2017年10月13日

アウトレイジ最終章のすべての疑問に答える。

アウトレイジ最終章のすべての疑問に答える。

太刀魚

太刀魚は港や堤防で釣る場合は夜間、灯りのある場所でしか釣れない。その太刀魚がまっ昼間海面に浮かび上がるのは「場違い」でしかない。花菱会の内部抗争に場違いにも首を突っ込んでいく大友(ビートたけし)の姿そのものとはいえないだろうか。


アウトレイジシリーズのオープニングを必ず飾る黒塗りの車。これはわざわざ指摘するまでもなく「棺桶」である。車の連なりはヤクザどもの葬列に他ならない。黒のボディは闇の中、「死」からこちらを招いている。しかしこうしたヤクザどもの葬列に連ならない車は死を拒絶するかのようにかならず白いボディに輝いている。最終章ではチャン会長(金田時男)の車がそれである。

三千万円

花菱の中田(塩見三省)と花田(ピエール瀧)がチャン会長に謝罪に行くと逆に三千万円もたされて「増えてもうたがな・・・」というギャグのような場面がある。これはアウトレイジ一作目にもあったぼったくりバーの店員に百万円持ってかえらせるのと同じ意味。すなわち「因縁」をつけているのである。相手に因縁を付け、相手に非があることにさせ、相手に「負い目」を背負わせること。ヤクザ流のマウンティングといってもいい。そうしたヤクザ独特の因縁の付け方をお金を持たせて帰らせるというユーモラスな方法で描いたのだ。(北野武監督によれば三千万円に三千万円つけて帰らせるのは本当は六千万円持って来いという意味だったそう。ー産経新聞インタビューより

大友の動機と目的

さて大方の人が思い悩むのは今作品での大友の位置づけだろう。いったい大友の動機は?目的は何なのか。なぜあれほどまでに大勢の人を殺戮するのか。
最終章で描かれるのはおもに花菱の内部抗争、すなわちヤクザどもの醜いエゴと欲得づくの争いだが、大友だけはまったく別のルールで動いている。ひとつは済州島でチャン会長の部下が花田に殺されたことの敵討ち。もうひとつは前作アウトレイジビヨンドで殺された兄弟分の木村(中野英雄)の敵討ち、これだけである。

映画の後半部、映画的にはまったく蛇足でしかないにもかかわらず、前作で殺された木村の仇をとるために、もはや堅気となり、うらびれた工場で働く男を殺害する大友。他の殺害シーンとは違い、静かなロングショットで映画的にも物語的にもほとんど何の意味もないシーンのようであるが、あの静謐なシーンこそ弟分の木村の葬送と哀悼のシーンだったのだ。大友としてはこれだけがやりたかったのであり、あの場面こそ己の感情のままに動いてきた大友自身のクライマックスだったのである。

ひとつの物語の中で他の組織とはまったく別のルールで行動している大友の存在が「浮いている」のは当然で、大友だけが欲得抜きの「私情」のみで動いている。しかも大友は欲得抜きで行動するがゆえに他の組織からは利用されやすい存在でもある。山王会の五味(光石研)は木村組の跡を継いだ吉岡(池内博之)を大友に殺させ、花菱の西野(西田敏行)もまた大友を利用できる駒として扱う。まるで昼間の水面にのこのこと浮かび上がり、釣り人の格好の餌食となる場違いな太刀魚のように。

病み衰えた西野=西田敏行と中田=塩見三省

前作でど迫力の暴力装置として機能していた西野と中田だが、演じる西田敏行と塩見三省は映画撮影前に重い病に倒れてしまう(頸椎亜脱臼と脳出血)。二人とも死に瀕するほどの重篤な症状であり後遺症も残っている。この二人の病によって北野監督は映画の方向性に変更を迫られることになっただろう。

塩見三省は病み衰えた姿を北野武に見せる日のことを日記に書いている。

衣裳合わせの日を迎えた昨年の6月23日、北野監督にこの身体をただただ見てもらう気持で、杖をついて部屋に入る。四年ぶりに監督に会えた。そして目を合わせるところまできた。

「こんな身体になりました……」
しかし北野監督はなにも聞こえなかった様に、平然と、
「じゃー塩見さん、よろしくね。」と。
「……」

鳥肌がたった。これが始まりである。その時、僕は目の前の北野武監督、その人に、その人と自分の心の中で約束した。

この仕事は、演技が上手いとか、良い芝居をするなんてことはズコッと外して、ただ、毎日の撮影に、ある覚悟をして望みます、と。
http://shiomisansei.jp/note.html


北野武はこのとき病み衰えた塩見の姿を見てシナリオを変更することを考えたのではないだろうか。西野と中田を前作のように凄みのある暴力装置としてはもう使えない。ではどう変えるのか?それは俳優の身体性と物語とを重ね合わせるように変えるのだ。

アウトレイジと身体性

アウトレイジシリーズが北野武のフィルモグラフィーのなかでも異色なのは、アウトレイジ以前と以後とでは演出が違うということがあげられる。アウトレイジ以前の北野映画では俳優に演技らしい演技は求められず、何もせずに突っ立っているだけでいい。棒読みでボソボソしゃべるだけでいい、といったように北野武にとって俳優とは単なるオブジェにすぎなかった。

たけしさんには「役者の演技を褒められても映画の価値に繋がらない」という頑なな姿勢が、初期に見られました。でもそれは逆に言うと、役者に任せられなかったということ。撮りたいものを実現するために役者に芝居されちゃかなわないという一種の、作家性たるゆえんみたいなところでのこだわりがあったと思うんですね。ー森昌行プロデューサー「北野武監督の崖っぷちと『アウトレイジ』3部作の真実 - オフィス北野社長・森昌行P、同志の告白」


しかしアウトレイジでは演技は俳優の自由裁量にまかせられ、アドリブも許されるようになった。例えばアウトレイジ1作目で有名な山王会の関内(北村総一郎)が加藤(三浦友和)の頭をひっぱたくシーンは北村のアドリブだったことは知られている。また西田敏行は本番一発撮りという北野組の異様なルール(よほどのミスがない限りリテイクはしない)の中でもアドリブを連発して他の共演者を異常な緊張状態へと追い込んだという。こうしたことはアウトレイジ以前の北野映画ではありえなかった。

こうした俳優の自主性にまかせる演出とリテイクの許されない本番一発撮りは必然的に作品の質を俳優の身体性が負うようになる。アウトレイジ一作目は椎名桔平の匂い立つような色気が支配していたように、アウトレイジビヨンドでは老いて疲れ果てた北野武の身体性が大友の存在を亡霊のように見せていた。

そして最終章では現実に重い病に倒れた西田と塩見の衰えた姿が作品に重くのしかかる。前作で恫喝装置として機能していた中田は西野や花菱会長の野村(大杉漣)、チャン会長の右腕、李(白竜)に翻弄されるがままの弱々しい姿をさらけだす。

西野はほとんどのシーンで椅子に座った状態でしか描かれず、大友と駐車場の屋上で対峙する場面では車の中から顔をのぞかせる西野の顔は青ざめ、まるで幽鬼のような、死者そのもののような相貌をおびている。

俳優の現実の身体性にその作品の質を負わせるアウトレイジシリーズ。西田敏行と塩見三省の病み衰えた姿を北野武が見たときから、当初からの映画の方向性が変わるのは避けられなかったに違いない。

なぜ大友は西野を殺さないのか?

この作品で大方の人が納得せず、不満に思うのが、なぜ大友は花菱会の西野を殺さないのかということではないだろうか。アウトレイジシリーズでヤクザ世界を引っ掻き回す存在「ゲームマスター」こそがこのシリーズの諸悪の根源である。ヤクザ世界を一段高みから見下ろし、混沌に陥れる存在。一番悪い奴といってもいい「ゲームマスター」。(アウトレイジにおけるゲームマスターに関しての詳しい解説は「アウトレイジビヨンド完全読解」に書いてあります。http://runsinjirun.seesaa.net/article/297523933.html

前作アウトレイジビヨンドではそうしたゲーム全体をあやつるゲームマスターを演じたのが片岡(小日向文世)である。片岡はヤクザではなく警察という立場からこのヤクザゲームをあやつるがゆえにゲームの盤面上には存在しない無敵の存在であった。だからこそ死者として復活した大友だけが片岡を殺すことが出来たのである。

アウトレイジ最終章でこのゲームマスターたりうる資格をもっているのは西野だ。なぜなら西野は物語中死んだ(と見せかけた)からである。擬似的に死んだことによりゲームの盤面から消え失せた西野はゲーム全体を動かすゲームマスターとしての資格を得た。そしてアウトレイジシリーズの常である一番悪い奴=ゲームマスターは殺されなければならないという資格も得たわけだ。
(実はチャン会長もヤクザではないがゆえにゲームマスターの資格を持っているのだが、やはりヤクザではないので積極的には抗争に関わろうとしない超越的な存在である。)

しかしあろうことかここでは大友はアウトレイジビヨンドのようにゲームマスター西野を殺せなくなっている。なぜなら大友はチャン会長と死んだ木村の私情の鎖に繋がれてゲームの盤面上にとどまっているからだ。ゲームの盤面上につながれている限り、ゲームをコントロールするゲームマスターを殺害することは出来ない。大友は西野を殺せばチャン会長に迷惑がかかるという義理立てゆえに西野を殺すことができないのである。

パーティ会場での大虐殺

そのかわりに大友がなしたことは「河野くんを励ます会」にて花菱会の若手から中堅の構成員を皆殺しにすることだった。私情によってゲームにつなぎとめられた大友はゲームマスター西野を殺すことは出来ない。だが、西野から野村会長を殺せという口実を得た大友はどさくさにまぎれ花菱の構成員をごっそり削ることにより、このヤクザゲームの連綿と続く円環構造に楔を打ったのである。花菱に残るのは病み衰えた西野や中田、その他高齢のヤクザどもだけだ。花菱の天下も長続きはせず先細りしていくだけだろう。

ウロボロスという言葉がある。「尾を飲み込む蛇」という意味のギリシア語だ。ヤクザ世界は尾を飲み込む蛇のような円環構造にある。ヤクザが別のヤクザを食いものにしてさらに別のヤクザがまた別のヤクザを食いものにするウロボロス構造。

220px-Ouroboros.png

もし大友が西野を殺すことができたとしても西野の次の跡目はすぐに決まり、醜悪なウロボロス構造が続いていくだけだったろう。そこで大友はヤクザ世界に供給されつづける「尾」自体を無くすことにしたのだ。それがパーティでの大虐殺の意味である。西野と中田が食らう尾自体を無くせば、蛇の頭は餓死するしかない。西野と中田=病み衰えた西田敏行と塩見三省の身体性を、餓死する蛇の頭に擬することによって、そう遠くない花菱会の崩壊を暗示する。これが俳優の身体性が作品の質を負うという意味だ。

北野武が撮影前に西田敏行と塩見三省の姿を見たときからすでに彼らの生身の身体性を、飲み込む尾をなくし餓死するしかない蛇の頭に擬する方向転換が行われていたのかもしれない。

大友の死

大友の中ではチャン会長に迷惑をかけたので自ら責任を取って死ぬという意味合いがあるだけだろうが、シリーズ全体を見てきたものだけがわかる象徴的意味というものがある。
アウトレイジ一作目では、仲間の復讐に立ち上がることもなく、なすすべもなく警察に逮捕されて「逃げる」大友の姿を描いた。「逃げる」ことでしかこの馬鹿げたヤクザの「尾を飲み込む蛇」的円環構造から抜け出すことができなかったからだ。

最終章では逮捕されることも、誰かに殺されることもウロボロス的ヤクザ世界の構造に殉じるだけでしかない。このウロボロス構造から完全に抜け出すには自決しかない。

死にゆく大友が一瞬の走馬灯としてみた光景は昼間に釣り上げられた太刀魚。暗い泥の底から海面に浮かび上がる場違いの太刀魚の姿だ。それはシリーズ一作目から最終章にいたるまでヤクザゲームのルールに踏みにじられ、なじめずにいた場違いな大友そのものではないだろうか。
posted by シンジ at 17:00| Comment(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月11日

なぜ映画ジョジョの奇妙な冒険と東京喰種は失敗したのか?「進撃の巨人トラウマ」という背景

なぜ映画ジョジョの奇妙な冒険と東京喰種は失敗したのか?「進撃の巨人トラウマ」という背景

日本の映画界は近年漫画原作に頼るのが常だ。理由はオリジナル作品や原作が小説の場合、客がどれくらい入るかまったく読めないのに対し、すでに数百万部、数千万部も売れている漫画原作は、映画会社上層部にプレゼンしやすく、製作委員会方式なら金も集まりやすい。わかりやすい「数字」が見える以上成功もたやすいと考えられているわけだ。

なかでも漫画として1億部以上売れているジョジョの奇妙な冒険や1800万部以上売れている東京喰種(グール)は熱狂的なファンが多い超人気作であり、映画化に期待されていた今年一番の注目作であったことは間違いない。JOJOなら東宝とワーナーが組むという異例の体制での大作であり、東京グールは松竹史上でも最大の予算をかけたと喧伝される大作だ。

だがしかし、こうしたメジャー映画会社の鳴り物入りの企画がまさかここまで無残に失敗するとは誰が予想しえたであろうか。

JOJOの奇妙な冒険の興行収入初動(土日二日間)は動員11万7000人、興収1億6600万円、ランキング5位だった。初動1.6億円がどういうことかを簡単に説明するとほぼ確実に最終興収10億円に届かない目も当てられない大失敗ということになる。

東京グールは初動が16万6000人、興行収入約2億3200万円、ランキング5位。この数字は悪くないように思えるが、なんと公開2週目はベスト10圏外という異常事態。これも興収10億円には届かずに終わる可能性が高い。大惨敗といっていい。JOJOもグールも映画会社は興行収入30億円以上を当て込みシリーズ化をもくろんでいたはずなのに。

いったいなぜこのような興行的惨敗が起きたのか?まず映画公開前の問題点をあぶりだしてみよう。

特にJOJOに顕著なのだが、本来映画の口コミの火付け役=アーリーアダプターとなるべき原作ファンが映画製作発表時に一斉に敵に回ったことが誤算中の誤算だった。

・アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者):流行に敏感で、情報収集を自ら行い、判断する人。他の消費層への影響力が大きく、オピニオンリーダーとも呼ばれる。市場全体の13.5%。

・アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者):比較的慎重派な人。平均より早くに新しいものを取り入れる。ブリッジピープルとも呼ばれる。市場全体の34.0%。

・レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者):比較的懐疑的な人。周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。フォロワーズとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
ーイノベーター理論
http://www.jmrlsi.co.jp/knowledge/yougo/my02/my0219.html


JOJOファンの動向はおもにSNSなどで収集していたが、最も目立つところでファンの不満が可視化されていたのがYOUTUBEの公式予告動画のコメント欄だろう。

映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』予告2
https://www.youtube.com/watch?v=FwMv9zt_hDA

>俳優より監督にムカつく!
>糞映画確定。はよ死ねや
>大コケ続きの三池にはもう漫画原作ものはやらせない方がいいんじゃないか
>キャスティング意味不明だわ 承太郎マッチして無さすぎるし業界の「とりあえず山崎賢人使っときゃ何とかなる」脳、細胞単位で死滅してほしい
(コメント欄より抜粋)

等々、読んでるだけで気分が悪くなる罵詈雑言の嵐。低評価が高評価をはるかに上回る散々なコメント欄。ファンがこれだけ激怒している理由はおもに監督である三池崇史への不満。監督の前作、映画「テラフォーマーズ」への不満が背景にあるようだ。

そして多くの漫画原作ファンに共通する日本映画全般に対する不信。自分たちの愛する漫画がことごとく日本の映画会社によって「糞化」したことによる怒りは相当大きいようだ。私はこれを「進撃の巨人トラウマ」と名づける。

日本に一大ブームを巻き起こし、経営難の講談社をも救ったといわれる漫画「進撃の巨人」。映画が公開された2015年当時はまだそれほど原作ファンの実写映画化に対する拒否反応は少なかったように見える。しかし映画が公開されて事態は一変する。あまりにもあまりな出来にファンが激怒、Twitter上にいる映画制作者たちにその怒りを直接ぶつけるという事態になったことは記憶に新しい。

映画「進撃の巨人」酷評に監督やスタッフがブチ切れ 大人の対応した石原さとみだけ「株急上昇」
https://www.j-cast.com/2015/08/03241857.html?p=all


私はこの「進撃の巨人」映画化以降、漫画ファンの日本映画への憎悪が目に見えて高まったと見ている。

この進撃の巨人トラウマこそが、JOJOファンが公開前の映画に対しここまでむき出しの憎悪をむける背景となっていたのは間違いない。実写映画化を憎悪するJOJOファンは当然のことながら映画公開時に動こうとしなかった。すなわちアーリーアダプターとなるべき人々が映画にそっぽを向いた以上、口コミもきかず、SNSも踊らず、映画JOJOが大惨敗を喫するのはもはや必然だったといえよう。

アーリーアダプターがどれほど映画興行に影響を与えるかを見るには、「シン・ゴジラ」が適当だろう。シンゴジも公開前はそれほど評判はよくなかった。庵野秀明の実写映画の前作は、あの「キューティハニー」(2004年)だぞという嘲笑の声。試写をまったくやらないのは映画の出来に自信がないからだ、等々。

だがゴジラには初日に必ず駆けつける長年のゴジラファンがおり、庵野作品なら是が非でも観るという特濃エヴァヲタも存在していた。彼らはみな頼もしいアーリーアダプターといっていい。そして彼らは実際に作品を見て、その見事なできばえをSNSや口コミで拡散していく。アーリーアダプターが飛びついて拡散したものを映画館まで足を運ぶことに慎重なマジョリティが後追いをするようになる。実際私もシン・ゴジラはある程度客足が落ち着いてから見に行こうと思っていたものが、ネット上でのあまりの熱狂ぶりにあわてて公開二日目に足を運んだほどだった。シンゴジラの興行はアーリーアダプターが熱狂を拡散し、マジョリティが後追いするという理想的かつある意味典型的な動きだったといえるだろう。

そしてJOJOの興行はアーリーアダプターたりえた原作ファンを動かせなかった時点ですでに「詰んでいた」

JOJOも東京グールも公開前から「進撃の巨人トラウマ」というハンデを背負っていたのだ。しかしそれも作品の質が高ければ、そんなハンデや悪評も消し飛ばせただろう。だが実際に聞こえてくる評価はJOJOもグールも「決して駄作ではないが・・・」という消極的なものばかりだ。

私自身も二つの作品を見てこれは原作ファンが悪し様に罵るような駄作ではないと感じた。むしろ制作者たちは漫画ファンの「進撃の巨人トラウマ」を見越して、かなり原作に忠実に作ろうとした意図がうかがえる。

しかしJOJOも東京グールも漫画原作に忠実であろうとしたばかりにある共通した問題点を抱えている。具体的には作品の「テンポの悪さ」であり、そのテンポの悪さは二つの理由から生じている。

ひとつは原作に忠実であろうとするあまり、原作のエッセンスを凝縮する作業、いったん原作を解体し再構築するという作業を怠っている点だ。

これは漫画と映画の根本的な表現の違いによる。長期連載漫画は数多くの登場人物をさまざまなエピソードを通して深く描きこめるという利点がある。それに対し映画は2時間程度の間ですべてを表現しなくてはならないため、セリフやシーンに特徴的な意味を持たせるための「象徴化」や「シンプル化」が行われ、結果として作品は「省略化」と「スピード化」がなされる。これが原作のエッセンスを凝縮する作業、原作を解体し再構築するという作業なのだが、映画会社はこの作業を放棄したのである。これは進撃の巨人トラウマを反省したがゆえの決断だった。

映画「進撃の巨人」は原作がまだ続いているだけでなく、原作者自身からの要請により原作から大幅にストーリーを変えることを強いられた。原作を解体-再構築する必要があったのだ。そしてその結果が映画界を震撼させることとなる罵詈雑言の非難が日本映画や映画スタッフへ向けられる「進撃の巨人トラウマ」を生み出したのだ。そしてそのことを深く反省した映画人たちは「映画はなるべく原作ファンを裏切らないため原作のストーリーをなぞること」という結論を出すにいたる。

トラウマが生んだ要請。それは映画本来の持ち味である飛躍や省略を駆使した映画文法が省みられずにほとんど愚直なまでに原作のストーリーをなぞることに徹するというルールを生み出してしまった。映画的な躍動感やスピード感を犠牲にして、映像表現が漫画のストーリーを伝えるだけの道具に成り下がってしまったのだ。

JOJOの三池演出で特にテンポの悪さが目立ったのが、東方仗助の家族のシーン全般だ。人間ドラマ部分は全部カットして、アクションシーンのつらなりだけで構成してしまう大胆さがあってもよかった。原作を尊重するという意識が、三池監督が本来持つ遊び心さえ失わせてしまったのか。結局尊重されていたのは原作のストーリーだけであり、本来JOJOが持っていた遊び心、エキセントリックな表現は鈍重な演出にスポイルされてしまった。

これは東京グールも同じで、映画は終始原作からはみ出るような過剰さを一切持たずに、淡々と原作をなぞるスクエア(=生真面目)な印象だけが残る出来となっている。

実際JOJOにもグールにも思わず「ハッ!」とするようなカットやシーン、度肝を抜くようなカメラワークも構図も見られなかった。映像表現はただ物語をなぞるために使役される道具でしかなかった。

テンポの悪さを生む二つ目の理由は、身体性とCGの相性の悪さだ。

東京グールで一番ワクワクしたシーンはなにあろう、窪田正孝と清水富美加の映画「ロッキー」ばりの特訓シーンだ。高速度でお互いの身体と身体がぶつかりあう攻防、凄まじい両者の身体能力の高さと格闘技術。二人の才能ある俳優のアクションに魅了されてしまう。

だが惚れ惚れするのはここまでで、グールがもつ「赫子(カグネ)」という触手のような武器による戦闘シーンではCGが全面的に使われるため、途端に俳優の持つ身体性の輝きは失われていく。あれだけスムーズに行われた肉体同士の攻防がCGに置き換えられるとワンテンポずれてしまうのだ。

またアクションシーンにCGを多用することは、テンポが悪くなるひとつ目の理由にも関係してくる。俳優の動きにあとからCGを付け足す作業があるため、カメラは動かすことができずフィックスのままにならざるえない。平凡なカメラワークや構図の理由もここにある気がする。

JOJOの三池崇史監督、東京グールの萩原健太郎監督ともにものすごくまじめに映画を撮っていることはあきらかだ。それも原作に誠実に向きあい、原作を尊重したきまじめさが、逆に映画的なものを奪わせているという皮肉な結果になってしまってるのだが。
posted by シンジ at 19:21| Comment(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月09日

後悔から遠く離れて「ラ・ラ・ランド」の映画構造

後悔から遠く離れて「ラ・ラ・ランド」の映画構造

映画「ラ・ラ・ランド」を観る。映画と現実の境界が耳障りな不協和音で切断され、「映画」/「現実」と鍵かっことスラッシュで示される親切でわかりやすい演出。

渋滞の車列の中イライラ人たちが急に楽しげに歌い踊りだす。しかし不快なクラクションの音がけたたましく鳴り響くと途端にいつものイライラした人たちに戻る。

美しい夕闇の中(映画用語でいうマジックアワー。陽が完全に沈むわずかな時間を利用して撮影すること)でミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)がダンスするシーン(おそらくフレッド・アステア「バンドワゴン」の一場面、夜の公園を踊る二人Dancing in the darkのオマージュではないか)もうっとりしているとそれを切り裂く車のキーの音。

またはオーブンから煙が出たため鳴る、耳をつんざくような警報音。スマホから発せられる耳ざわりな着信音。ジャズかと思えば唐突に入る電子音etc..etc...

すべては夢=映画の世界から現実に引き戻すために用意された警報音でありスラッシュ/だ。なぜこのように警報音によって映画と現実とをくっきりと分け隔てる必要性があったのか。

映画の世界は可逆の世界であり、時間を自在に止めることもできる世界であり、無限の選択肢あふれる世界なのに対し、現実は不可逆であり、時間は無常にも流れていくものであり、選択肢はほぼ決められたものしかない世界だ。

歌やダンスシーンつまりミュージカルシーンが主人公二人の心象風景でないことは、すでにオープニングで示されている。イライラした人々の渋滞場面が一瞬で楽しげな場面に変わるのは誰の心も表してはいない。マジックアワーでのダンスシーンもあれだけ美しいにもかかわらずミアとセブ二人の心象風景は「別にわたし、あんたのことなんとも思っていない」である。

では観客はミアとセブふたりの心象風景でなければいったい何を見せられていたのか?

「映画」を見せられていたのだ。・・・なにをわかりきったことをと言われるのは承知の上で、もっといえば「映画の仕組み」自体を見せられていたのだ。

映画の世界は無限の可能性を持つ。時間は自在に巻き戻され、宇宙空間だろうが自由に移動でき、考えられる限り最良の選択と最良の結果が約束されている夢の世界だ。

映画の中では決して「あの時ああしていれば・・・」とか「こうしていればよかった・・・」などという後悔が生まれることはない。

レストランをクビになったときミアに失礼な態度をとらずキスをしていれば・・・。あの時ミアと一緒にパリに行っていれば・・・。彼女との幸福な家庭、かわいい子供たち、すべてが思いのままのはずだったのに・・・夢の世界/現実を隔てるスラッシュ。

そんな夢の世界=映画の世界を不協和音/が切断することによって物語の時間を進行させる演出になっていたのは観てのとおり(冬から始まるオープニングから春夏秋といちいち季節がタイトルに出るのもそういう意味)

ミスを犯しても決して元に戻れない不可逆性。時間と空間と関係性の流動性。そして生まれや財産や教育などで狭められる選択性。つまりは現実世界へようこそ、というわけだ。

私たちが映画の世界に逃げ込むには、これだけで十分な理由ではないか。

ラ・ラ・ランドは私たち観客がなぜ映画に夢中になるのか、映画が私たちにとってやむにやまれぬ避難場所になるのかを容赦なく暴きだす。

ラストシーンでセブが胸押し潰され、ピアノに顔を落とさざるえないように、私たちもまた映画にすがりつかざるえない自分の姿を見る。

「映画」自体が日々現実に胸押し潰される私たちのような人間に支えられている。「映画」を支えるのは、現実に生きる私たちの日々の後悔からの逃避であるというあけすけな「映画の構造」自体をラ・ラ・ランドは描いている。

種明かしをすれば、映画中のミュージカルシーンはミアの心象風景でもなければ、セブの心象風景を映像化したものでもない。あれは私たち観客が作り出した私たち自身の心象風景なのだ。

それこそが「映画」/「現実」と鍵かっことスラッシュで表現される、切断されながらも相互に依存する二つの世界に表現されているのだ。

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それにしてもジャスティン・ハーウィッツの音楽は素晴らしい。毎日サントラを聴いてます。ダンスナンバーのA Lovely Nightは「バンドワゴン」Dancing in the darkのオマージュのわりにはエマ・ストーンもゴズリングもダンスが下手ではないか、往年のミュージカルとは比べるべくもないなどと一蹴される方もいるでしょうが、バンドワゴンのアステアもシド・チャリシーもあまりにもエレガントすぎて、遠い世界のことに感じられるのに対し、エマ・ストーンのダンスは不恰好ながらコミカルで「生」の迫力、身体性やアクチュアリティを感じさせるので、私は大好きです。
posted by シンジ at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする