2017年08月11日

なぜ映画ジョジョの奇妙な冒険と東京喰種は失敗したのか?「進撃の巨人トラウマ」という背景

なぜ映画ジョジョの奇妙な冒険と東京喰種は失敗したのか?「進撃の巨人トラウマ」という背景

日本の映画界は近年漫画原作に頼るのが常だ。理由はオリジナル作品や原作が小説の場合、客がどれくらい入るかまったく読めないのに対し、すでに数百万部、数千万部も売れている漫画原作は、映画会社上層部にプレゼンしやすく、製作委員会方式なら金も集まりやすい。わかりやすい「数字」が見える以上成功もたやすいと考えられているわけだ。

なかでも漫画として1億部以上売れているジョジョの奇妙な冒険や1800万部以上売れている東京喰種(グール)は熱狂的なファンが多い超人気作であり、映画化に期待されていた今年一番の注目作であったことは間違いない。JOJOなら東宝とワーナーが組むという異例の体制での大作であり、東京グールは松竹史上でも最大の予算をかけたと喧伝される大作だ。

だがしかし、こうしたメジャー映画会社の鳴り物入りの企画がまさかここまで無残に失敗するとは誰が予想しえたであろうか。

JOJOの奇妙な冒険の興行収入初動(土日二日間)は動員11万7000人、興収1億6600万円、ランキング5位だった。初動1.6億円がどういうことかを簡単に説明するとほぼ確実に最終興収10億円に届かない目も当てられない大失敗ということになる。

東京グールは初動が16万6000人、興行収入約2億3200万円、ランキング5位。この数字は悪くないように思えるが、なんと公開2週目はベスト10圏外という異常事態。これも興収10億円には届かずに終わる可能性が高い。大惨敗といっていい。JOJOもグールも映画会社は興行収入30億円以上を当て込みシリーズ化をもくろんでいたはずなのに。

いったいなぜこのような興行的惨敗が起きたのか?まず映画公開前の問題点をあぶりだしてみよう。

特にJOJOに顕著なのだが、本来映画の口コミの火付け役=アーリーアダプターとなるべき原作ファンが映画製作発表時に一斉に敵に回ったことが誤算中の誤算だった。

・アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者):流行に敏感で、情報収集を自ら行い、判断する人。他の消費層への影響力が大きく、オピニオンリーダーとも呼ばれる。市場全体の13.5%。

・アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者):比較的慎重派な人。平均より早くに新しいものを取り入れる。ブリッジピープルとも呼ばれる。市場全体の34.0%。

・レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者):比較的懐疑的な人。周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。フォロワーズとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
ーイノベーター理論
http://www.jmrlsi.co.jp/knowledge/yougo/my02/my0219.html


JOJOファンの動向はおもにSNSなどで収集していたが、最も目立つところでファンの不満が可視化されていたのがYOUTUBEの公式予告動画のコメント欄だろう。

映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』予告2
https://www.youtube.com/watch?v=FwMv9zt_hDA

>俳優より監督にムカつく!
>糞映画確定。はよ死ねや
>大コケ続きの三池にはもう漫画原作ものはやらせない方がいいんじゃないか
>キャスティング意味不明だわ 承太郎マッチして無さすぎるし業界の「とりあえず山崎賢人使っときゃ何とかなる」脳、細胞単位で死滅してほしい
(コメント欄より抜粋)

等々、読んでるだけで気分が悪くなる罵詈雑言の嵐。低評価が高評価をはるかに上回る散々なコメント欄。ファンがこれだけ激怒している理由はおもに監督である三池崇史への不満。監督の前作、映画「テラフォーマーズ」への不満が背景にあるようだ。

そして多くの漫画原作ファンに共通する日本映画全般に対する不信。自分たちの愛する漫画がことごとく日本の映画会社によって「糞化」したことによる怒りは相当大きいようだ。私はこれを「進撃の巨人トラウマ」と名づける。

日本に一大ブームを巻き起こし、経営難の講談社をも救ったといわれる漫画「進撃の巨人」。映画が公開された2015年当時はまだそれほど原作ファンの実写映画化に対する拒否反応は少なかったように見える。しかし映画が公開されて事態は一変する。あまりにもあまりな出来にファンが激怒、Twitter上にいる映画制作者たちにその怒りを直接ぶつけるという事態になったことは記憶に新しい。

映画「進撃の巨人」酷評に監督やスタッフがブチ切れ 大人の対応した石原さとみだけ「株急上昇」
https://www.j-cast.com/2015/08/03241857.html?p=all


私はこの「進撃の巨人」映画化以降、漫画ファンの日本映画への憎悪が目に見えて高まったと見ている。

この進撃の巨人トラウマこそが、JOJOファンが公開前の映画に対しここまでむき出しの憎悪をむける背景となっていたのは間違いない。実写映画化を憎悪するJOJOファンは当然のことながら映画公開時に動こうとしなかった。すなわちアーリーアダプターとなるべき人々が映画にそっぽを向いた以上、口コミもきかず、SNSも踊らず、映画JOJOが大惨敗を喫するのはもはや必然だったといえよう。

アーリーアダプターがどれほど映画興行に影響を与えるかを見るには、「シン・ゴジラ」が適当だろう。シンゴジも公開前はそれほど評判はよくなかった。庵野秀明の実写映画の前作は、あの「キューティハニー」(2004年)だぞという嘲笑の声。試写をまったくやらないのは映画の出来に自信がないからだ、等々。

だがゴジラには初日に必ず駆けつける長年のゴジラファンがおり、庵野作品なら是が非でも観るという特濃エヴァヲタも存在していた。彼らはみな頼もしいアーリーアダプターといっていい。そして彼らは実際に作品を見て、その見事なできばえをSNSや口コミで拡散していく。アーリーアダプターが飛びついて拡散したものを映画館まで足を運ぶことに慎重なマジョリティが後追いをするようになる。実際私もシン・ゴジラはある程度客足が落ち着いてから見に行こうと思っていたものが、ネット上でのあまりの熱狂ぶりにあわてて公開二日目に足を運んだほどだった。シンゴジラの興行はアーリーアダプターが熱狂を拡散し、マジョリティが後追いするという理想的かつある意味典型的な動きだったといえるだろう。

そしてJOJOの興行はアーリーアダプターたりえた原作ファンを動かせなかった時点ですでに「詰んでいた」

JOJOも東京グールも公開前から「進撃の巨人トラウマ」というハンデを背負っていたのだ。しかしそれも作品の質が高ければ、そんなハンデや悪評も消し飛ばせただろう。だが実際に聞こえてくる評価はJOJOもグールも「決して駄作ではないが・・・」という消極的なものばかりだ。

私自身も二つの作品を見てこれは原作ファンが悪し様に罵るような駄作ではないと感じた。むしろ制作者たちは漫画ファンの「進撃の巨人トラウマ」を見越して、かなり原作に忠実に作ろうとした意図がうかがえる。

しかしJOJOも東京グールも漫画原作に忠実であろうとしたばかりにある共通した問題点を抱えている。具体的には作品の「テンポの悪さ」であり、そのテンポの悪さは二つの理由から生じている。

ひとつは原作に忠実であろうとするあまり、原作のエッセンスを凝縮する作業、いったん原作を解体し再構築するという作業を怠っている点だ。

これは漫画と映画の根本的な表現の違いによる。長期連載漫画は数多くの登場人物をさまざまなエピソードを通して深く描きこめるという利点がある。それに対し映画は2時間程度の間ですべてを表現しなくてはならないため、セリフやシーンに特徴的な意味を持たせるための「象徴化」や「シンプル化」が行われ、結果として作品は「省略化」と「スピード化」がなされる。これが原作のエッセンスを凝縮する作業、原作を解体し再構築するという作業なのだが、映画会社はこの作業を放棄したのである。これは進撃の巨人トラウマを反省したがゆえの決断だった。

映画「進撃の巨人」は原作がまだ続いているだけでなく、原作者自身からの要請により原作から大幅にストーリーを変えることを強いられた。原作を解体-再構築する必要があったのだ。そしてその結果が映画界を震撼させることとなる罵詈雑言の非難が日本映画や映画スタッフへ向けられる「進撃の巨人トラウマ」を生み出したのだ。そしてそのことを深く反省した映画人たちは「映画はなるべく原作ファンを裏切らないため原作のストーリーをなぞること」という結論を出すにいたる。

トラウマが生んだ要請。それは映画本来の持ち味である飛躍や省略を駆使した映画文法が省みられずにほとんど愚直なまでに原作のストーリーをなぞることに徹するというルールを生み出してしまった。映画的な躍動感やスピード感を犠牲にして、映像表現が漫画のストーリーを伝えるだけの道具に成り下がってしまったのだ。

JOJOの三池演出で特にテンポの悪さが目立ったのが、東方仗助の家族のシーン全般だ。人間ドラマ部分は全部カットして、アクションシーンのつらなりだけで構成してしまう大胆さがあってもよかった。原作を尊重するという意識が、三池監督が本来持つ遊び心さえ失わせてしまったのか。結局尊重されていたのは原作のストーリーだけであり、本来JOJOが持っていた遊び心、エキセントリックな表現は鈍重な演出にスポイルされてしまった。

これは東京グールも同じで、映画は終始原作からはみ出るような過剰さを一切持たずに、淡々と原作をなぞるスクエア(=生真面目)な印象だけが残る出来となっている。

実際JOJOにもグールにも思わず「ハッ!」とするようなカットやシーン、度肝を抜くようなカメラワークも構図も見られなかった。映像表現はただ物語をなぞるために使役される道具でしかなかった。

テンポの悪さを生む二つ目の理由は、身体性とCGの相性の悪さだ。

東京グールで一番ワクワクしたシーンはなにあろう、窪田正孝と清水富美加の映画「ロッキー」ばりの特訓シーンだ。高速度でお互いの身体と身体がぶつかりあう攻防、凄まじい両者の身体能力の高さと格闘技術。二人の才能ある俳優のアクションに魅了されてしまう。

だが惚れ惚れするのはここまでで、グールがもつ「赫子(カグネ)」という触手のような武器による戦闘シーンではCGが全面的に使われるため、途端に俳優の持つ身体性の輝きは失われていく。あれだけスムーズに行われた肉体同士の攻防がCGに置き換えられるとワンテンポずれてしまうのだ。

またアクションシーンにCGを多用することは、テンポが悪くなるひとつ目の理由にも関係してくる。俳優の動きにあとからCGを付け足す作業があるため、カメラは動かすことができずフィックスのままにならざるえない。平凡なカメラワークや構図の理由もここにある気がする。

JOJOの三池崇史監督、東京グールの萩原健太郎監督ともにものすごくまじめに映画を撮っていることはあきらかだ。それも原作に誠実に向きあい、原作を尊重したきまじめさが、逆に映画的なものを奪わせているという皮肉な結果になってしまってるのだが。
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2017年03月09日

後悔から遠く離れて「ラ・ラ・ランド」の映画構造

後悔から遠く離れて「ラ・ラ・ランド」の映画構造

映画「ラ・ラ・ランド」を観る。映画と現実の境界が耳障りな不協和音で切断され、「映画」/「現実」と鍵かっことスラッシュで示される親切でわかりやすい演出。

渋滞の車列の中イライラ人たちが急に楽しげに歌い踊りだす。しかし不快なクラクションの音がけたたましく鳴り響くと途端にいつものイライラした人たちに戻る。

美しい夕闇の中(映画用語でいうマジックアワー。陽が完全に沈むわずかな時間を利用して撮影すること)でミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)がダンスするシーン(おそらくフレッド・アステア「バンドワゴン」の一場面、夜の公園を踊る二人Dancing in the darkのオマージュではないか)もうっとりしているとそれを切り裂く車のキーの音。

またはオーブンから煙が出たため鳴る、耳をつんざくような警報音。スマホから発せられる耳ざわりな着信音。ジャズかと思えば唐突に入る電子音etc..etc...

すべては夢=映画の世界から現実に引き戻すために用意された警報音でありスラッシュ/だ。なぜこのように警報音によって映画と現実とをくっきりと分け隔てる必要性があったのか。

映画の世界は可逆の世界であり、時間を自在に止めることもできる世界であり、無限の選択肢あふれる世界なのに対し、現実は不可逆であり、時間は無常にも流れていくものであり、選択肢はほぼ決められたものしかない世界だ。

歌やダンスシーンつまりミュージカルシーンが主人公二人の心象風景でないことは、すでにオープニングで示されている。イライラした人々の渋滞場面が一瞬で楽しげな場面に変わるのは誰の心も表してはいない。マジックアワーでのダンスシーンもあれだけ美しいにもかかわらずミアとセブ二人の心象風景は「別にわたし、あんたのことなんとも思っていない」である。

では観客はミアとセブふたりの心象風景でなければいったい何を見せられていたのか?

「映画」を見せられていたのだ。・・・なにをわかりきったことをと言われるのは承知の上で、もっといえば「映画の仕組み」自体を見せられていたのだ。

映画の世界は無限の可能性を持つ。時間は自在に巻き戻され、宇宙空間だろうが自由に移動でき、考えられる限り最良の選択と最良の結果が約束されている夢の世界だ。

映画の中では決して「あの時ああしていれば・・・」とか「こうしていればよかった・・・」などという後悔が生まれることはない。

レストランをクビになったときミアに失礼な態度をとらずキスをしていれば・・・。あの時ミアと一緒にパリに行っていれば・・・。彼女との幸福な家庭、かわいい子供たち、すべてが思いのままのはずだったのに・・・夢の世界/現実を隔てるスラッシュ。

そんな夢の世界=映画の世界を不協和音/が切断することによって物語の時間を進行させる演出になっていたのは観てのとおり(冬から始まるオープニングから春夏秋といちいち季節がタイトルに出るのもそういう意味)

ミスを犯しても決して元に戻れない不可逆性。時間と空間と関係性の流動性。そして生まれや財産や教育などで狭められる選択性。つまりは現実世界へようこそ、というわけだ。

私たちが映画の世界に逃げ込むには、これだけで十分な理由ではないか。

ラ・ラ・ランドは私たち観客がなぜ映画に夢中になるのか、映画が私たちにとってやむにやまれぬ避難場所になるのかを容赦なく暴きだす。

ラストシーンでセブが胸押し潰され、ピアノに顔を落とさざるえないように、私たちもまた映画にすがりつかざるえない自分の姿を見る。

「映画」自体が日々現実に胸押し潰される私たちのような人間に支えられている。「映画」を支えるのは、現実に生きる私たちの日々の後悔からの逃避であるというあけすけな「映画の構造」自体をラ・ラ・ランドは描いている。

種明かしをすれば、映画中のミュージカルシーンはミアの心象風景でもなければ、セブの心象風景を映像化したものでもない。あれは私たち観客が作り出した私たち自身の心象風景なのだ。

それこそが「映画」/「現実」と鍵かっことスラッシュで表現される、切断されながらも相互に依存する二つの世界に表現されているのだ。

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それにしてもジャスティン・ハーウィッツの音楽は素晴らしい。毎日サントラを聴いてます。ダンスナンバーのA Lovely Nightは「バンドワゴン」Dancing in the darkのオマージュのわりにはエマ・ストーンもゴズリングもダンスが下手ではないか、往年のミュージカルとは比べるべくもないなどと一蹴される方もいるでしょうが、バンドワゴンのアステアもシド・チャリシーもあまりにもエレガントすぎて、遠い世界のことに感じられるのに対し、エマ・ストーンのダンスは不恰好ながらコミカルで「生」の迫力、身体性やアクチュアリティを感じさせるので、私は大好きです。
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2017年02月04日

庵野秀明は天才か二流か。庵野秀明論

庵野秀明は天才か二流か。庵野秀明論

「人間が天才でいられる時間は短い。しかしプロは生涯プロでいられる。才能を技術として体系化できるからだ。」佐藤大輔「虚栄の掟」


庵野秀明の評価はエヴァンゲリヲン、シン・ゴジラを経てもなお毀誉褒貶が激しいように見える。その評価には天才というものもあれば、オリジナリティのない映画作家というものもある。

いったい庵野秀明は天才なのかそうではないのか。

たとえば押井守はTVBros2016年9月10日号でこういうことを言っている。

(庵野は)全部コピーだよ。レイアウトからテーマにいたるまで、言ってみればすべてがコピー。初代「ゴジラ」と同じレイアウトがどんだけ出てくるか知ってるの?わざわざゴジラと電車を組み合わせたのも初代「ゴジラ」を意識したものだし。さっきも言った岡本喜八の「日本の一番長い日」とか、数えだしたらきりがない。


庵野の色は何かといえば、真っ白なんだよ。あいつの好きだったものが全部、反射されているだけ。芯というものがないんだけど、それが庵野という存在。一応言っておくけど否定的な意味じゃなくて、客観的にそうだといってるだけだからね。ただしその反射する能力は天下一品であるということ。コピーの天才であるだけで、本当にたいしたもんだと思うよ。ー押井守


押井守の庵野評価は「コピーの天才」。褒めているようで実際は揶揄しているかのようだ。

また映画評論家で庵野秀明を高く評価しているモルモット吉田氏も庵野秀明は映画作家として欠点だらけの存在であると指摘する。

庵野実写映画の最大の欠点となるのが、俳優という自意識を肥大化させた表現者をコントロールできないという問題である。基本的に演技は俳優にお任せで、庵野はカメラアングルや、画面内のレイアウトを作りこむことに専念しているのは映画を観ても伝わってくるが、『ラブ&ポップ』の様なドキュメンタリー的な手法が内容にも合致する場合は成功するものの、『式日』で藤谷文子と大竹しのぶのアドリブ合戦を長回しで見せるなどというシーンになると、過剰な演技を編集で除去できなくなり、映画全体の均衡すらも崩している。


(庵野は)描写を積み重ねて〈過程〉を描くことに興味がないのだ。そこが庵野実写の重大な欠落部分でもあったが、『シン・ゴジラ』でその欠点が目立たずに済んでいるのは、膨大な情報量と台詞を絶えず流し込むことで、過程の省略を補っているからだろう。ー「モルモット吉田が評する実写監督としての庵野秀明」Real Sound映画部



実写監督としての庵野秀明は、娯楽大作を自在にこなせるタイプではないにもかかわらず、このプロットはかなりの職人的技倆が必要とされる内容なのである。庵野が優れているのは、予算規模と自身の能力とを的確に計算し、〈出来ること/出来ないこと〉の線引きが明確なことだろう。
『シン・ゴジラ』脚本から見えた“もう一つの物語” 『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』徹底考察・Real Sound映画部



モルモット吉田氏の庵野評価は映画作家としてはともかく「演出家としては二流」といったものだろう。吉田氏の指摘が全面的に正しいかどうかはわからない。私は撮影現場での庵野の演出法を見ているわけでもないし、庵野の演出を受けた俳優たちにインビューしたわけでもないからである。しかし「シン・ゴジラ」に出演した映画監督でもある塚本晋也はこう証言する。

重要なセリフを言うシーンについて「庵野監督がものすごく興奮して、『あなたはそのために雇われた』と言った。緊張してトイレで練習した」と、大げさな演技で再現。「ダメ出しもされず毎回その調子でやっていたら、本番前に『じゃあ普通にやってください』って。庵野監督はそこがうまい。普通と無茶苦茶の狭間がちょうどいい演技で、最終的に導き出すことが見えていた。さすがの演出術ですよ。ただ者じゃありませんね」ー『シン・ゴジラ』キャストが語る裏側



また矢口蘭堂(長谷川博己)がヤシオリ作戦前に自衛隊特殊建機小隊に向かって演説する場面で、最初のテストはよかったが、本番1回目で長谷川博己のボルテージが落ちたときがあった。そのときの庵野は長谷川博己をこう演出したという。

「最初のあなたの芝居を見て、僕はとても感動しました。きっとあなたは昨晩、こういう風にやろう、ああいう風にやろうと、考えたんだと思います。その思いをずっとため込んで、ため込んだものがテストの1回目に全部出たから、それが届いて、僕は感動したんだと思うんです。けれど、2回目は、同じように持っていこうという意識が働いて、ちょっと、作り物っぽくなっていました。次は、うまく見せようとか、リズムよくしゃべろうとか、そんなことを考えなくていいので、自分の感情の流れのまま、セリフをしゃべって欲しい。語尾とかも言いにくかったら変えてもらって構わないですから」ージ・アート・オブ・シン・ゴジラ 大庭功睦監督助手による証言


塚本晋也に対するものといい、長谷川博己に対するものといい、見事な俳優操作術といっていい。

はたして庵野秀明は「オリジナリティのないコピーだけの存在」で、「俳優をまともに演出できない二流の演出家」なのか。だとするなら、庵野は何を評価されているのだろうか。

「天才」の定義を考えてみよう。天才とはギフテッド (gifted)という呼称もあるように、天から、もしくは神からの「贈り物」。あるいは「無」から「有」を生み出す才能といわれる。

こうした定義ですぐにイメージが沸く人物は手塚治虫だろう。たいしてインプットがあるとも思えないのにあの膨大なアウトプットの量。無限とも思われるアイデアの数々。ギフテッドとしか呼びようのないものを手塚治虫は授けられた様に見える。

たしかに「天才」がこういった定義なら庵野秀明は「天才」の定義には当てはまらないように思える。庵野は自身も認めるようにコピー世代であり、引用やオマージュ、自分の好きな作品のコラージュで映画を作っているように見えるからだ。彼は無から有を生み出すことなどできないし、作品を創るごとに空っぽになり、次の作品を創るまで何年もインプットしなければならない人だ。

庵野秀明は近代が作り出したイメージの「天才」ではないことは確かだ。では彼はいったい何なのか?私は彼を「高度資本主義消費社会」に特化した天才といいたい。

「高度資本主義消費社会」をボードリヤール風にいうなら、消費が財の取得や蓄積を価値において上回り、差異と意味を生産する。そしてその差異と意味の関係性をさらに消費する世界のことである。

庵野秀明をこう評した人がいる。
anno001.png
宮崎監督の諸作品を見ても分かると思うが、あの人は組織を描けない。あの人が組織を描くと、例えばカリオストロやラピュタで出てきた軍のように、カトゥーン的な戯画化された形になってしまうんだ。あるいはもののけ姫のタタラ場のような、中間層のないフラットな組織になってしまう。


anno002.png
これってつまり、宮崎監督は組織を信じていない、組織を理解できないって事だと思う。対して真逆な監督は押井守なんだけども、この人の欠点は組織を理解できるが信じていないって事かな。彼が描くとどうしても組織への絶望感が強調されてしまい、個人力という方向になりがちなんだ。


anno003.png
この2名に比べ庵野監督は非常に健康的というか、全員が力を結集して物事に当たるというのをナチュラルに描けているんだ。実のところ庵野監督のこの作風はトップをねらえの頃から全く変わっていないんだ。


宮崎駿は組織を理解できないし信じていない、押井守は組織を理解はできるが信じてはいない。それに対し庵野秀明は組織を理解できるし組織を信じている。

この対照的な作風は庵野秀明と宮崎駿、押井守とを決定的に分かつ資質だ。庵野秀明は映画作家であると同時に、組織運営をつかさどる経営者でもあるのだ。経営者庵野秀明が自身の経営術についてだけ話す貴重なインタビューがある。

「庵野秀明監督が初めて語る経営者としての10年」
http://diamond.jp/articles/-/107910

ここでの庵野は暴君的な映画作家として知られる彼の姿とは程遠いものだ。ビジネスマン庵野はコスト意識を重視し、リクープラインを押さえた商売をすることを常に念頭に置いているという。

──経営で重視しているのはどのような点ですか。

庵野・言い方が難しいのですが、「なるべくもうかる商売をする」ということを意識しています。リクープラインを押さえた商売をする、つまり赤字にしないということです。

そのためには、麻雀に例えれば、トップを狙わずに2番手に位置し続けるということです。トップを取れなくても、負けないようにする。それには相手に振り込まず、良くても満貫(5翻)を狙うぐらいでいい。それを何年か繰り返していればおのずと一番になれるということだと思います。

──役満(13翻以上)狙いではないのですね

庵野・よほどのことがない限り、勝負には出ません。満貫止まりでいいのです。その考えも、私の性質かなと思っています。

監督のときもリクープラインを常に考えています。唯一考えなかったのは、実写映画『式日』のときだけです。あれは当時の徳間(康快・徳間書店)社長が「これは商売抜きでいい」とおっしゃったので。ー「庵野秀明監督が初めて語る経営者としての10年」


ジ・アート・オブ・シン・ゴジラで明らかになった現場乗っ取り事件を起こした張本人とは思えない、あまりにも現実主義的、ビジネスライクな考え方にあ然としてしまう。

古今東西の偉大な映画監督たち、D.W.グリフィスやエーリッヒ・フォン・シュトロハイム。溝口健二や黒澤明。フェリーニやヴィスコンティなどの「近代的天才」イメージの監督たちとは根本的に異なった存在といわざるえない。

彼ら近代的イメージの天才たちは金に一切糸目をつけないで、どれだけ撮影時間が押そうが、雲が晴れるのを何週間でも待ち自分のビジョンを実現するためにあらゆる犠牲を強いる存在だ。

それに対し庵野はコスト計算をし、リクープラインを常に考え、貸借対照表(BS)と損益計算書(PL)とにらめっこする映画作家だ。さらに彼は近代的イメージの天才映画作家たちが絶対に考えないことを考える。それがファンとの関係性だ。

僕はマニアやファンのことを考えて映画を作ったことは一度もないけど、庵野はちゃんと考えている。−押井守


作品を実際に作っているのは監督ではなく、スタッフです。さらに、作品の土台を経済的に支えてくれるのはファンの人たちです。ファンとスタッフは大事にしなければなりません。これがデファクト(標準)であり、当然のこと。作品を作り続けるには、両者に対して還元をしていかなければならないという考えがあります。ー庵野秀明


大事にしている基準は、ファン目線です。この連携をしたら、作品にとって広がりが出るかとか、ファンの方の喜ぶ姿が見られるのかとか、そういうことを重視しています。商売は二の次です。結局、ファンの方を中心に考えることが回り回って商売につながると思います。


製作だけでなく、宣伝や版権管理まで行うことで、ファンサービスまで自由にできる。ファンとの関係まできちんとコントロールできることが大事なのです。ー庵野秀明監督が初めて語る経営者としての10年


ここまでファンのことを考えている映画作家など前代未聞ではなかろうか。F.W.ムルナウや溝口健二、フェデリコ・フェリーニが1ミリでも自分のファンのことを考え映画を撮ったことなどあるだろうか?・・・絶対にない。

自分とファンとの関係性までも「コントロール」しようとする映画作家など映画100年の歴史の中でも庵野秀明ただ一人だろう。

近代的イメージの天才たち。ギフテッド、無から有を作り出す者たち。庵野はそうした天才では明らかにない。しかし彼は高度資本主義消費社会に特化した才能を得た。

それがコピーの才能であり(自身にとって快楽的な映像をコピーし、ろ過した上でペーストしてファンに提供できる才能)

ビジネスマンとしてのコスト意識であり(予算規模と自身の能力とを的確に計算し、〈出来ること/出来ないこと〉の線引きが明確なことーモルモット吉田)

組織を理解し組織を信じ組織を最大限活用することであり

製作だけでなく、宣伝や版権管理までも手がけることであり

映画作家で世界で唯一といっていいファンとの関係性をコントロールすることに意識的であることである。

この中で最も重要なのはファンとの関係性をコントロールする高度資本主義消費社会に特化した才能だろう。すなわちファンとの関係性を生産し、ファンとの関係性を消費するという才能。ここからなぜ庵野作品はエヴァにしてもシン・ゴジラにしてもあれほどの熱狂と議論と考察が渦巻くのかが理解されるだろう。

庵野秀明は従来の映画作家たちでは到底ありえない能力、組織と商売を理解する能力。関係性を生産し消費するという構造自体を生み出す高度資本主義消費社会に特化した才能を得たのである。

そしてなにより恐ろしいのは映画制作と製作、音響、宣伝、版権管理、経営。そしてファンとの関係まで自分に関わる物事のすべてをコントールしなければ気がすまないコントロールマニアックなところであろう。

彼は近代的な意味での天才ではなく、近代以後の資本主義社会が生み出した複合的な意味での天才といっていい。

庵野秀明の特殊性はそうした複合的な才能を活かし、差異と意味と関係性の生産と消費のウロボロス構造を自らの中に作り上げた点にある。それを「天才」といってしまうと逆に矮小化することになるかもしれない。
posted by シンジ at 13:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする