡人にとって「永遠の相のもとに」認識するなどというのは、はっきりいって無理ではなかろうか。そんなことができるのは精神のエリートだけだろう。具体的に名前をあげるとしたら、それこそイエス、仏陀クラスのスーパーエリートだけだ。私たち凡人は第3種認識に達することもできず第1種認識の中でもがき苦しむほかない。

第3部「永遠の相のもとに」Q・E・D・

次はいよいよ最終回第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」です。やっと終わりますよ。ここまで読んだ人はいないと思いますけどね!
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2011年12月16日

スピノザと園子温第2部「コナトゥス・善悪の彼方」

スピノザと園子温第1部「身体性」からの続き

第2部「コナトゥス・善悪の彼方」

映画「恋の罪」の女たちは売春とSEXにより精神の隷属から逃れ出た。だが、逃れ出て解放された先には何があっただろうか。結論から言えば何もありはしないのである。ある方が「恋の罪」について「抑圧から解放されたんだからもっとカタルシスが欲しかった」と書いていたが、それこそがスピノザのいう目的論的な錯覚というのではないだろうか。

スピノザがその著書で繰り返し述べているのは「人は原因がわからないために、結果を原因と錯覚してしまう」ことだ。

すべての人は、自由を持つことを誇りますけれども、この自由は単に、人が自分の欲求は意識しているが自分をそれへ決定する諸原因は知らない、という点にのみあるのです。−スピノザ往復書簡集58


映画の場合「私を苦しめている抑圧から自由になりたい!」というのが行動の原因(目的因)であると錯覚されているにすぎない。ではいったい人がわからないがゆえに錯覚してしまう原因とは何か。スピノザはそれを自己保存本能、または自己存続の努力である「コナトゥス」であるという。

我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するーエチカ第3部定理9備考


第1原因であるコナトゥスが求めるものを人は善といい、正しいものというのであり、決して善だから正しいから人はそれを求めるわけではないのだ。これは必然的に抑圧からの解放=自由が目的ではないことを意味する。

抑圧からの解放=自由はコナトゥスが欲求したから善であり、正しいものとされただけで、自由が手に入れば、一転それはコナトゥスの欲求対象ではなくなるのだ。女たちは抑圧から解放されて「ああ、なんて幸福なの!」とはならない。手に入れた途端それは霧散するー欲求対象からはずれるのだ。

善いもの、正しいものは、超越的、普遍的な概念ではない。ただ人それぞれが欲望するもの、欲求するものを善いもの、正しいものと「呼ぶ」だけにすぎない。(人は自分が欲求しないものを悪いもの、正しくないものと呼ぶ)

女たちにとってその時は「自由」が善いものであり、正しいものだった。抑圧から解放されもはや自由が求めるものでなくなったとき、次にコナトゥスが求めるのが「束縛」であったなら、今度は女たちにとって「束縛」が善いもの、正しいものになる可能性すらあるのだ。

このことは恐ろしい現実をもたらす。彼女たちが欲望するものが彼女たちにとって善いものであるなら、それは必然的に、善・悪、真・偽、正・不正という一般的価値を超えるものとなる。つまり善・悪、真・偽、正・不正も彼女たち自身の内側から出る内在的意味しかなく、それは彼女たちにとって善なるものが他人にとっては悪となることもある、ということに他ならない。必然的に彼女たちは社会と対立し、外にはじき出されることになるだろう。

我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するーエチカ第3部定理9備考


さりげなくエチカの「備考」に書かれたこのなにげない一節こそが、スピノザ最大のコペルニクス的転回を世界にもたらす。

この一節は善・悪、真・偽、正・不正は神が定めた超越的な価値でもなければ、人間社会にそなわる普遍的な価値でもなく、コナトゥスが盲目的に求めるものが善であり、真であり、正であるという。善悪は内在的意味しかないのだ。

この世界には超越的、普遍的価値などない。つまりスピノザはこの一節で「神を殺害した」。なぜあれほどニーチェがスピノザに熱狂したのかがこれでわかる。

神は善悪を決定しない。神は超越的存在ではない。神には知性も意志もないと、スピノザは神をそう定義づけている。神は内在的存在であると。これは実質的に「神殺し」といっていい。

超越的・普遍的価値なき今、すなわち神なき現代。女たちのコナトゥスはただ盲目的に求め続ける。たとえ目的だと思っていたものを得られたとしても、得られた途端その得られたものは消え失せる。だが決して何かを求め続けるコナトゥスだけは消え失せることがない。求めるものが社会の倫理観をおびやかすものであろうと、それがコナトゥスの求めるものであるならば、彼女たちはそれを求めるだろう。

・・・しかし、これは絶望というものではないだろうか。スピノザは決してこのような絶望を思考したわけではない。スピノザが思考したのは最高の幸福とは何か、であったはずだ。

第2部「コナトゥス善悪の彼方」Q・E・D・

次回は第3部「永遠の相のもとに」・・・信じられないだろ・・・まだ続くんだぜ・・・・
posted by シンジ at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする