2018年12月26日

北野武の新作映画「首」は織豊時代のアウトレイジである

北野武の新作映画「首」は織豊時代のアウトレイジである

北野武監督の「アウトレイジ最終章」後の新作映画が決まったようだ。文藝春秋2019年1月号でのビートたけしと伊集院静との対談で明かしている。

たけし−いま、ずっと映画にしたいと構想している。本能寺の変を題材にした「首」って歴史物を、小説とシナリオで同時に進めてるんです。片っ端から史料を読んでノートを取るでしょ。そうすると、こんなに積み上がっちゃって。どうしていいか書きあぐねている感じですよ。

伊集院−ちょっとしたきっかけがあればそこから飛躍するのはあっという間ですよ。私も取材をするけれども、実際の小説は資料や聞いた話とは別に育っていくから。

たけし−今年は小説を六本書いちゃったんで、来年はしっかり「首」に集中しようかと思ってるんです。

伊集院−映画「首」は、いつ頃撮るご予定ですか?

たけし−「いだてん」(NHK大河ドラマ)が終わってからでしょうね。大河で俺は古今亭志ん生さんを演るんですけど、セリフは少ないんです。だいたい月二回の撮影で来年の九月までかかるのかな。(文藝春秋2019年1月号)


2019年9月以降撮影開始と予想される「首」とはずばり「織豊時代のアウトレイジ」である。この企画はもう十年以上前から北野武の口にのぼっては消える幻の企画だった。

北野武はつねにいくつかの映画企画を準備している人なのだが、「首」も企画はされるもののオフィス北野の森昌行元社長に却下される映画のひとつだった。

却下された映画企画の中には、たとえば障害者にピナ・バウシュ風のダンスを躍らせる時代劇だったり、のちに小説「アナログ」として結実した恋愛ものもあった。映画「首」も森昌行に却下されて日の目を見ないはずの映画だったのだ。

しかし事態は急転した。北野映画の企画をさまざまな理由で却下しつづけて、本人が撮りたくもないヤクザ映画の続編を二本も無理やり撮らせた元凶はもう存在しない。

北野武が本当に撮りたかった企画「首」がついに始動したのだ。ただ森昌行が「首」を却下した理由もわかる。映画「首」の内容を北野武監督自身の証言から追ってみよう。

豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。

でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。

その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。

それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。

それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。−北野武「やり残したこと」

まさに本人が話す内容から見ても「織豊時代のアウトレイジ」と呼ぶにふさわしい内容だ。だが織豊時代を描く、さらには高松城の水攻めや中国大返しを描くとなると莫大な予算がかかってしまう。森昌行が映画化に二の足を踏んだのも理解できる。

しかしどうやらこの「首」にGOサインが出たということはお金を出してくれるところが見つかったようだ。シナリオと同時に小説も書くということはその小説の出版社がお金を出してくれるのではないか。

そしてその出版社とは北野武の小説「ゴンちゃん、またね。」や「フランス座」を出版した文藝春秋社ではないだろうか。

同じ出版社である新潮社が映画「関ヶ原」に出資してそれなりの手ごたえを得た(興行収入24億円)ことも文藝春秋社には念頭にあったのではないか。そしてここで満を持して日本を代表する出版社が世界的巨匠の映画に出資するのだ。楽しみでならない。

北野武新作映画「首」見るまでは生きていようという気にもなるものだ。
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2018年09月05日

リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」を読む

リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」を読む

現在世界中で跳梁跋扈するイデオロギー、リベラリズムとグローバリズム。この二つの巨大な潮流を80年以上前に徹底的に批判したのがカール・シュミット(1888-1985)である。

シュミットのもっとも有名な政治理論「友敵論」が書かれた著作「政治的なものの概念」の中で標的にされるのがリベラリズムとグローバリズムなのだ。

シュミットにおいての「友敵論」の友と敵とは、すべての政治的関係の基盤にあるものだ。味方と敵=友と敵という現実可能性を無視する政治理論はシュミットにとって意味のないものだ。

友と敵は「主権」をもった政治的団体間の関係のことである。シュミットにとっての「主権」とは、「戦争」という現実の闘争の「危急事態」に際し「決断」できるものだけを「主権者」と呼ぶ。戦争などの危急事態=例外事態に決断を下すことができるものだけが「主権者」であり「主権団体」なのだ。

こうした主権をもつものだけが「政治的単位」と呼ばれる。したがって多元主義的な政治理論における中間団体=宗教団体、労働組合、家族、スポーツクラブなどは政治的単位とは認められない。

政治的単位とはあくまで例外状況における決断のできる主権を持った団体だけが政治的単位であり、友敵区別はこの政治的単位にのみ限られる。たとえこの友敵区別に反対し、非政治的であろうとしたり、中立であろうとしても、非政治的であることや中立であることに正当性や優位性を見出しているのであり、その時点でみずから友敵区別を実行しているのである。

こうした友敵区別からは必然的に「国家多元論」が生じてくる。友敵という基本的な政治関係にとって諸国家群の存在は必須であるからだ。そしてこの考えに基づけば「世界国家」などあってはならないものなのだ。

友敵の「敵」とは

「政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとは限らず、敵と取引するのが有利だと思われることさえおそらくはありうる」(政治的なものの概念P15)


シュミットにおいて「敵」とは「悪」ではなく、交渉も取引もできる相手である。しかしリベラリズムとグローバリズムは基本的政治的単位である友敵を無化し、友敵の基盤である「国家多元論」を認めず「世界統一国家」=グローバリズムを推進する。

リベラリズムとグローバリズムというイデオロギーは敵を敵とはみなさなくなり、敵を「非合法」「非人間的」な怪物としてしかあつかわない。

敵ならざるものが非人間的、非合法的な怪物である以上もはやそれは法律(デュープロセス)や人権を剥奪された「透明な怪物」として処理されるだけの存在となる。

これこそがリベラリズムとグローバリズムの落とし子=「ポリティカル・コレクトネス」の誕生である。「ポリティカル・コレクトネス」に反するものは法律によって裁かれる前に社会的に抹殺される。抹殺するのに確かな証拠や裁判や警察すらも必要でなくなるのである。

リベラリズムとグローバリズムは国家や政治的なもの=友敵を解体し、すべてを法律以前の「道徳」と「経済」に従属させる。リベラリズムとグローバリズムによる「世界の非政治化」(=「非友敵化」)はこの世界を「道徳」と「経済」による完全支配へと結実する。

この「道徳」と「経済」によって完全支配された世界、リベラリズムとグローバリズムが完遂された世界においてもはや「敵」は存在しない。リベラリズムとグローバリズムに反するものは非合法化、非人間化され抹殺されるだけの透明な存在に過ぎなくなる。

1932年に書かれたとは思えない恐るべき予言の書といっていいだろう。とくにリベラリズムとグローバリズムが法律を超える「道徳」と「経済」にすべてを従属させようとすると喝破したのは背筋があわ立つ思いがする。

この恐るべき予言の書がナチスの法学者であったカール・シュミットの手によって書かれたのは皮肉としかいいようがない。
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2018年05月26日

批評における作者の復権。ノエル・キャロル「批評について」

批評における作者の復権。ノエル・キャロル「批評について」

ノエル・キャロル「批評について」を読む。キャロルが批判の対象にするのはテクスト論、エクリチュール論などに代表されるポストモダン批評である。(キャロルの言葉に直せば「受容理論」「読者反応批評」)

この本で批判される批評理論を「テクスト論」という言葉に統一する。テクスト論とは

作者という主体が作品を書き上げる以上、作品はあくまで作者からのメッセージを読者に伝達するものだという近代以降の「作者=作品」という考え方を批判し、書かれたもの=「テクスト」は作者主体とは一切関係がない独立したものとする。作者と作品との連関を切断するという考えである。作者と作品の連関を切断することにより、作品は作者からの一方的な伝達という役割を終え、テクストは無限の多様性を手に入れることができるのだ。これをロラン・バルトは「作者の死」といった。テクスト論の肝である。

このテクスト論の問題点は、ある作品に無限の解釈ができるとすれば「価値決定」ができなくなるということにある。つまりその作品の良し悪し、美醜はすべて観賞者の主観によって決まり、一般的基準は存在しない。基準が存在しないということは「批評」はこの世に存在せず、すべてはひとりひとりによる主観的「感想」にしかすぎなくなる。テクスト論にはこの「価値決定不能性」という難点がある。

キャロルはこの長年にわたり批評理論を支配してきたテクスト論にメスを入れる。

キャロルは言う。批評には一般的基準があり、基準がある以上、客観的批評は存在すると。

その基準で重要なのは「分類」=カテゴライズである。

批評対象となる作品がどんな様式運動や形式に属しているか。歴史的、社会的文脈をさぐれば、ほぼ確実にその作品がどの時代のどの作品群の文脈に属しているか分類できる。

そして適切なカテゴリーに分類することができれば同一作品群と「比較」することが可能になる。

「比較」できるということは良し悪しの判断「価値決定」ができるということでもある。「比較」こそ「批評」という「価値決定」の基準そのものなのだ。

そしてさらに重要なこと

「芸術家は自分の作品をそうしたカテゴリー、伝統、分類に結びついた目的を追求するものとして意図しているのだろう」(P103-104)


そうしたカテゴリーの目的を達成しようとする「作者の意図」その情報が当の作品の成功の度合いを測るために用いられる。

例えば「ミステリ小説」の場合。作者がミステリというカテゴリーに属する作品を書いた場合、作者の意図は「誰が?(フーダニット)」「どうやって?(ハウダニット)」「なぜ?(ホワイダニット)」などを読者の意表をつく形で表現できるかどうか。そうした作者の意図が達成されればそのミステリは成功といえるのだ。

テクスト論の核には「作者の意図など読者が理解することは絶対的に不可能」というものがある。

しかしキャロルは作者には読者(観賞者)に理解してもらいたいというコミュニケーションが基盤にあるという。

「作品のあらゆる要素は作家が最終産物の中にその要素の存在を容認したという意味で少なくとも意図的なものだ」(P202)


テクスト論では作者と作品は切断されているので、どのような解釈も自由だとされるが、芸術がコミュニケーションである以上「作者の意図」を無視して勝手に批評することは不当なものとなる。それが他者とのコミュニケーションであれば私たちは道徳的責任に縛られることになるのであり、作者や歴史的文脈を完全に無視した解釈は不当な行為となるのである。

ノエル・キャロル批評理論の簡単な要約

@作品を適切に分類する(特定ジャンルに位置づける)

A作品のおかれた文脈を理解する

B作者の意図がわかる

Cその意図の成功の度合いで作品の良し悪し(価値決定)が決まる

こうしたキャロルの批評理論には無数の反論が寄せられることだろう。例えば、ヨーロッパ中世の絵画や彫刻などは教会や貴族からの注文で、その権威を増すために作られたものである。となるとミケランジェロの作品は、つまり彼の意図は教会や貴族の権威を増すことにあり、その意図がどれだけ達成されたかで、ミケランジェロの作品の価値が決定されるとでもいうのだろうか。

また「ロリータ」などで知られるナボコフの文学理論をおおざっぱにいえば「文学が社会的、政治的メッセージであることを拒否すること。作品の本質は社会の中にはなく、作品自体の中にしかない」というものだ。ではナボコフ作品の成功と批評とは、どれだけナボコフの作品が社会的、政治的文脈とは関係ないものなのかを分析することにあるとでもいうのだろうか。

テクスト論に慣れ親しんだ世代にはキャロルの批評理論はあまりにも違和感の強いものかもしれない。なぜならそれは彼らポストモダン派が完全に否定したはずの「作者の復活」をもくろむものだからである。

しかし作品をカテゴライズし比較対照することはほとんどの批評家が賛成できることであろうし(例えばアガサ・クリスティーを純文学作品と比較することはカテゴリーミスとなる)、またカテゴライズするには広範な社会的、歴史的、制度的な文脈を知る必要があり、当然それを知ること=学ぶことが批評家に求められる。それは批評家に文化批評の責任とリスクが生じるということでもある。当たり前のことだが批評家は主観的感想家ではなく、あらゆる文化的歴史的社会的教養が必要とされるのである。

ただ注意してほしいのは、批評理論を学びたいというときにいきなりこの本からはじめるのはお勧めしない。キャロルの批評理論は「作者=作品」が自明のものだった近代の批評理論をひっくり返した「テクスト論」を標的にし、再度「作者の意図」を理論づけ復活させたという歴史的経緯を知ってはじめて理解できるものだからである。この本を読む前に作品における「価値決定」の問題をより深く思考した本をいくつかあげるので参考にしてほしい。

ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」
ウンベルト・エーコ「エーコの文学講義」
加藤典洋「テクストから遠く離れて」

これらの本を読めば批評という「価値決定」の深さと困難さがより理解できるようになるだろう。
posted by シンジ at 17:32| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする